東京の墨田区、スカイツリーの北東方面に「京島」という地域がある。この場所に今からちょうど1年前ぐらいの2023年7月1日に京島共同凸工所という工作所が大学の先輩である淺野義弘さんによって開かれた。(運営は 淺野義弘+暇と梅爺株式会社 https://kyojima-totsu.studio.site/ ) 単純に工作をする工房としても使えるし、3Dプリンターやレーザーカッターをはじめとしたデジタル工作機械の講習を受け、レンタルすることもできる工房だ。
そして先日2024年6月1日に淺野さんが工房とともに京島で過ごした日々を綴った『京島の十月』が出版された。 出版記念イベントでお話を伺い、本を読ませていただいた。
書籍「京島の十月」 https://kyojima-totsu.stores.jp/items/665c3585e4567c1b41e30f54
私は短い期間だが2015年ごろから京都でシェア工房を運営していたので、その当時のFabやメイカーズムーブメントの空気感を私なりの視点から言語化しつつ、今回の『京島の十月』、京島共同凸工所を通して得た私の感想を書き留めておこうと思う。
FabとFabLab、ファブスペース、メイカーズ
まず最初に京島共同凸工所ができるまでの流れの前提となるFab,FabLab,メイカーズムーブメントの源流について書いていこうと思う。
Fab
ここでいうFabとは、当時米国マサチューセッツ工科大学(MIT)のmit media lab 内にあった Center for Bits and Atoms の所長である Neil Gershenfeld氏が提唱した、ものづくりに関する運動のことを指している。
『Fab パーソナルコンピュータからパーソナルファブリケーションへ』 https://www.ohmsha.co.jp/book/9784873115887/
Fabという概念自体は非常に抽象的で広範な概念で、良くも悪くもこのFabを各人が自分の持っている技能やポジションに合わせて解釈して使われているというのが実態で、Fabとはという話をすると十人十色の答えが返ってくる。私なりの言葉で短くまとめると、Fabは「ものづくり」というものが家内制手工業から問屋制手工業、工場制手工業、工場制機械工業と変遷していくにつれ大量生産が前提となり、人々から資本家・市場経済の世界に奪われ不自由になってしまったので、それをインターネット・地域・デジタルファブリケーション機器を使い再び手元でものをつくるという自由を取り戻そうという運動の総称であると捉えている。
中世前期は家内制手工業という形で、あらゆる日用品や仕事に使う農具、衣類などは自給自足の形で家庭内で作られていた。それが中世後期にかけて都市の発達に伴い交易が始まり、市場経済が拡大した。品質を維持したり技術を継承するためにギルド制が発達する。その後流通量が増えてゆきより組織的な生産が必要となる。商人が広範な地域を一括して流通管理・生産過程を管理し品質や納期を統制し始め、さらなる効率化を目指し商人が作業場を用意。そこに人を集めて生産を行うようになる。その後産業革命を機に蒸気機関による機械化が進み、工場制機械工業へと変遷してゆく。 この過程でものづくりの仕事は細分化が進んでゆく。工業化による生産技術の進歩により職人一人で10台以上の機織り機を操ることができるようになったり、何トンもの力を生み出す工作機械を使うことにより様々な素材を取り扱うことができるようになった。結果として日用品は手工業品から工業製品(機械製品)に移り変わり、手で作ることはできないものとなった。第二次産業革命以降石油化学の発達により1862年にはセルロイド、1907年にベークライトが。それ以降も様々な合成樹脂が開発されてからは射出成型など大規模な生産設備が前提となり工場自体もグローバリゼーションの流れのもと身近な町工場が消え、世界中のどこかにある超大規模な工業団地に集約された。
*2017年6月5日MITメディアラボ内で開催さ入れたThe DgigitalFactoryにて講演するNeil氏
このようにして身近にあるほぼすべてのものは頑張って手元で作ろうとしても作ることが不可能なものとなり、ものは買わなければ手に入らないものとなった。一方ものに対し、情報はインターネットの普及に伴い今までよりもずっと誰もが安価にありとあらゆる情報にアクセスできるようになった。Wikipediaをはじめとした独立した、もしくは公的な機関があらゆる情報を電子化し検索可能にして公開していく。あらゆる技能を持った個人がブログという形でその知識を公開しGoogoleが検索可能にしていく。さらにパーソナルコンピューターという形で1人1台の端末を持ちそのうえであらゆる情報処理を行える。方法はソフトウェアという形で共有され、シェアウェアとともに多くのオープンソースソフトウェアが生まれていった。
この情報の自由のようにものづくりも、パーソナルファブリケーションという形であらゆるものを作る道具が普及し、作り方がインターネットを通じて公開され、オープンソースソフトウェアを介してノウハウも共有されていくような形になればすでに市場経済から脱することができている(近年のAIは怪しい)情報と同じようにものづくりも自由を手に入れ、自給自足可能になるのではないかというのがFabの思想であり、Fabという運動だ。
そのFabの理念を体現していたのがNeil Gershenfeld氏自身がMITで1998年から行っていた授業が「How To Make (Almost) Anything」である。
MIT OpenCourseWare How To Make (Almost) Anything https://ocw.mit.edu/courses/mas-863-how-to-make-almost-anything-fall-2002/
これは先述のデジタルファブリケーション機器だけではなく様々な工場ではなくガレージで使える規模かんの工作機械を作って、樹脂製品から刺繍、鋳造から電子基板までいわゆる「ガジェット」であればどんなものでも作ることができるように1ターム(3ヶ月)でなるという授業である。Fabの理念を体現している授業で、この授業を通して自分がものを作れる自信を獲得することができる。この授業で生まれたプロトタイプをベースにクラウドファンディングで資金調達して生まれたのが有名なSLA3DプリンターメーカーであるFormlabsであるし、日本でFabを先導した田中浩也教授もこの授業の卒業生である。
田中浩也教授による詳細な体験記が残されている https://fab.sfc.keio.ac.jp/howto2010/
Fab Lab
さらにFabの理念を体現しているのが2002年に作られたのが「FabLab」である。非常に具体的にFabLabとは何かが定義されている。
*FabLab大宰府 2022年3月訪問
FabLab Japan Networkのホームページが詳しいのでみていただきたい http://fablabjapan.org/whatsfablab/
ものづくりを人々の手に取り戻すためには3つのことが必要で、それは「Learn」「Share」「Make」が必要で、それの拠点としてFabLabというものを定義して世界中に共通のコンテクスト・共通の機材を持った拠点を広げていこうという話だ。 先述の通り情報の世界、コンピューターのパーソナル化の過程で起こったことを踏襲するべくそのために必要な環境を整備しようとしている
- 機材を共通化することで実行環境を統一する - 実行環境が統一されているので得られたノウハウを共有することができる
- デジタルファブリケーション機器によって遠隔地でも再現できる - FabLabで作られたものは世界中どこのFALabでも同じものを作ることができる
- FabLabに集まる様々な工業的製造業に携わる人から得られたノウハウを展開しやすい
- マニュアルが共通化できるので教育の効率が飛躍的に上がる
WindowsとかMacみたいな基盤となるOSを作ろうとしているのだ。
*FabLabで作られたものはFabLabに行けば世界中どこに行っても同じものを作ることができる 写真は2018年5月訪問のFabLab Berlin
日本では2011年にFabLab Kamakuraができたことを皮切りに、2024年時点では16箇所ある
FabLab Japan Networkについて http://fablabjapan.org/about/
ファブスペース
このFabLabが日本で誕生・普及活動を始めたと同時に、日本ではFabLabではない「ファブスペース」というものがたくさんできることになる。
2012年、渋谷道玄坂に「FabCafe」が開店する。 「渋谷にデジタルものづくりカフェが誕生、 その名は「FabCafe(ファブカフェ)」。2012年3月7日オープン!」 https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000002.000004703.html
*渋谷FabCafeで行われていたFAB MEETUP 写真は2016年12月
2013年、小型3Dプリンターブームが起こり、企業や自治体が“新規事業開発”“創業促進”を目指しものづくり補助金をはじめとし様々な形で3Dプリンターを置いたスペースを作ろうという機運が高まった。 さらに、例えば板金工場が一般の人でも扱えるレベルの板金設備を備えたような特徴のあるファブスペースや、DMM.make AKIBAのようなスタートアップ創出のため数億円の費用を投じて都心に広大なスペースを用意するようなものも出てきた。
fabcrossさんが長年にわたって追跡調査されている「fabなび—日本全国のファブ施設(ファブスペース/メイカースペース)を紹介」をみると、最盛期には2018年に191箇所、2023年現在でも京島共同凸工所を含めて154箇所が存在している。(Fablabとファブスペースを合計した数) https://fabcross.jp/list/series/fabnavi/
ここでFabLabではなくFabスペースが増えたのにはいろいろな事情があるが、わかりやすいところだと2つ理由があったと思う。
・FabLab標準機材を取りそろえるのが意外と大変だった FabLabの名称を使用した工房を作るためには4つの条件があり、そのうちの一つにFabLab標準機材を取りそろえるという項目がある。
ファブラボの名称を利用するための条件 http://fablabjapan.org/conditions_for_fablab_label/
個人や小規模な事業者がFabLabを開設しようとしたときに、これらを一気にそろえるのは初期投資が大きく、もともとある程度機材を持っていてそれに少し足すという形であればできることが多かったが、とくにレーザーカッターの設置は非常にハードルが高いものだった。2013年ごろ日本で購入できる安全(利用者自身で使う想定)、小型である程度の厚みが切れるパワーのあるレーザーカッターはUNIVERSALレーザー社のデスクトップレーザーマシンか、Trotec社のSpeedyシリーズぐらいだった。集塵機などを合わせるとなんだかんだで200万円。彫刻ではなく切断でちゃんと使ってもらえることを想定すると400万円ぐらいはかかるもので、なかなか導入に踏み切ることはできなかった。集客を考えると(ファブスペースは集客を考えなくてもよいが)当時注目を集めていた機材は3Dプリンターだったが、一番利用される機材はレーザーカッターだった。CADのハードルはまだまだ高くIllsutratorが使えればそのまま使うことができたので、グラフィックデザインに携わる方であれば簡単に使うことができた。「デザインフェスタ」のようなアートイベントでの販売のみならず、当時は米国のハンドメイドC2Cマーケット「Etsy」が急拡大しており、日本にも2010年に「Creema」が、2012年に「minne」が生まれ、市場規模が拡大していて、ファブスペースはその流れにも乗ることができていた。そんなこともあり利用者の多くは必ずしも電子工作や3Dプリンターを必要としておらず、また、既製品への追加加工(名入れ等)を主軸とした場所(Loft等)も多かったのでファブ標準機材すべてを取りそろえるところは少なかった。
これは必ずしも悪いことではなく、ファブという言葉を浸透させ、工作機器に触れる機会を提供し、自分たちがものに手を加えていいんだというカスタマイズの発想を一般的な消費者が手に入れる契機となった。ただ、おかれている機材の機種やソフトウェアがバラバラになってしまい、ノウハウが共有しにくくなってしまうという問題を発生させた。
*Sonyが開設した新規事業創出のためのファブスペース Sony Creative Lounge SAP 写真は2016年2月訪問時
・特化型のFabLab FabLabはほぼすべてのものを作るためにいろいろなジャンルの機材が取り揃えられており、また、個人が自分で取り扱える機材に機材の規模間を制限している。ただ、ファブスペースを開きたいと考える団体や会社の中には例えばもともと板金の工場を持っている会社がファブスペースを始めたいと考えたり、製材所が主体となってファブスペースを始めたいとなったり、投資会社がインキュベーション施設としてより高度な電子機器を開発する人が集まるようにしたいなどといった様々な個別のニーズが出てくる。 その結果、FabLab標準機材にはない特殊な機材を取り揃え、〇〇特化型ファブスペースという形で特色のあるファブスペースが出てくるようになる。その場合FabLabという形ではなく、会社名を冠したり持っている特色の名前をつけて運営されることが多かった。
特にファブスペースならFabLabに寄せなければならないとか、FabLabになるべく揃えるべきだみたいな話は私が知る限りは聞かなかったし、FabLabなのにこういうことはしてはならない!みたいなのは明確にFabLab憲章に抵触しない限りはなかったと思う。FabLabが世界中のどこでも共有された手順を踏めば同じものができることを重視しているので、結果として日本ではFabLab以外のファブスペースがたくさんできることになった。
*電子部品販売のSwitchScienceははんだづけに特化したスペースを作っていた 写真は2016年4月ごろ訪問 現在は閉店
メイカーズムーブメント
メイカーズムーブメントというのは元Wired編集長であるChris Anderson『Makers: The New Industrial Revolution』(2012.10)に端を発するデジタルファブリケーション機器を用いて「第3次産業革命」の実現を目指した一連のムーブメントのことである。私は当時小さなベンチャーの社長(結果的にはエクイティファイナンス中心ではなくデットファイナンス中心になったので中小企業になった)をしていたのでどちらかというとこちらの方に詳しい。 内容を見てみると、実は登場してくるのは3Dプリンターをはじめとしたデジタルファブリケーション機器で、それを使って小規模にものづくりをするという点ではFabとあまり変わりがない。ものづくりが民主化するという大筋はそのままなのだが、目指しているのが市場経済からの脱却ではなく、北米における製造業の復活であるというのが面白い点だ。
著者のChris Andersonはこの本の前に『The Long Tail: How Endless Choice is Creating Unlimited Demand』(2010.11)を著しており、それを受けてのMakersとなっている。インターネットにより超低コストに情報を発信することができ、さらにAmazonをはじめとした電子商取引が普及することにより、コミュニケーションコストが0に近づき、小規模でものづくりをできるようになることで今まで量産するほどの数、もっと具体的に言うと金型を作って償却できるほどの数は売れないので商品化まで至らなくなったあらゆるロングテールなニーズの商品が成立するようになることでありとあらゆるハードウェアベンチャーが立ち上がるという話をしていた。
さらにちょうどこのころスタートアップ界隈(あくまで当時の私の周りの話)ではEric Ries氏の『The Lean Startup: How Today’s Entrepreneurs Use Continuous Innovation to Create Radically Successful Businesses』が必読本となっていた。結構複雑な内容の本なのだが、MVP(Minimum Viable Product)と言う完成度は低いが、顧客の根源的欲求に刺さるプロトタイプに限りなく近いプロダクトを短期間・低予算・少人数で作り、顧客に売り込んで使ってもらえるかどうかを見ながら改善していくと言う話だ。一回に顧客に触ってもらっていないのに大きな予算を当時でプロダクトの完成度を高めてはいけない。なんならB2BSaaSでの起業が増え始めていた当時は先に売れてからコードを書けみたいな話も当時はあった。 このMVPの考え方は基本的にはソフトウェアの領域でのみ成立することで、出荷後に修正が効かない・インターネットにつながっていない機器が中心であったハードウェアではこのようなアプローチは不可能だった。だが、この考え方が3Dプリンターをはじめとしたデジタルファブリケーション機器とインターネットに接続することを前提としたIoT機器(家電)を作ることでリーンスタートアップができるので、今まで難しかったハードウェアベンチャーのプロダクトがない状態でのシード資金調達で1億ちょっとぐらいのバリュエーションがつきやすくなるのではないかという期待が一気に広がり、日本にもABBALab IoEファンド1号投資事業有限責任組合のようないわゆるVCファンドや、CVCがたくさん立ち上がった。
*2014年11月5日に行われたDMM.make AKIBA内覧会の様子。ABBALabとDMM.makeが共同で立ち上げた秋葉原の工房には10億円規模の機材が揃えられ出資を受けた企業だけではなく料金を払えば特別安くはないが本格的な機材にアクセスできるように。全国展開の構想もあり、ITでいうところのAWSを目指していた。IoT機器の中量生産を目指していたのでチップマウンターまで備え付けられていた。
さらに米国ではメイカーズムーブメントは「米国製造業の復活」という非常に壮大な任務を与えられることになる。2008年のリーマンショックの煽りを受けてゼネラルモーターズとクライスラーが倒産し、典型的な産業の空洞化(製造業=産業 とするこの言葉はちょっと古いが)が進む中で、2013年2月12日に第44代大統領バラク・オバマ氏の一般教書演説にて3Dプリントの研究拠点を作り、3Dプリント技術を労働者が集約できるようにし、グローバリゼーションにより取り残された地域をハイテク産業の雇用を生みだすグローバルセンターに変えるといっている。最初の研究拠点がオハイオ州ヤングスタウンというRust Beltに置かれたのは“新たな製造業”を志向していることを象徴している。
*六本木、サントリーホールの真向かいという超一等地にできたTechShopTokyo 写真は2016年5月13日の見学会
“Last year, we created our first manufacturing innovation institute in Youngstown, Ohio. A once-shuttered warehouse is now a state-of-the art lab where new workers are mastering the 3D printing that has the potential to revolutionize the way we make almost everything. There’s no reason this can’t happen in other towns. So tonight, I’m announcing the launch of three more of these manufacturing hubs, where businesses will partner with the Departments of Defense and Energy to turn regions left behind by globalization into global centers of high-tech jobs. And I ask this Congress to help create a network of fifteen of these hubs and guarantee that the next revolution in manufacturing is Made in America”
Remarks of President Barack Obama – As Prepared for Delivery. State of the Union Address, February 12, 2013, Washington, DC. https://obamawhitehouse.archives.gov/the-press-office/2013/02/12/president-barack-obamas-state-union-address-prepared-delivery
社会と市場、脱工業と新工業、地域とグローバル
脱工業化・脱市場経済・地域社会に向かい合うという「社会運動」として立ち上がったFab、その象徴的な存在でる3Dプリンターは同時に米国製造業という市場の救世主という産業・工業・新たなグローバリゼーションの象徴的存在になったのだった。 MITメディアラボ創設者でありWiredの創刊者であるニコラス・ネグロポンテ氏の『Bits and Atoms』(https://web.media.mit.edu/~nicholas/Wired/WIRED3-01.html)から15年、「Bits to Atoms」とも言える概念がCenter for Bits and Atoms の所長である Neil Gershenfeld氏とWiredの編集長だったChris Anderson氏から出て、そこに先述のような様々な要因が折り重なり社会現象へとなっていった。
そして日本ではMITメディアラボで2010年に「How to Make (Almost) Anything」を受講した田中浩也教授が2011年にアジア圏初となる「FabLab鎌倉」を設立。2013年10から経済産業省は「新ものづくり研究会」を開催するなど、(https://fabcross.jp/news/2014/02/20140228_meti_report.html)米国と同じように社会運動と産業革命両面からのアプローチがスタートした。
以上がFabが生まれてからFabLabが生まれ、メイカーズムーブメントが起こり産業革命を目指す国策にまで広がっていった経緯である。 時系列順にまとめているのでFabからメイカームーブメントが生まれているように見えるし、デジタルファブリケーション機器を使っているという点で共通点があるのだが、その実全く性質の異なる活動が同時期に立ち上がり拡大していったことがわかる。
MakerFair
この2つの方向性が衝突し、大きく振り回されたのがMaker Fairである。 2005年にO’Reilly Mediaの副社長であったDale Dougherty氏が創刊した『Make:』という雑誌のオフラインイベントとして2006年に初めて開催された発表会のようなイベントである。『Make:』はDIYおよびDIWO(Do It With Others)の精神で今まで木工が主だったところにコンピューターや電子工作、ロボティクスなどを取り入れて工作する自由の範囲を拡大しようという理念のもと創刊された。その成果物をシェアしようという繰り返しになるが発表会のようなイベントだった。 そこに先述の社会現象が入り込み、規模は年々と大きくなりスポンサーにはAutodeskといったものづくり関連企業だけではなくGoogle、Microsoft、Intel、トヨタ、ディズニーといったITやコンテンツメーカーがスポンサーとして入り、大掛かりなイベントとなっていった。 日本でも2008年からMTM(Make: Tokyo Meeting)という形で開かれていたイベントが、2012年からMaker Fairと名を変え、体育館で開かれていたイベントは2014年に東京ビックサイトでの開催となる。私はOgakiMiniMakerFair2014と、MakerFair Tokyo2014、5、6には出展側で参加させてもらった。
大規模になるにつれて発表会の内容は作って“みたもの”の発表という日本でいうニコニコ技術部の延長のような文脈から、スタートアップの製品の発表会という性質を帯び始めてくる。また、もの自体を作るというよりも“プラットフォーマー”になるべく参入してくる企業が増えてゆく。それはオープンソースのArduinoに対するIntelEdisonであったり、Reprap3Dプリンターでオープンソースを徹底したPrusaに対して材料に電子チップを搭載し出力の安定・均一化を図ったXYZ3DPrintingだったり、Fusion360だったりと、あらゆる形で産業化の片鱗が現れてきた。
“成果”は一方からみれば人々が自由にものを作ることができ、その領域が広がっていった結果こんなものが生まれたくさんの“メイカー”を生み出すことができました捉えることができる一方、純粋に投資としてみていた“メーカー”からすればこの投資は失敗になった。結果、フラッグシップイベントとされ、1番の盛り上がりを見せていたMakerFair BayAreaは2019年に突如スポンサーを募れなかったという理由で突如終了してしまう。(2023年末に規模を縮小して再開)
メイカーズムーブメントをMakerFairだけを軸に語ることは難しいが、Fabから入った人々はMakerFairの規模の拡大の過程では何らかの違和感を感じ、縮小の過程では“市場”から投げかけられる過度な失望の言葉に多くのデジタルファブリケーション機器ユーザーは辟易としたのではないか。
市場ではなく生活と向き合う京島共同凸工所
冒頭に書いた私がやっていたファブスペースは完全に後者の産業革命を目指す方向性で始めたスペースだった。後者の方向性だったとしてもファブスペース自体で収益を上げようと思っている人は多分少なく、そこから何かにつなげようというのが基本的にあると思う。私の場合はそこからクラウドファンディングの出品・資金調達を支援するというアクセラレーションみたいなことをやるために作った場所だった。だが、最初こそ話題になったもののアクセラレーター・インキュベーターとしては投入資金が小さすぎるし、コミュニティを標榜できるほど地域と向き合うことはできていなかった。広報の内容としては完全に市場に対して行うもので、それは例えばレーザーカッターが安く使えますとか、3Dプリンターが10種類以上ありますといったような工房としてのスペックを売りにするような形が多かった。 結果としてお店ーお客さんの関係しか作ることができなかったのだ。場所を単なる「貸工房」として切り出して貸してしまえばそれは不動産業とぶつかることになる。機材を「機材レンタル」として貸し出してしまえばそれは機器のリース業だ。加工を「加工サービス」として売り出せば工場の加工と何も変わらない。そこに生まれるのは市場原理に基づいた競争である。 手に入れたはずの自由を自らの手で切り刻んで消費可能な形に落とし込み、工業化の浸食を一歩また進めただけなのだった。何とか継続性をと会社の売り上げを気にし続けた結果手元にあった様々な機材はFabLab標準機材よりも大型化・複雑化し、ものをつくる道具というよりも、もはや工業的にものを“生産”する機械になってしまっていた。
*増えていく“本格的”な機材
一方、『京島の十月』を通して京島共同凸工所の存在を眺めているとありていな言葉ではあるがいかに地域に愛された場所になっているかがよくわかる。
*京島共同凸工所看板 2023年7月オープン時にTETTOR 60mm F1.4にて撮影
3Dプリンターやレーザーカッターという新しいデジタル工作機械は、あくまで物を作る手段でしかない。この土地で、この場所で、果たしてどんなものを積み重ねていけるだろう。
淺野義弘 (2024). 京島の十月 京島共同凸工所 p18
手段を切り出して前面に押し出すのではなく、そこから生まれたものの価値に正面から全体で向き合っている。これは本当にできそうでできない。手段提供以外の部分に踏み込むのは淺野さんが十年以上にわたりデジタルファブリケーション機器と向き合い続けてきたからこそできることである。FABの精神を取り込んだうえでデジタルファブリケーション機器を使いこなす人は様々な横断的スキルを持っている。何かわからない・やったことに対して率先して手を動かし新しい領域を切り開いていく。横断的にあらゆるスキルを触ったことがあるので、何かイメージを伝えられた時に「こうやってみたら面白い かも?」という引き出しがたくさんある。そしてデジタルファブリケーション機器は超低コストに1つだけ素早く作ってみることができる。このよくわからない領域に謙虚に向き合いながら大胆に進んでいく力はそうそうつくものではない。
*ありとあらゆる領域と向き合うFAB
それはもしかしたらその道のプロフェショナルからすれば「できて当たり前のこと」をしているのかもしれないが、それはやはり先述したある特定の分野を切り出した時の話で、それはそれで尊い技術なのだが今回京島共同凸工所が作り出している価値とはまた別種のものである。何か起こっている“問題”に対して具体的な解決策を示すという形ではなく、何かを創り出すときに未知の領域に対峙する勇気をくれたり、予報をもらえたりする存在なのだ。
デジタルファブリケーション(デジタル工作機器を用いたものづくりの総称)は、何か他のジャンルとの掛け合わせたときに力を最大限に発揮する。「ファブ×〇〇」における〇〇を見つけるか、×の部分として腕を磨くか。そのどちらも狙っていきたい。 前掲書 p40
まさに手段となる×の部分だけではなく、〇〇まで向き合うということが書かれている。こういう話をすると「そんなに作り手いなくない?」という話をされる。「Adobe使ったことあるって結構特殊だよ?」とか「美大卒業して学校の工房が使えなくなり喪失感を持っている人をお客さんにする感じ?」とか言われたりする。ベンチャーだとTAMと言ったり、店舗だと商圏みたいな話でこの質問が出てくるのだが、私の認識だと〇〇には「自律的に仕事をするすべての人々」が入るのではないかと思っている。
分業化された労働は消費される商品を作るための労働である。
山本理顕 (2015). 権力の空間/空間の権力 個人と国家の〈あいだ〉を設計せよ (講談社選書メチエ) . 講談社. Kindle 版.
「仕事人」とは、最も卑しい職人から最大の芸術家にいたるまで、人間の工作物にもう一つの、できれば耐久性のある物をつけ加えることに従事している人びとである。 ハンナ・アレント; 志水速雄. 人間の条件 (ちくま学芸文庫) (p.137). 筑摩書房. Kindle 版.
「自律的な仕事」というのはまさにFabが掲げていた自由を手に入れ生活している人々のことである。専門家され、細分化され生活の糧を得るためだけの匿名化された「労働」をするのではなく、個性を出しながら少しでもこの世界に残る仕事をしよう。自分の周りに生きる人々の生活や街に語り継がれる仕事をしようという意思を持ったすべての人々の「仕事」に京島共同凸工所は寄り添っているのだ。
ではここでいう「自律的な仕事」というのはいわゆる「アーティスト」のように前面に個性を押し出して活動している人のみをさすのかというと、全くそうではない。もちろん京島は後述する暇と翁株式会社の後藤大輝氏の活動の結果アーティストが集まっている。そうなのだが、『京島の十月』を読むと銭湯をしていたり飲食店をしていたりと、悪いい方をすれば普通の仕事をしている人もたくさん登場する。だが、それは「労働」をしている人とは全く違うことが『京島の十月』を読めばすぐにわかる。寄稿で実際に京島の方々の文章も寄せられているので是非読んでほしい。
京島という場所で
そして、京島にはその「仕事」をする人々が集まっている稀有な場所なのだ。 冒頭で書いたが京島共同凸工所の運営は淺野義弘+暇と梅爺株式会社である。暇と翁株式会社は京島エリアで木密地域にある老朽化した空き家を積極的にアーティストに貸与することで芸術活動の促進と京島エリアの保全を両立する事業を行っている会社だ。詳細についてはこちらをぜひ読んでほしい。
空き家対策モデル事業成果報告 - 暇と梅爺 https://note.com/himatoumejii/n/nddf42fbc832c
木密地域における開発の問題については以前少し書いた。写真で赤線を引いているところがまさに京島地区だ。 https://blog.taroohtani.com/posts/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%81%AE%E5%86%8D%E9%96%8B%E7%99%BA%E3%81%AB%E6%80%9D%E3%81%86%E3%81%A8%E3%81%93%E3%82%8D/#%E9%98%B2%E7%81%BD%E4%B8%8A%E3%81%AE%E8%A6%B3%E7%82%B9
『京島の十月』の対談で著者の淺野さんが話されているが、もともと淺野さんが今回の『京島の十月』の中で行われているイベント「すみだ向島EXPO」を2022年に取材した際、暇と翁を立ち上げた後藤大輝氏に誘われる形で京島共同凸工所を設立・淺野さん自身が京島に移住することとなる。
いまこの街だから作れた、300冊の手製本。書籍『京島の十月』を出版します。 note (京島に引っ越す経緯が書かれている) https://note.com/asanoqm/n/nfb5e2527af5a
防災は挨拶から始まる。‘‘東京一危険’‘なエリアの芸術祭「すみだ向島EXPO」が照らす日常 https://sdgs.yahoo.co.jp/originals/131.html
私はいわゆる典型的な都会の価値観で幼少期のころから生きてきたので、生活と労働は分離し見えないという感覚に陥る。そうすると「え?地方って仕事あるんですか」みたいな暴言が平然と出てくる。平然と出てくると批判的に書いているが、私もこれを言ってしまう気持ちは少しわかる。私自身も幼少期から連れていかれるのは商店街ではなくイオン(当時はサティだった)。放課後は学習塾で週末はどこかのターミナル駅に遊びに行くという名の買い物をしに行く。父の仕事場は見たことがないし、まれに行ったとしても入ることはできないオフィスビルで、当然何をやっているかはわからないという環境で育ってきた。なので生活に必要な仕事はサービスとして徹底的にパッケージング化され無機質化・匿名化されているので生活というのは一切染み出てこない。そんな環境で育っていたので、商店街のような場所に行ったとき、そこは少し怖い場所と認識していたし、生活がしみだしているところはなんだか自分が立ち入っちゃいけないところに入っちゃった感じがしていた。
2023年3月4日にJR総武線平井駅からスカイツリーを目指して歩いていた時私はたまたま京島を通りかかり、「キラキラ橘商店街」とその周辺を歩く。これが初めての京島で、当時撮影した映像が残っている。
Tokyo walk 4 Mar 2023 Akihabara to Hirai. Towards Tokyo Sky Tree. https://youtu.be/6mQp-Wu3tkk?si=U5dD_3mo5EU4aPe1&t=135
この時まさに子供のころ感じた独特の空気感。生活と仕事が混ざり合って街にはみだし混ざり合っている感じがひしひしと伝わってきたのをよく覚えている。
*キラキラ橘商店街の街灯 2023年10月
これは道の主導権を自治体や車ではなく、住民の生活と仕事が握っているというのが一番大きな違いなんじゃないかと思う。道は曲がりくねり先は見通せない。計画され、作られた道ではなく住民が形作った道であることが一目でわかる。基本的に道は公のものと都会っ子は教えられる。どんな細い道でも端っこを歩く。道は車が通るために通されていて、人は車が通りやすいように常に端っこを歩いて道を開けておく必要がある。道で遊ぶのは車が通らないかつその周りの住民の人が合意している一部の場所だけで、私にはそのような場所はなかった。それは“生活”道路であっても例外ではない。交通が全然なくても住宅街という形で整備された街では各住居がお互いの生活を尊重するために外では静かに過ごすことが求められていた。
しかしここは全く違う。道の主役は生活者である。小学校低学年と思われる子供が子供たちだけで街のあちらこちらに出かけている。親以外の大人と普通に話したり挨拶をしていたりする。そこらじゅうで遊んでいて、他人の家と思われるところに出たり入ったりもしている。一本商店街から裏に入ると玄関前の道には鉢植えが溢れている。たまに淺野さんがInstagramに上げているが、「ご自由にお持ちください」というふだとともに古い食器や雑貨品が置かれている。
*キラキラ橘商店街 2024年6月1日出版記念イベント時 TETTOR 60mm F1.4
そしてそういった生活と同時に仕事も街にはみ出してくる。お店の看板は道にはみだして置かれる。お店の人と街の人が道端で話している。街角で休憩している人がいる。駐車禁止が切られるんじゃないかと怯えながらお店に搬入する人もいない。商店街のお店という分かりやすいところを見たのでお店の話ばかりだが、お店をやっていない人の仕事も見えにくいが実際生活してみるとたくさん街に溶け出してきているのだと思う。工場もちらほら見ることができる。来た時にはたたまれていた通い箱がだんだんと組みあがって中に製品が入っていく。
*「すみだ向島EXPO」の期間中、三角長屋の2階でヴァイオリンが演奏され18時を告げる 写真は2023年10月30日
先ほどは労働と生活が分かれていることについて書いたが、生活と街も私は色々な事情も手伝って完全に分離したものとして捉えていた。住んでいた一軒家は隣の家との折り合いが悪く基本的に庭に出ることは禁止されていた。少しでもはみでた鉢植えには除草剤が撒かれてしまう。小学校に入った頃父の仕事の関係で大阪府池田市に引っ越す。その矢先附属池田小事件が発生してしまって以降子供達だけで遊ぶということは基本できなくなってしまった。街は基本的に危ない場所とされ、小学校低学年の子供が一人で歩くなんてことは許されず、両親はそれを可哀想に思ったのか私は週5日間何らかの習い事に通うという形で遊ぶことになる。
オートロックのついた駅前のマンションに公園はなく、何かを街で共有するという経験は得られなかった。小学4年生の時に池田を離れ関東に戻る。大きくなったこともあり少し外出の制約も弱まったのだがもうその時には中学受験勉強が始まり週4で予備校+ピアノという感じで全て車で送り迎え。私立中学校に入り電車通学になったので地元の知り合いもいなくなる。両親も地域の活動に参加しているということはなく、地元のお祭りはその日だけ観光できた人と全く同じ“観覧”するもので参加するものではなかった。中学受験を失敗(というと学校に失礼だが)した私は中学2年生から大学受験の対策が始まる。予備校の授業はまだ少なかったが自習室に基本的にいくようになる。勉強があまりできなさそうだということで3年間じゃ間に合わないから今から勉強し始めないと、という具合だった。その後色々なことがあり東京に出てきて、それ以降もう10年近く一回も帰っていない。
*寝そべり・座り・しゃがみが禁止される新宿新都心
ちょっと私の故郷の失い方は極端な例かもしれないが、ここまでいかないでも多くの人は “生活と労働” “生活と街” が分離しているのではないか。東京近郊の多くの人はベットタウンとしてその町に住んでいることが多い。マンション等の集合住宅で玄関口の外には一切の生活の浸出を許されず、電車通勤なので街と仕事は一切関係ない。買い物はエキナカのどこかで買う。生活がしみだしている場所が近所にあるかもしれないが、もしかしたら私が子供のころに感じていた感覚を大人でも感じていて「治安が悪そう」みたいなことばで存在しない場所にしてしまっていないだろうか?
どこかに行けばきっと誰かにあえる。そんな保証があるのは、だれにとってもうれしいことではないだろうか。
淺野義弘 (2024). 京島の十月 京島共同凸工所 p77
生活する街というのは本来そういう場所だったはずである。故郷なんて大げさな言葉は必要ない。ただただ住んでいるだけで本当は得られたあらゆるものが現代の生活する街からはごっそりとなくなっている。ありとあらゆる事情がただ生きているだけではそれらを手に入れることが許されない状況を作っている。仕事が労働に分割されていったように、街も生活も切り刻まれて行っているのだ。生活する街は失われ住民にとってそこは帰る場所ではない。単なる寝る場所である。家賃が払えなくなったらそれでおわり。大家の顔は見たこともなく、保証会社の粛々とした手続きのもと家はなくなる。そうすると生活していた人の痕跡は一切街に残らない。ただ生活しているだけではなくその町の生活を支える仕事をしていたとしても、これはそこでお店をやっていたり仕事をしている人でも同じである。人生をかけて作ったお店だったとしても家賃が払えなくなれば“原状回復”をするためにすべてをなかったことにして戻さないといけない。定期借家が更新されなければそれですべて終わり。もちろん大家さんにも事情があるとか、いろいろあるのだが現代の東京では多くの場合大家さんは法人であり、誰かの意思に基づいた決定ではなく単なる市場原理に基づいた合理的結論である。
そういった暴風が吹き荒れる東京のしかも特別区である墨田区内にある京島で後藤氏は暇と翁株式会社を通じ街と生活をつなぎ止め、淺野さんは京島共同凸工所を通じ生活と仕事をつなぎとめているのだ。『京島の十月』には淺野さん自身が京島共同凸工所とともに街と生活、労働を仕事に還元していきながら、京島という街に織り込まれていくようすが克明に記されている。
*京島の十月出版記念イベントにて京島の街を案内する淺野さん 2024年6月1日出版記念イベント時 TETTOR 60mm F1.4
市場経済なんてこれっぽっちも気にしないでいい
京島の街に織り込まれた京島共同凸工所はもはや街の一部というよりもう街の、そして京島に生きる人々の生活の前提である。まぎれもなく京島という街を構成する一要素であり、ほかの街での生活でデジタルファブリケーション機器は必要ないかもしれないが、京島で生活する人々にとって、京島で仕事をする人々にとってはもはやなくてはならない必要な存在となっている。 であるからにして、誤解を恐れずに言えば場の継続性と市場経済なんてものは一切関係ないので気にしないでいいのだ。
これは別に継続性と向き合っていることを無駄だとか嘲笑しているわけではない。むしろ向き合い続けることで生まれることがたくさんあるのはまた別の機会に書くが新工芸舎を見てきていろいろあった。別に継続性なんてなんも心配してません!ということであればこのセクションは無視していい。ただ、ここまで読んでくださった中で「え、、、それってどうやって会社として回してくの」みたいなことを思う人がいるんじゃないか思う。だがそれは、細分化された賃労働に従事し生活と労働が分離された街に住み、玄関の中から窓までしか生活を表現する自由のない人から出てくる感想である。ちなみに先述の通りFABを切り刻んで小売りした私はまぎれもなくそう思う貧しい人間である。淺野さんも後藤氏も豊かな人間なので以下に書くことは余計なお世話だ。
自分が今感じている、街中の手の届く範囲で自活していく喜びと、それを経済に結び付けて継続させていくこと。そのギャップをまだうまく言葉で表せない。
前掲書 p24
確かに継続性というものは資本主義の現代社会では経済性を持って語られることが多い。街という自らの寿命を超えたものと向き合い、残していきたいと思うのであれば切っても切れない話ではある。特に不動産の開発はお金の暴力性がこれでもかというほど出てくる。年間の家賃収入が240万円の場所を2億円で買い取りますみたいなことができてしまうのが昨今のデベロッパーである。 それに真正面から金銭的なインセンティブで対抗しても無理なことをちゃんと後藤氏はわかっている。暇と翁株式会社の後藤氏のインタビュー記事を何本か読ませていただいたが、「すみだ向島EXPO」をはじめとしたさまざまな取り組み・戦略はまさに文化で資本に対抗しようとしており本当に感銘を受ける。
ではじゃあ、京島共同凸工所はより売り上げを増やすためにスタッフを配置して24時間営業にするべきなのだろうか?1000Wのレーザーカッターを導入して粉体焼結式の3Dプリンターを導入すればいいのだろうか?ここまで読んできてくださった方であればそんなことではないことはもうお分かりだろう。 そうではなく、もはや京島共同凸工所があり淺野さんが生活している、それだけで淺野さんの生活と京島共同凸工所の継続性は保証されるのだ。
*スカイツリー展望台から見た京島地区 京島共同凸工所は写真中央少し上にある小学校のグラウンドのすぐ下の長屋 2023年8月1日撮影
もちろん当人が「私は街の前提なので皆さん衣食住を提供してください」と声高らかに言えるのは中世の当主か現代日本だと神主ぐらいだろう。 あと、どうしてもランボルギーニ乗りたいとかになってくると難しいかもしれない。
ただ、継続性に関しては繰り返しになるが 市場ではなく地域と向き合い、手段に向き合いつつも訪れた人の結果に向き合い続けている京島共同凸工所がなくなるなんてことはないし、その街で生きている淺野さんの生活が継続しないなんてことはあり得ない。もはやこの2者がこの街の一部であり前提であり、この街で仕事をする多くの人々にとってなくてはならない存在になっているからである。グローバルに開かれた市場で常に需要があるかどうかというのはわからない。ただ、今目の前の人の生活と仕事の積み重ねで市場に開かれていなくても経済は回る。その必要とされる状態。地域の人の生きることの前提のような存在になる。そういう状態になっていく、そしてなっていることが『京島の十月』には瑞々しく書かれているのだ。うらやましい話である。 生活の継続が前提となった上に求められる経済的豊かさとは何だろうか?ランボルギーニじゃないにしてもじゃあもっと絞って原稿を書くのにどうしても押上のスターバックス(前掲書 p35)に行きたかったり、「毎朝駅前の喫茶店」(前掲書 p76)に行くことができないとなるのだろうか?いや、ならない。そのぐらいの経済的余裕は工房を運営し京島を発信し続ける淺野さんという現象を支えるためにあらゆる人が対価性のない形で支援を行うし、もし仮にそういった金銭的なものがなくてもそんな喫茶店よりももっと原稿がはかどる場所が京島のどこかに作られるだろう。そういった生きる場所、生きる道。FABの理念である市場経済からの自由を手に入れてるばかりでなく、それを軽く超えた素晴らしいものを手に入れたのだ。
「京島の十月」で物化を成し遂げる
さて、その存在自体が素晴らしい京島共同凸工所だったが、そこから本が出てきた。京島共同凸工所で1冊1冊著者の淺野さんの手で組み立てられている「京島の十月」 これはまさに“物化”という仕事を淺野さんが成し遂げたということである。
*京島の十月出版記念イベントにて淺野さんにより本が組み上げられていく 2024年6月1日 TETTOR 60mm F1.4
すなわち、活動と言論と思考は、それ自体ではなにも「生産」せず、生まず、生命そのものと同じように空虚である。それらが、世界の物となり、偉業、事実、出来事、思想あるいは観念の様式になるためには、まず見られ、聞かれ、記憶され、次いで変形され、いわば物化されて、詩の言葉、書かれたページや印刷された本、絵画や彫刻、あらゆる種類の記録、文書、記念碑など、要するに物にならなければならない。人間事象の事実的世界全体は、まず第一に、それを見、聞き、記憶する他人が存在し、第二に、触知できないものを触知できる物に変形することによって、はじめてリアリティを得、持続する存在となる。
ハンナ・アレント; 志水速雄. 人間の条件 (ちくま学芸文庫) (p.140). 筑摩書房. Kindle 版.
京島共同凸工所ができたのが2023年の7月、そこから1年弱の間に人間事象の事実的世界全体の第1段階のみならず、第2段階まで淺野さんは到達したのである。 京島共同凸工所の活動は外部から蝕知できるものではなかった。もちろんそれは「すみだ向島EXPO」に行けば垣間見ることができるし、工房を利用すれば(私は4回ほど利用させてもらっている)訪れる人々、その人々と淺野さんの会話から垣間見ることもできる。だがその思想を離れた人々に、また、時間軸的に隔絶された人々に伝えることは難しかった。だが、ライターである淺野さんはその思想や様態、価値を言葉に起こし、さらに活字として印刷し、まさにFABがデジタルファブリケーション機器を通じて与えた「触知できないものを触知できるものに変形する」(前掲書 p140)力をつかって形にしたのだった。
京島ではサポートしたことがその人を介して街にも還元される。誰かのためが街のためになり、僕の暮らしや見方を変えていく。それを形にするのは紛れもない僕であり、利他から利己に至る逆順を経て自分の礎めいたものが確立した。
淺野義弘. “2024年6月1日|本が出た夜に”.note.2024年6月2日, https://note.com/asanoqm/n/na884af2b8408 , (2024年6月23日)
淺野さんは様々な形で「むせかえるほどの日常」(淺野義弘 (2024). 京島の十月 京島共同凸工所 p8)を様々な形で発信し続けてくれている。ぜひ皆さんも『京島の十月』を手に取り読んでいただき、京島共同凸工所と淺野さんが京島に織り込まれるところを目撃したうえで様々な形で表出する淺野さんの世界に残る仕事を体感していただきたい。また、それらが溶け込んだ街が花咲く瞬間を今年2024年は10月5日から11月3日まで行われる「すみだ向島EXPO」を訪問していただきたい。
書籍「京島の十月」 https://kyojima-totsu.stores.jp/items/665c3585e4567c1b41e30f54
京島共同凸工所 HP https://kyojima-totsu.studio.site/
京島共同凸工所 note https://note.com/kyojima_totsu/
淺野義弘|Yoshihiro Asano note https://note.com/asanoqm/
そぼろげ!2色丼ラジオ (淺野さんによるポッドキャスト) https://listen.style/p/soboroge
すみだ向島EXPO ホームページ https://sumidaexpo.com/