2024 11 14 ひたすら編集をする

一歩も外に出ていない。ひたすら動画の編集をしていた。 https://youtu.be/Q6X3UrXSrhk 終電後、東京の編集は多分普通の動画編集よりもずっと楽で、つぎはぎがいらない。 ただただ全部見て、その時思っていたことを思い出しながら字幕を付けていくだけだ。 それでも、ある程度頭のメモリに内容を置きながら作業するので、一気に作業してしまわないと話が合わなくなってくる。 それに、撮影した日から日を開けてはならないという制約もある。 これをしているとテレビ番組の編集とかがいかに大変かよくわかる。マルチカメラで、最終的な時間がぴっちり決まっていて、さらに面白い部分を抜き出すという創作的な部分も入ってくる。 本当に大変なことだろう。それは専用のキーボードとかありとあらゆるソフトウェア、製品が出てくるわけである。 最近公開された「桜井正博のゲームを作るには」の最終回では、編集費用で8000万円近い費用が掛かっていることが明かされた。 https://youtu.be/drV0RYUbYUA?si=02-lS3F05DXwCtJG 一本当たり30万円。多分一般的にはこんな10分ぐらいの動画で、台本もあって、ゲーム画面などの素材はすべて提供してこの値段は高い!と思うのではないだろうか。 ただこの字幕や画面の動きを付けるなど仕組化をしても意外と工数が減らないところがたくさんあるのが動画編集の恐ろしいところである。 音を選んだりするのでも一苦労だ。会社で受けるとしたらそのぐらいの金額にはなってしまうだろうなと思う。月4本コンスタントにということになれば1.5人月とか行ってしまうかも。そしたらもうギリギリすぎる。 僕の場合ストリートフォトグラフィーは一日歩いても全然いい写真ができなかったという大変さがあるので、現状では動画の方が若干楽に感じている。 動画は持って回していればそれなりにストーリー性が出てくるし、音がちゃんと録れていれば環境映像としてそれなりに見れてしまうからだ。 写真は全くダメな時は本当にダメ。街がどうということよりも、自分自身の好奇心が活発な時じゃないと本当に撮れない。もちろんそこには街と自分の相性みたいなところもあるだろう。 最近、動画的面白さを感じている。写真屋さんなので写真の軸はブラさないが、動画でしかこれは伝わらなかったかもなと思う要素がいくつか発見できて来ていて面白い。例えば超高層ビル群は上を向いて広角レンズで撮っても、魚眼で撮ってもなんかその迫力というか圧迫感みたいなのは伝わらないが、動画だと伝えやすい。見上げて下がってくるという時間を使った絵で伝えることができる。 あと、こんなにずっと静かなんだという今回の作品の重要な部分も5時間という長さで伝えきることができる。演出に時間軸が使えるということはこれほど豊かなことなのかと実感する。同時に、かなり視線・視点を強制してしまうので余白が狭いものになるなとも感じるが。 今ちょっと写真の出来が悪くなっている。動画が面白いというのもあると思うし、体調的なものもあるかもしれない。でも結局そういうときも撮り続けるしかないんだなと思う。

November 17, 2024

2024 11 13 展示会って

InterBEEという展示会を見に行った。一応映像系の展示会ということで年に一回開催される。 かれこれコロナを挟んで4ぐらい通っていて、毎回近くのカレー屋の食べ放題を食べるのが恒例行事となっている。 さて、こんな感じで恒例行事だから展示会に行っているが、毎年の差分は段々と小さくなる。 中身で大きな違いを感じることはあまりなく、新製品の情報は事前に知っていてもちろんそれを手に取って試せるというのは大きいのだが、 それにしてもこんなに大規模な展示を毎回数千万円かけて作っては数日間開催したらまた壊してということを繰り返す意味はないような感じがする。 意味はないような感じがするのだが、効果があるのが展示会のすごいところだ。実際、コロナでなくなっても復活しているし、オリンピックでビックサイトが使えなくなったときはありとあらゆる会社が本当に困っていた。 まず中小企業にとって、新規営業先開拓の手段が事実上展示会しか存在しないというのはわかる。特に製造業とかは実物を見せる効果は高い。エンジニアの人がブースにいれば普段できない話もできる貴重な機会になる。流通業にとっても店舗販売をしておらずショールームを持っていなければ実物を多くの人に見せるいい機会になる。 大企業はとてつもなく大きなブースをコストをかけて出すことでその業界に対するプレゼンスを維持するという意味合いがあるだろう。 今回はInterBEEという映像業界、特に放送業界の展示会だが、放送業界の中という非常に狭い(といっても広いほうだと思うが)世界に対してコミットメントを示すことができる。 ドイツのケルンで行われている展示会と、ラスベガスで行われている展示会に行ったことがあるが、あちらではさらにアフターパーティーで豪勢なイベントを開くことも多く、立った数日間にかける費用は桁違いだ。 そのぐらい、toCというよりもtoB、つまり業界内の知名度というのは重要ということなのだろう。これは顧客企業のみならず業界紙などのプレスに対する意味合いも強い。 会社内の統率という意味でも、何らかの外部の締め切りがあったほうがいろいろまとまりやすい。広報関係の部署を中心に何かを完成させるということをするために展示会は一役買っているのだろう。実際、展示会では参加した社員全員で記念写真を撮るなど、お祭りというか学園祭的要素も強い。 参加する側としても展示会であれば平日の業務時間内に行けるという大きな意味がある。場合によっては出張費も出るだろう。不謹慎な言い方をすればちょっとした旅行気分で情報収集ができるのだからこれほどありがたいことはない。ショールームに単独で行くのに出張費はなかなか出ないだろうが、展示会ともなればそれなりのまとまった人数分出してもらう交渉はしやすいだろう。 そんなこんなで結局効果がある展示会。 でもやっぱりそこに数億円かけて大量のごみを毎回生み出し続けているのは無駄だなあと思ってしまう。モーターショーともなればモックアップ一つで数億円。コンセプトを示すためだけに作られ、捨てられてしまう。そんなショーを永遠と繰り返してしまっていいのだろうかと思う。1年にい1回でも大規模なものとなればもうそこにフルタイムの人が何人もついてやっとだろう。先述の通り昨年のに加えてプラス新製品という形になるだろうから、段々と陳腐化してきてしまう。 結局のところ、ルッキズムとはまたちょっと違うけれども、実際にでかいブースがある、たくさんの社員の人がいる、豪華なノベルティ、実物を触ってみることができるということに私たちはあまりにも弱いのだろう。だからこそここまでAmazonで返品が容易になっても駅前にヨドバシカメラが幅を利かせ続けている。 情報がいくらでも入る時代、事前に隅々まで比較して調べることができる。何なら実物を見たり店舗に行ったりするころにはほとんどもう決まっている。だけれども最後の一押しはやっぱり人と話しながら、実物を見ながら店舗なのかもしれないなと思う今日この頃だ。なんかいやだけど。

November 17, 2024

2024/11/12/終電後、東京について考える

一昨日少し書いたが、今やっていることについてもうひとひねりというか、別にひねらないでもいいんだけどもうちょっと精緻に言語化する必要がある感じがしている。 それがないせいで、段々と写真が撮れなくなってきている。 写真は幾何学的に面白いところを撮ればとりあえずは成立するのだが、そうすると対象は段々と限られてくる。 郊外を歩けば幾何学的に面白い部分は少なく、どうしても都心に偏重してしまう。それに、何らかの通底するテーマに沿って撮りたいというのが贅沢かもしれないが、最近の希望だ。 もちろん、街の中である特定の角度から撮るとおもしろかったり、きれいな角度を発見するというのは面白いのだが、それだけでは満足できなくなってきている。 「終電後、東京」(https://youtube.com/playlist?list=PLeKhZDtYiZfHiRLI-D-7ixPiETt6AZLf5&si=TT61a8QLLq94oamw)は平和のメッセージとして撮っている。 深夜、都市部をそれなりに高価な機材をもってこれほどうろつくことができるほど平和な街もそれほどない。この先どうなるかわからないし、東京の中でもそういう場所ばかりではないがかなりの範囲特に治安を気にせず撮影しながら歩くことができる。 同時に、“治安”という言葉と否応がなしに向き合わされる。こんなに治安がいいなんてことはあるのだろうか?あっていいことなのだろうか。もはや、何かを弾圧した結果なのではないのかと思えてくる。1925年に制定された治安維持法が1945年に敗戦しGHQによる人権指令に基づいて廃止された歴史を振り返るに、我々は治安という言葉がいかに危ういものかを知っているはずだ。 しかし、東京は安全、安心、防犯のためといってありとあらゆることをしてくる。最終的には張り巡らされた電車を使って外へ外へと追いやってしまう。 何も追いやられるものは“不審”な人だけではない。開発を行い人々の生活事態も外へ外へ、ドアの中へと押しやっているのだ。その結果がこの気味の悪いほど静かな街なのではないかと思って撮り続けている。 なので、毎回同じような絵でもここでもそう、あっちでもそう。ここは生活感が染み出しているなといった観測としての意味合いはあるのだが、若干メッセージ性としては弱い感じがしている。 いや、でも、ストリートフォトグラフィーというのはそういう地道な観測の継続と積み重ねなのかもしれない。ここで下手に創作性を入れて写実性を削いでしまったり、わかりやすさをことさら強調しないほうがいいのかもしれない。 ただ、いや、何とも言えないのだが、もうちょっと伝わる形を模索しないといけない感じがしている。

November 12, 2024

2024/11/11/矛盾をどう解消するべきなのか

自分の考えと自分の行動、自分のやりたいことに矛盾が生じてくる。そんなことはよくある話なのだが、私は自分でいうのもおかしいが比較的その矛盾に対し自罰的に考え基本的に行動しない方向に向かってしまう。 で、それはよくないので何とかしないとなという話なのだが、今のところうまい解決策が思いついていない。うまい解決策が思いついていないので無理くり飲み込んでいる。 別に無理くり飲み込まないでも、あの考え方は変わりましたでいいといえばいいのだが、さすがに原理原則すぎて変えられない考え方があり、その矛盾が取り除けない。 原理原則な考え方は非常に抽象的な考え方なので、あらゆる具体的な行動に対して影響を及ぼし矛盾を生じさせる。 こういう感じで矛盾しているんだよね と誰かに相談しても、矛盾しているんだからどっちかどうにかしなよで終わりである。 最近友人から教えてもらった一つの解決策は、矛盾しているけれども主張はし続けるというやりかただ。 つまり、主義主張として発言していることと、具体的な行動が矛盾しているが、それでも主張は続けるということだ。 例えば環境問題を指摘しているが、同時に飛行機で旅行にはいきたい。そうした時に、環境問題を指摘しながら旅行に行っていいということだ。全く環境を気にしない人よりも、環境を気にしてちゃんと主義主張としてまとめて発言しながら旅行している人の方がよっぽどましだということだ。 たしかにそうかもしれない。 いやでも、何とか折り合いをつけようとすることが、結果的にいい作品を生むのではないか。 でも折り合わないことばかりだ。どうしたらよいのやら。

November 12, 2024

2024/11/10/もうひとひねり必要な感じがする

東京の街を撮っている。先月と今月は多分主に終電後の東京を撮っている。 なんとなくテーマみたいなものは思い浮かんできているのだが、もう少し詰める必要があると思っている。 今のところ(まだステートメントといえるほどちゃんと文章にまとまっていないが)これだけ治安がいい街はないというところを写真で捉えつつ、 何か公共性を失っていないか、こんなに治安がいいなんてことあり得ないのではないかというところを表現していければと思っている。 ただ、治安がいいに決まっているというのは間違えのないことなので、もう少し、もうひとひねり というとなんかちょっと安っぽくなるが、もうちょっと工夫して現状の社会に通底するものをもう少し表したい。 具体的に言うと、”ルール”みたいなものがいつの間にかあるよねというところを浮き上がらせたいと思っている。 暗黙のルールみたいなものが破られているところを撮り、それに対する違和感を言語化していけば面白いものになるのではないかと思っている。 そのあたり、日記の体を借りてまた分解していきたいと思う。

November 12, 2024

2024/11/09/55mmのレンズを借りた

Sonnar T* FE 55mm F1.8 ZAを借りた。 私は今SONYのα7IVを使っているが、これは動画をある程度とる必要があるなと思っての選択だった。 そしてレンズはFE 24-70mm F2.8 GM II これもジンバルを使わない動画撮影なら一番いいのかなと思ってこれにした。 つまり、写真的な選択ではないということだ。もちろんいいレンズで、いいカメラなのだが。 それ以前は急にちょっと古くなってEOS 5D Mark2をずっと使っていた。しかもレンズはEF 50mm F1.4ほぼ一本。空を撮るときにEF 24mm F2.8に交換するという使い方で、この2本だけでずっと写真を撮ってきた。なぜ50mmなのかというとだカフェ日記の影響を受けたからだった。 だけれども当時から街を撮るには50mmは若干長いんじゃないかという感じはしていて、人の特に表情をとらえるにはいいけれども、人の佇まいを撮るにはやはり長いのではないかと思っていた。 人を撮ることはあまりないので結果的には24-70mmというズームレンズにしたのはよかったのではないかと思っている。 しかし、先日書いたようにけがをしてしまい24-70mmF2.8は重くて持てなくなってしまい、現在は急遽購入したFE 28mm F2を使っている。 そんな感じで久々に単焦点を使いながら様々な写真家の、特にストリートフォトグラフィーを見ていると、50mm弱の長めの写真がいいかもなとふと思った。 28mmや35mmだともちろん対象によったときはいいのだが、そうじゃなく全体を映すような写真だと目で見ているときと同じような漠然と全体の情報を見ているような写真になり、切り取っている感じが少し薄くなってやしないかとある日思った。 さらに、動画の撮影に使っているOsmoPocket3と画角が近いため、なんか動画の中で静止画を出しても動画をキャプチャして出した様に見えることがあり、街の中の情景から“発見”している感が薄いのではないかと少し思った。 そこで友人が持っている55mmを借りたのだが、これはなかなか良かった。確かに長くてちょっと近いなという場面が多いのだが、はまったときのちょっとした非日常感がいい感じ。ある種の制約事項がある単焦点はやっぱり楽しい。 ただ同時に思ったのは、28mmで撮ったらこうなったなとか、70mmあったらこうだったな見たいな感じでどれがあってもそれぞれ別のものが取れて面白いなということを再確認した。結局どれもこれも欲しいのだった。 24-70mmF2.8があるからさすがに6万円は手が出ず、買い足すことはあきらめることにしたが、余裕が出たら50mm前後のが一本ほしくなる1日だった。

November 11, 2024

2024/11/08/日本現代美術私観高橋龍太郎コレクションを見た

東京都立現代美術館の「日本現代美術私観:高橋龍太郎コレクション」を見てきた。 iPhoneの背面ガラスを割ってしまい修理に出したところ、仕上がるまで4時間ほどかかるとのことだったのでその間に見てきた。 だれだれのコレクションです という展示は見たことあるのかもしれないが、明確に意識してみるのは初めてでそれ自体少し新鮮で面白かった。 美術館、たいていの場合特別展を見に行く人がほとんどで、特別展を見に行くと常設展も観ることができるようになっているのだが見に行かない人も多いのではないか。 1度は見たのでもう2度目はいいかなという人が多いのかもしれないが。 で、その常設展のような形でいろいろな作家の作品が並んでいるという形。95年から形成されたコレクションが時代順に並んでいる。 この時代の変遷を作品でなんとなく、くくっているのが非常に面白かった。 一番面白かったのは各作家についてのキャプションだ。相当な数の作家の作品が並んでいるのだが、各作家について400文字行かないぐらいの文章でまとめられている。 これが非常に読みやすく端的で、多少端折りすぎな部分があるのかもしれないが作品意図を明瞭にわかりやすく書いてあって面白かった。この文章を再読するために図録を買ってしまった。 ちょっと展示の内容から外れてしまうのだが、この展示を通して強く感じたのは“作品です”と自称することの大切さだ。 これは私が最近“作品”を作ってるのだなと思い始めたから感じるこれまた普通は美大時代に通り過ぎることなのかもしれないが、なんとなく作品と自分でいうのは憚られるものだった。 すごく悪いい方だが、ある種職業的な教育、アカデミア的な教育、ある種のデザイン的な教育を受けてくると講評の時「これは作品だね」というのは若干ネガティブなニュアンスの言葉になってくる。 特に先行研究にも何にも依拠してないし、何か客観性・一般性・再現性がある部分も少ない。社会性が乏しく私小説的なものを作ったねというネガティブな要素として捉えられがちである。だけれども同時にそのかけがえのなさがあらゆる価値を持つ。それが作品だ。 現代アートに対するよくある批判は目の前にあるものを“作品”としてみているかどうか、“作品”というものはどういうもののことをさしているのかのすり合わせがうまくいっていないから起こる批判だと個人的には思っている。 で、当たり前といえば当たり前なのだが今回“作品なんだな”ということをキャプションが、展示の仕方が、並びが強く感じさせるものとなっていた。これは、単一作家の展示会ではなかなかなしえないもので、長期間にわたってコレクターが「これは価値があるんだ」とある種の主張をもって買い集めているということが効いているのだと思う。そして、学芸員の方が書いたキャプションとともに美術館に展示されるという形で作品が公共性を増していく様子が見て取れて非常に心地よかった。 なので、私もこれは作品だと思ったらこれは作品なんですとステートメントを付けつつちゃんと並べることが大切なんだなと改めて思った。SNSに乗せるだけでは足りなくて、やはり自分のホームページを作ってこれは作品なんですと主張することが大切なんじゃないかと。そのためにもステートメントをちゃんとつけておくべきなんじゃないかと思った。 ホームページ、作ります。 以下現代美術館までの光景 3番目以降が面白い 廃車になる子供用自動車 資源の持ち去りは犯罪です クリスマスツリー 毛ガニ(25000円) 湾曲鏡 iPhoneを修理に出したので切符で移動

November 8, 2024

2024/11/07/アレック・ソス部屋についての部屋を見た

東京都写真美術館にて開かれている「アレック・ソス 部屋についての部屋」を見に行った。 久々の東京都写真美術館 コンセプトなどは各メディアに書かれているのでそちらに譲り、感想を。 アレックス・ソスの展示を見るのは初めてで、とにかく画質の良さに驚いた。大判カメラで撮られていると最初のキャプションにかかれていたが、写実性を超えて実存性があった。インクジェットプリントで大きく印刷されているのだが 人物写真でこれほどの実存性を感じたのは初めてだった。 私は以前書いたようにちょっと画質に対してこだわることに懐疑的な考え方を持っているが、相当揺さぶられるものだった。 写真はやっぱりきれいであれば目を引く。目を引くためにいろいろSNS上で小手先のことを私はするが、そんなことをすべて吹き飛ばすほど圧倒的なきれいさだった。 これは昨日の話と同じであれだけれども、ミュージアムショップで見た写真集では伝わってこないものだった。 サイズが小さいと、画質が良くても悪くてもそこまで差にならない と頭で思っているので、仮に差があったとしても圧倒するほど直感的に感じさせるものにはならないのだ。 実際差は小さくなると思う。 私は基本的にSNSに掲載するための編集をしているので、Lightroom経由で最後iPhoneで色を確認して出している。当然見ているサイズは小さいので、その中で許容されている荒れがたくさんある。 そのまま大判にプリントしたら見られないだろう。 最終的にどのメディアで発表するのかに合わせて写真の編集や撮り方、機材まで変化してくる。今回は画質をよくすることでどのような力を持つか痛いほど伝わってくる展示だった。 そして、その力を手に入れてみたいと思ったが、大判カメラで私の今のようなスタイルの撮影は厳しい。 もう少し何とかならないか、何とかバランスする点がないかを模索してみようと思った。 あと、印刷をもっとしてみたいと思ってしまった。色の調整などを考えると外注してトライアンドエラーを続けるのは難しい。どうしても手元にプリンターが必要になる。 しかし、一度でもプリンターを買ってしまえば紙代、インク代含めものすごい金額になってしまうだろう。大判にプリントするとなればなおさらだ。 あまり金銭的理由で行動を変えるのはよくないが、いくらなんでもお金がかかりすぎてしまう。 もう少しSNSで数字を獲得し、小さなサイズ、それこそ昨日見たような色紙サイズである程度売れるようになってから印刷には手を出したいと思う。 それにしても、大判プリントはあこがれを抱かせるものだった。空間の支配力があった。圧倒的だった。 で、ちょっと細かい話なのかもしれないが、新宿のパークハイアットのシリーズについて。今回の展示会のカバー写真はパークハイアットでの自撮りだ。 ロスト・イン・トランスレーションをモチーフにしたとあり、キャプションにも書かれていて、さらにキャプションにロスト・イン・トランスレーションとは違って部屋から出ずに部屋に訪問してもらう形にしたとあったが、さすがにそれは真逆すぎてパークハイアット以外共通点がないのではと思ってしまった。 インターネットで知り合ったゲストを部屋に招き撮影とあり、さらにそれをソス自身は偏った日本のイメージと自認しつつ「東京を体験している自分」を写したかったと語っているが(https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/alec-soth-tokyo-photographic-art-museum-report-202410)パークハイアットという外資系ラグジュアリーホテルに招くというのは観光よりもさらに先鋭化された”収穫”という暴力的側面が否めないのではないかと思ってしまった。 もちろん、私の写真含めて写真は収集的意味合いがありある種の暴力性を持つものなのだが、それにしてもではないか。 ミュージアムショップにはNewMoonScreen2が 昼ご飯は目黒区役所で 目黒区役所からの眺め。中目黒といえばあの丸い高級マンションとうるさい高架下のイメージ

November 8, 2024

2024/11/06 田中一村展がすごくよかった

東京都立美術館に「田中一村展 奄美の光 不屈の情熱の軌跡 魂の絵画」を見に行った。これがとてもよかった。 写真を撮り絵を描いている人なので、構図が非常に写真的でありながら、写真ではあり得ない絵になっているのがとても面白かった。 特に屏風、つまり縦構図の構図の取り方が非常に勉強になった。「枯れ木にきつゝき」のような大胆に木の部分をそいである様な構図の取り方もとても面白かった。 しかし何より感動したのは、色紙の構図だった。 旅土産の色紙のシリーズはどれもこれも色彩が前面にわたるよう構図がとられており、全体の華やかさと色紙の絶妙な大きさ、色紙のほんの少し縦構図なところが生む余白が素晴らしかった。 いくつかの作品は参照元となった写真が一緒に展示されていて、「足摺狂濤」とかを見ると絵の方のパースがすこし写実的ではないことがわかる。 本来であれば海が途切れるところ、海を少しだけ垂直方向に立たせて沖が見えるような構図になっていて、写真的にはあり得ないのだけれども非常におさまりがよくて驚いた。 あと、「梨花春禽」や「花菖蒲」で使われている絹本銀地がとてもよかった。「白い花」もそうだけれども、銀地に色が乗っている様子は非常にきれいだった。 少し周辺減光のような丸い影が四隅についていたり、色が映える場所の後ろにはうっすら影がつけてあったりなど、いろいろなものを見て取ることができた。 図録だと残念ながらその良さは伝わってこなかった。 ・大胆にコラージュしてしまう ・色紙のサイズ感 ・白地ではなく別の色を使う これは一度取り入れてみたいと思った。白地ではなく別の色という部分はすでにパールプリントという形で、白というよりも銀色に輝く用紙での印刷がアオヤギ写真工芸社などでも気軽に行うことができるし、富士フイルムも結構押し出しているが、もっと大胆な色遣いをしてもいいのではないかと思わされた。 それと合わせて大胆なコラージュを行えば、背景部分の余白面積が増えてより面白いのではないかと思う。 色紙のサイズ感は一度一回り大きいサイズで印刷してカットして試してみたいと思う。ほんの少し縦に長いというのがすごくよかった。 あと、額そうした時のサイズ感がとてもよかった。 色紙のサイズ感にするとなると写真はあとからトリミングで構図を探ることになるが、難しいとは思うが少しコラージュを取り入れていい感じの構図にできないか試してみたいと思う。

November 6, 2024

日報的に文章を書くべきなのかどうか

インプットとアウトプットを太く継続的にお香なうべき。 これについてはだれもが思うことだろう。ただ、アウトプットを継続的に行ってしまうことで何かが失われてしまうのではないか?とか思ってしまっている。 そんなことないとも思うのだが、なぜそう思っているのかを書きながら分解していきたいと思う ーーしたいという話をするだけして満足してしまう アウトプットしてしまうとある種完成したような感じになってしまうことがあると思う。満足してしまうというか、あ、一度出しましたので。という感じで。 そうやって小出しにしていくと、構想だけが積み重なっていってしまうのではないか。特に、こういう文章という形で書くといくらでもかけてしまう。 いくらでも制限なく「こういうことをやりたいんだよねー」という話をしているとその話をすることで満足してしまうのではないか。 周りの人にその話をしてしまうことで満足してしまうのではないかと思ってしまう。 つまり、ーーしたいんだよね という構想の話を日報的に出すべきではないということだ。 アウトプットが悪いというわけではなくて、--したいという構想を小出しにしなければいいのだろう。 日報的、日記的にはその日起こったこととそれについて思ったことを書くべきではないかと思った。 アウトプットしすぎて枯れてしまうのではないか これはまあなんか傲慢な考え方なのだが、アウトプットすることで何か話のタネみたいなものを消費しきってしまうのではないかと思っている節がある。 あ、同じ話したな あ、この前この話やったな とどこかで話す時思ってしまうのではないかと思った。 でも考えてみれば確かに同じ人に全く同じ話をするのはあまりよくないことかもしれないが別にここに書いたことを周りの友人にしてもいいし、どっかで話してもいい。 話すときには文章と違ってそれはそれなりに違ったものに仕上がってくると思うので、別に日報的に何かを出したり日記を書かない理由にはならない。 むしろ私の場合人と話す機会が現状非常に少ないので、ここに書き出していった方が言語化が習慣付いて話の方にも厚みが出てくると思う。 今は言語化するタイミングが人と話すときその瞬間なので、いろいろ話が薄っぺらくなってきてしまっている気がする。 インプット・アウトプットという言葉がちょっと気に行ってない インプット・アウトプットという言葉に対していけ好かなさというか、うさんくっさを感じてしまっている。 これは、分解してみるとどうやらインプット・アウトプットという言葉自体に対してちょっと広告代理店的なイメージというか、何かをまねする・参照するときの体のいい言い訳のような言葉として使われているんじゃないかという疑念を私が持っているようだ。 ただ、このマネする、何かを参照するということに対する抵抗感を正しく持たなければならないと最近は思う 0から何かを生み出すことなんてなくて、何かをつくるということは何かインプットがあってその影響を受けながらやるものであって そこで、私は何も参照していません!というのはむしろ傲慢な何かなのだ。 この前ライゾマティクスによる展示「Rhizomatiks Beyond Perception」があった https://kotaronukaga.com/exhibition/rhizomatiks-beyond-perception/ この展示の中で(以下引用) ライゾマティクスは、自身の作品を学習したAIモデルをアート作品として展示します。 ライゾマティクスは独自のAIモデルを作り、そのモデル自体を購入可能な作品とすることで、AIとアートに関する新しい視点や考察が生まれることを期待しています。 とある。 で、この言葉がどういう目的で書かれたのかを私はもし機会があれば聞いてみたい。もしこの言葉が、「自身の作品」のみを学習したので一般的に生成AIのイラストなどで問題になっているようなありていに言えばパクリであったりとか、収奪的な側面がありませんよ!なので販売してもいいですよね!という意味合いで言ってるのであればちょっとそれはないんじゃないかと思う。 AIとアートに関する新しい視点や考察が生まれることを期待しています。 とあるのでそういう批判承知でやってるとは思うのだが、Twitterなどでの感想やいくつかのメディアの論調を見ているとここの部分がやっぱりちょっと議論が足りないのではないかと思った。 結局のところ私たちは作品を作るにあたっては大量のインプットがあり、さらに様々な技術を利用して作っていて、さらに社会構造の中に支えられて何かをつくっており、歴史上の文脈の延長線上からは逃れられない。私であれば現代の日本に生きているという事実からは逃れられず、見てきた作品群の影響からは逃れられないということをまず自認せねばならない。それを自身の作品のみを学習してるので問題ありませんという話をしているのであればもってのほかだ。さらに自身の作品のみを学習したのでライゾマティクス的作品がアウトプットされるというのもちょっと浅はかすぎやしないかと思う。 情報あふれる現代、作品が情報としてインターネットを通じてみることができる現代においては、多かれ少なかれものをつくるということは自分のいいと思ったものをたくさん摂取していいと思う形で出すというキュレーション的側面を排除しきれない。過去作までくまなく検索やSNSで回ってくるここ10年であればなおさらである。 そんな時代だからこそ、インプットとアウトプットはより重要で、特にインプットを意識的に大量に行うことで創作性を高めていく必要があるのだが、それに対しどことなくパクリではないか、自分の作ったものではないから・・・みたいな遠慮を思ってしまうところがあった。 繰り返しになるがそんな傲慢な考え、美術大学を出ていれば学部1年生で消え去るのだと思うが、まだそれがぬぐい切れていなかった。ので、インプットとアウトプットを大量に行うべきなのではないかとおもい今こうして日報的日記を書こうとしている。 もし仮にそれをやってもアウトプットが何かのパクリ的なものにすぎないのであればそれはもう私はそれまでということだ。その過程において例えば炎上したり作者の方に訴訟を起こされたら甘んじて受け入れようと思う。 書くことがなさそう これはいわゆるネタ切れというものを懸念してのことだが、先述の通り書くことがないということはインプットが足りてないということの指標になる。ある程度太いインプットを意識づけることができていれば、そのような事態にはならないはずだし、なったのならばなったと書くことでインプットが足りていないことを観測することが大切だ。 何ならネタ探しのために何かしなければ で行動が起こってもいいと思う。 時間がなさそう これは、今までの記事がちょっと重すぎたというところがある。あらゆる出店を調べたりなんなりですごい時間がかかっていたので、もう少し気軽に書くことを意識づけようと思う。カテゴリは日記に分類することにする。 大したこと書けなさそう 多分これが一番書かない理由なんだと思う。底が知れてしまうというか。感想文としても面白かったです以上のものは最初かけないのかもしれない。もう10年以上書いてないし。もうそれはしょうがない。恥を忍んで書きましょう。 以上、とりあえず日報的日記を始めますという話でした。

November 6, 2024