私たちは日々クオリティを気にしている。クオリティというとなんというか、ちょっと業界用語みたいなものでそれぞれの業界で意味が変わってきてしまうと思う。ただ、どの業界でもみんなクオリティを気にしてものを作るなりサービスをするなりしているし、消費者は常にそのクオリティと価格が見合っているか、他の商品と比べてクオリティがどうなのかを気にし続けている。あらゆる比較を行って納得した上で合理的な選択だという自分への説得を経てお金を支払う。
合理的な消費
さて、ペルソナを作るわけじゃないがAさんの生活を例に取り、どのように“合理的”な判断の下消費を行なっているのかを振り返ってみよう。
朝コーヒーを買う。コーヒーを買うのはいつものスターバックスだ。スターバックスのコーヒーは一見高いように見えるのだが、グランデサイズを頼んでるので結構な量がある。しかも2杯目が130円でのむことができるのだ。朝は職場近くのスターバックスにより持ち帰りでGrandeサイズのホットコーヒーを飲み、仕事終わりに家の近くで資格の勉強をするために3時間ぐらいいる。スキルアップもできるしコーヒーは美味しいしですごいコスパがいい。
昼ごはん、今日はコンビニでパスタサラダと期間限定のビリヤニを食べる。食後はプロテインを飲む。全部で1500円ぐらいするけれども、これも健康のためだ。期間限定のカレーもお弁当としては量が少ない割には高いけれども、なんとあのいつも行列で有名な新宿⚪︎×の監修だ。SNSでよく見かけてて行きたかったけど2時間街は流石に辛い。なかなかいけなかったあのお店の味が食べられる上、輸入のバスティカ米を使っていて本格的だ。お店の味とどのぐらい同じかわからないけどきっとセブンだしカレーって煮物だし焼き物とかと違ってほぼ同じなんじゃないかな!いやー美味しかったなあ
会議ではこの前買ったAppleWatchの新機能をクライアントに聞かれた。今までのAppleWatchと違って今回はUltraを買ったから大きくてぱっと見で新しく出たものだというのがわかるだろう。やっぱ高かったけどこうやって会話のネタになるしUltraにしてよかったな。それにいわゆる高級時計のほうがいいって先輩は言っていたけれども、そういうちょっと成金っぽいというか、高いやつはあまり良くないなと思う。その点AppleWatch Ultraは10万ちょっとだし、最新機能満載ですごく便利。心拍も常に測れるし心電図も測れる。高精度なジャイロセンサーで運動量とかも具に記録できるし、なんと40mまでの防水機能で水深まではかれちゃう。何よりバッテリーが今までの倍以上持つから毎日充電しなくても済むようになったのはでかい。スイカも入るしチタン製で高級感もあるしもはやこれは安いんじゃないかな。
夕飯買いに行くついでにこの前プライムデーで買ったテレビの台をニトリに買いに行かないと。本当はあまりものを買いたくないんだよね。家具とかも必要最低限でいい。ミニマリストってわけじゃないけど、テレビ台で良いものかっても別に何か機能的に変わるわけじゃないし、別に誰かを家に呼ぶわけでもないしね。ニトリならすごく安いから気に入らなくなったらまた買い換えればいいし。高いの買っちゃうと家に置いてなんか違うなってなっても捨てられなくなっちゃうし。家具はほとんどニトリだよ。 ついでにスタンダードプロダクツによっていこう。スタンダードプロダクツってのは最近ダイソーがだした無印みたいなブランド?シリーズで100円じゃないけれども300円ですごいデザイナーズっぽい雑貨が買えるすごいいいお店。無印はなんか高いしこっちで十分(enough)だよね。
ちょっと荷物が増えちゃったからタクシーで帰ろうかな。こういう時車があると便利なのかなと思うけれども毎日使うわけでもないのに駐車場代だったり車検、税金でコンスタントにお金がかかるものを持つのはちょっと無駄が多いなって感じちゃうな。実質サブスクが増えちゃうようなもんだし。それだったらMaaSの時代でもシェアした方がいいよね。スポーツカーとかもなんかちょっと浪費って感じだよね。そういうちょっと見栄なところにお金をかけるなら日々の生活に少し贅沢をするとかおいしいものをたまに食べるとか旅行で自分の気分をチャージする方がいいんじゃないかと思う。下手に郊外に住んで車が必須になっちゃうぐらいなら、その分家賃にかけて都心に住んだ方が環境とかそういうの含めて無駄がなくていいんじゃないかな。
週末、だんだんと寒くなってきたし久々に私服を買いに行こうと思う。普段はユニクロかZozoで買ってるけど、今日は二子玉のアークテリクスに行く。最近はアウトドア系の服を買うことが多い。いわゆるブランド物と違ってこっちはちゃんと機能性が重視されていて耐久性もあって長く使えるからだ。特にゴアテックスは最高だね。アークテリクスの派手な色じゃなければリュックも含めて仕事で使っても全然問題ない感じで、仕事の道具と考えれば全然安い。派手さはないけれどもそぎ落とされたデザインがすごいかっこいいし何年も使えていいよね。いろいろ買うんじゃなくてこういういいものを1つだけ買って長く使うって感じがいいと思う。
アウターも買ったし少し資格の勉強をするために蔦屋家電店のスタバに行く。その途中でバルミューダの試食会をやっていた。最新機種のトースターは今までよりもさらにおいしく食パンが焼けるらしい。いやーこれはいいかもしれない。毎日使うものだし、朝これだけおいしいトーストが焼けてエシレバターまでいかないでもいつもよりちょっといい塩分多めのバターをつけて食べたらすごく気分が上がるんじゃないか。下手にどっかのカフェによってモーニングとか頼むよりも全然安いし。しかも新機能でリベイク機能っていうのがついていて総菜パンとかもいい感じにおいしく温められるみたい。会社帰り近所のパン屋でいつもタイムセールをしてる。買ったことなかったけどあれを買って次の日これで温めて食べるのもありじゃないかなあ。しかも前の機種より安い。Paidyが使えるから月5000円だし全然元取りながら払えるなあ。これは買いだな。
さて、一度家に帰って荷物を置いて今日は飲みに行く。普段お酒は飲まないようにしてるんだけど毎週土曜日はリフレッシュでちょっとだけいいお酒を飲むに行くことにしてるんだ。今日は地元のといってもここに引っ越してきたのは5年前なんだけど、地元にある和食ワインバーに行く。今週のワインは何かな。3種類で3500円のテイスティングセットを飲むのがいつもの楽しみ。この前こっちに来た友達を連れて行った時も楽しかったな。あとここは和食に力を入れてることもあってその時仕入れた全国の名産品を使ったおつまみがおいしいんだ。今週は何だろう。。。生ガキだ!生でも食べてもいいしグラタンもカキフライも調理方法は選べるみたいだ。いやあ、でもいつもよりちょっと高いなあ。4産地2づつピースセットで3800円。でも生ガキだからあまり安いのを安いお店で食べるのも怖いし、広島、岡山、宮城に岩手と食べ比べができるみたい。こんなに一気にいろいろなところ実際には行けないしどれか行くにしても交通費とか考えれば全然安いしここは食べちゃおう。うーん岩手県のこれすごい気に行ったな。今度ふるさと納税でもしようかな。ふるさと納税?毎年やってるよ。お得って感じでもないけどね。いやあなんかもちろん制度のゆがみとかなんとかいろいろあるみたいだけどさすがにあの金額ただ税金払うのとそうじゃないのとだったらやらないってことはないでしょう。お会計はお会計は9500円。いやあちょっと行っちゃったな。でもまあリモートが増えて飲み会に平日行くわけでもないしこれぐらい全然安いよね。
隅々まで行き届いたマーケティング
ある種の合理性を見てきた。人の消費行動なので銀行の投資のような経済的合理性のようなものではなく、いろいろな価値観の入り混じった合理性を作り出す。予想どおりに不合理な点も含めた合理性だ。この「今回の消費は合理的だな」と消費者本人に納得させるためにあの手この手を尽くすのがマーケティングだ。
原始的なところだと消費者がハンバーガーを食べたいと思ったときにまず最初に思い出す店名になることを第一想起を取るといって、それをとるために広告を打ったりする。広告が効果があるかどうかはアンケート調査(時々YoutubeとかFacebookで出てくるのもこれ)を行ったりして推定広告想起リフトという指数で測りながら広告を調整したりする。
ほしいな と思ったけれども“今欲しい!”と思わせるために「期間限定でセール実施中!」と言ったりして今買うことを正当化したりする。
高いな と思ったとしても、いやいやこんな機能があるんですよ。こんなに耐久性がすごいし、なんとあの有名な〇〇プロが使っています!と言ってみたり、表参道や銀座のど真ん中にでかい店舗を立ててドアマンを配置したりしちゃったりして、こんなに高級品なんだ。。。リセールもすごいし、、、ステータス、、、とかいろいろやって合理性を作り出す。
安物は買いたくないな と思ってる人がいたらすかさず「これはブランド品ではありません。無地です。いいものを作るところに投資してます」と言ったりして納得感を醸成する。無地の白い服を買わせたらその横でカレーを販売して買い替えを促す(嘘)
情報を広告や店舗などを使って提供するのでは飽き足らず、雑誌やワイドショーなどの媒体を使って価値観自体を変えてくる。この辺りはファッションに関する様々な論考を見ればわかりやすいのではないかと思う。
表現の世界まで踏み込んでくる合理性と市場経済
ちょっとマーケティングの話になってしまい、広告自体への批判も書きたいところではあるのだがそれは別の機会にして、今回書きたいのは品質、クオリティという考え方にあらゆる作り手が支配されてませんか?という問題提起である。
先述の通り人々は常に消費を行うとき、その消費が合理的であるかどうか考える癖がついてしまっている。 となると、当然、いわゆるアート作品を買うとき、作家の作品を買うときにも合理性があるかどうかを癖で考えざる追えないのだ。
例えば工芸的な花瓶があったとする。Aさんは工芸品など買わなさそうだが、仮に買うかどうか判断を迫られたらどう思うだろうか。
- この作家さんはこの前テレビで見たな
- え あの有名な賞を取ってるのか
- 六本木のど真ん中のこんなところで展示されてるんだしさぞかしすごいんだろう
- いやー作るのにすごい時間がかかって年間50個しか生産できないらしい
- メイキング動画を見たけれども、本当に超絶技巧だった。こんなの機械を使わずに手作業でやってるなんてすごい!
- すごいクオリティだ。見たことないほどきれい。さすが職人の手作業
- これはもはや資産かも
こんな感じじゃなかろうか。ここまではなんとなく想像つくと思うが、これ、作り手もここまでではないにせよ、ある種の誠実さのためにクオリティに支配されてるのではないかと私は思っている。
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これ20万かなあ どうだろう。まあでもいろいろ工夫したし作るのに相当時間かけてるしこんなもんかな。
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かなりこの部分は気合を入れてつくってるし、これ作るにはあれもこれもそれもこれも習得してなきゃ無理だしやってる人いないと思うな
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この部分の色を出すのに3年ぐらい研究してるしなあ それを考えれば
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別に原価から計算するわけじゃないけどこれぐらいの時間と材料かかってるしこのぐらいは全然とってもいいのでは
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いやあでも100万はないな。ちょっと取りすぎな感じする。他の作家さんもこのぐらいだし倍どころか5倍なんてちょっとね。
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自分だったらいくらなら買うかなあ。でも100万はないな。
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うーん 100万で売るならもっとこうしてこうしてこうするかなあ。今回使わなかった素材も100万なら使えるし
作品というものに”合理的”な価格を付けるのは不可能である。なぜなら同等品というものが本来であれば存在しないからだ。だけれどもなぜか作家側も普段は消費者なので値段をつけるときに消費者的発想で価格を付けるようになってしまう。買ってもらう人に対し一定の納得、一定の合理性を与えるためにいろいろ説明を付け加えてしまうのだ。 そういった合理性を伴わせないといけない気がするというのは市場経済であったり資本が生んだ価値観であったり、競争原理が生んでいる歪んだものであるにもかかわらず、消費者として教育され続けている我々はかなり意識しないと非合理的なものを生み出せないし、それらを切り抜けてせっかく生み出した尊い作品であったとしても最後の最後で価格を付ける瞬間に合理性のゆがみを乗っけてしまう。
そして何が厄介かというと、こういった歪んだ価値観や合理性のことを作家も消費者も”誠実さ”と呼んでいるところが一番厄介なところである。
つまるところ、価格に見合ったものを出すのが良心的であり、誠実さである。クオリティに責任を持つのが作家の責任である。そこに向き合うことが誠実さであるという。だが、どうだろうか?ここでいう価格に見合うとかクオリティというのはその大部分が「お金をかけて量産した方が有利」になるというとんでもなく資本家に有利な価値観に染まっていないだろうか?
もちろんそうじゃない部分も沢山ある。作品とは誠実に向き合うべきである。しかしながら、何か歪んだ誠実さを持ってしまってはいないだろうか。いや、持たされてしまってはいないだろうか。
私は『東京有機』という本を作ったが(https://tokyomorph.theshop.jp/)、これを作るにあたって品質という部分、クオリティという点で本当に悩みつくした。つくせてはいない。まだ悩んでいる。
お金と時間をかければよくなる部分は企業・資本に負け続ける
『東京有機』はキンコーズのセルフコピー機やコンビニで印刷することを前提に作っている。いろいろ調べて、最初はそれこそ少し借り入れを覚悟してオフセット印刷しようかとか、そこまでいかないでもHPのIndigoという印刷機を持っている印刷所にデジタルオフセット印刷を頼めば比較的少部数でも液体トナーを使っているのでオフセットレベルのクオリティが出せるとかいろいろ悩んだ。せっかくだし色にこだわって色見本印刷してくれるところを探そうとか、銀座に行けばそういった対応をしてくれるところもあるらしいとか、東京にはいろいろな選択肢、お金を払ってお願いできるサービスが本当に無数にあった。
しかし、そうやって自分にはできないことをお願いしてやってもらって完成度をあげていく、クオリティをあげていくというのはどうなんだろうか。どこまでそれをやればいいのだろうかといろいろ試すうちに思うようになった。できる限り自分でやるというのは改めて言うと当たり前なのだが、なんだかそれではいけない気もする。
それではいけないと思うのは、自分の力だけではクオリティが低いものになるという前提があるからだ。 写真に関してはいいものが取れていると思うが、例えばグラフィックデザインとか、本の装丁とかはやったこともない。写真の配置とかもプロがやればもっと本っぽくなるのかなと思ったりもする。
自分の力 というのは自分ができる作業という意味以外にも自分で扱える機材の範囲という意味も含まれてくる。自分が取り扱えるのはせいぜい家庭用プリンターの一番いいやつぐらいで、オフセット印刷機を買って扱うことはできない。無線綴じ製本機を仮に購入してもきれいに生産することは難しいだろう。
こうなったときに当然出てくるのは「外注」と「借入」だ。自分ではでかい印刷機は取り扱えない。だけれどもラクスルで5万円ほど払えばオフセット印刷で印刷してもらえる。8万ぐらい払えば無線綴じにしてもらえる。さらにこだわって表紙をもっといい紙にしたいと思ったら印刷所に頼めば家庭用の機械では絶対印刷できない分厚い紙に印刷してもらえる。ハードカバーにすれば見栄えもいいだろう。シュリンクで包装した方がいいかもしれない。
だけれども、そういったことをやっていくと当然ながら一冊当たりの価格はどんどん上がっていく。どんどん上がっていくので、たくさん印刷して量産効果を効かせて一冊当たりの価格を下げていきましょうという話になる。結果、2000部、5000部印刷して在庫しましょうということになる。そして待っているのは500万であったり1000万ぐらいの支払いである。一冊当たりの値段は下がっていても、総額としてはどんどん大きくなっていく。そうなると商業出版、出版社に拾ってもらえないと出版できないという形になってくる。もちろんここで突っ張って自費出版で支払うというのもSNSで作家が直接発信する時代ではあり得る選択肢になってくると思う。そうなると借り入れが発生する。
借入するにせよ出版社に払ってもらうにせよ、結果的にここでその本は2000部なり5000部売れないとまずいものとなる。(損益分岐点はもう少ししたかも?)ということは2000部なり5000部売れそうなものを仕上げないといけないとなる。一般的に売られている写真集を見る。それと比べる。値段も比べる。写真を見る。表紙の紙を見る。本文の紙は最高級の紙でこれを使うにはあと300万円必要になる。こういった比較を無数に行い、自分にできる範囲を見定めていくことになる。それに合わせて内容を何とかできないか変えていく。これはいわゆるデザインという作業なのかもしれない。売るために売れそうな構図でとるようになるかもしれないし、売れそうな流行りの色に合わせた編集を行うかもしれない。なぜなら2000部売らなければならないからだ。そうやって売るためにいろいろやっていくことになる。
この時作品を多くの人に届けるためにということで手を加えていくのだが、”作品”は素直な純粋のもので、手を加えているのはクオリティをあげるためで売るためではなく、完成した作品を宣伝するときにあらゆる手段を尽くす(SNS,Youtube,書店での出展)と分けて考えるので作品に影響はないと思いがちだ。だが、影響がないわけないというのが私の考えだ。 結局のここで無意識に誠実であればあるほど意識してしまうクオリティ、価格に見合ったものを出すという精神は明らかに市場性にゆがめられたものになる。出版社を介していたら言うまでもないし、自費でやってもその歪みから免れることはできない。
結局のところ自分から外に出し、産業からの手を借りれば借りるほどお金というものを最初に積む必要が出てきて、そのお金を調達したり自分で無理したりして捻出することになる。資金の調達能力というのは企業のほうが圧倒的に有利というか、100パーセント勝ち目がない。100パーセントととかいうのは詐欺かバカしかいないが、今回は間違えなく100パーセントだ。大きな出版社であれば時価総額2000億とか3000億とかいう規模を持っている。人の人生700人を振り回しながら、人が一生稼いで得られる収入の1000倍近い金額を毎年得ているのだ。勝てるわけがない。
別に勝ち負けではないし、勝つ必要もないのではあるが、そこの土俵にちょっとでも乗っかってしまったら終わりだ。終わりなのだが、日々クオリティの高いエンターテイメントとしての作品に触れ続けている私たちはどうしてもクオリティをあげたいと思わざるを得ない。だが、その先に待っているのは市場のゆがみを一身に受けた作品だ。仮に作品には波及させまいと頑張っても結果として個人が金銭的な不安定さというあおりを食うことになる。一体それはいつまで続くのだろうか。
仮に作品の販売と制作費用がバランスしていたとしてもそれは両足が地に着いたバランスではない。つま先片足立ちでお皿を4枚回しながらバランスしていますという状態である。そんな状態で“クオリティ”を担保するのが誠実さなのだろうか。それがプロとしての、作家としての受けるべき試練なのだろうか。私はそうは思わない。
地代がかかる限り限界が来る
そこで今度は自家印刷・自家製本という話になってくる。つまり、工場までいかないでも工房を作り、その工房にできる限り廉価な産業レベルまでいかない印刷機なりなんなりを購入して本を作ろうという話だ。私も上記のことを考え自分が手を動かせる範囲でやりきろうと思い、その中でもなるべくいいものをということでCanonのプロフェッショナル向けのインクジェットプリンターを買おうかとか、そこまでいかないでもEpsonのもう少し安いやつを買おうかと検討していた。裁断機もこのぐらいの値段ならなんとか買えるかなと思いいくつか実際に触ってみたりしていた。
だがここでふと、最近このブログを作ったときのことを思い出す。最初のポストに書いたが、このブログはWordpressやNoteなどの外部サービスをなるべく使わずに単純にしてCloudFlareの無料枠の範囲内でホスティングできるようにしている。私が死んでもある程度残ってほしいということを願ってそのような形にしている。単純にすることで保存性、継続性を担保しているのだ。
この仕様を考えているとき、写真の保存性はどうなんだろうと思った。よく紙のプリントにしないとデータがすぐに吹き飛んだりしてなくなってしまうといわれる。最近だとビデオテープの読み取り機がなくなり膨大な映像が消失してしまう問題を2019年にユネスコが「マグネティック・テープ・アラート」と名前を付け警鐘を鳴らしている。デジタルデータというのは定期的に保存場所を移し替え続ける必要がある。だが同時に、紙なりなんなりの物理的な媒体の保管場所はどうなんだろうか?私が家賃を払えなくなったら終わりである。どんなに思いがあるものも保証会社の淡々とした手続きと並行ですべて捨てられてしまうだろう。そう。物理的なものは土地を所有していない限りすべて家賃・地代がかかるのだ。
となるとどうだろう。どんなに小さかったとしても東京なりその周辺のどこかに工房を借りるなり借入して買ったとして、それは常に地代家賃という歪を受け続けることになる。最初は大したことないかなと思っていたとしても固定費で5万、10万。これは相当に大きい。何かがあったら払えなくなる金額だ。つまるところ手に収まる範囲でという制約を付けたとて設備を買った時点で継続性は一気に下がってしまうのである。
であるならば、完全に都度料金でアクセスがしやすい、仮に私がホームレスになったとしても注文が来たら印刷できる形にするべきだと思い、コンビニ印刷、印刷代が場合によっては半額にできることもあってキンコーズでの印刷にした。製本も中綴じ印刷にし、リュックに入るサイズの中綴じ用のホッチキスを中古で購入した。紙も変えることはできない。フチなし印刷をすることもできない。だが、これが一番継続性があると判断した。仮にホームレスと書いたが、今の私は本当に街の写真を撮ることしかできなくなってしまっていて、かつ、重いカメラもくびのけがで持てなくなってしまっているので限りなく近い状態になる覚悟はしている。
さっき少し書き忘れたが、写真集の多くはオフセットでロット生産されるので売り切れたらもう終わりということが結構ある。もちろんその方が限定性が出てセカンドマーケットの価格が上がったりしていろいろやりやすいのかもしれないが、今回のやり方であればそういったこともない。私が死なない限り、データがすべて吹き飛ばない限りは基本的に注文を受けたら注文して発送できる。
データの保管は本当に課題で、結局安全に保管するにはクラウドに家賃を払わなくてはならない。できる限り固定費を0に近づけられるようGoogleCloudのArchiveクラスを使うなどして工夫していきたいがどうすればいいか悩んでいる。
価格も本当に悩ましいが高いと感じながらつける
さてそうやってできた『東京有機』、印刷に結果としては一番ページ数が多いもので2000円ぐらいかかる。流通を考えるなら6000円、流通も自分でということなら4000円ぐらいか。5000円とか。結局ここでも私の中の“合理的な消費者”が顔を出す。この話を作家側からするのはなんというかこう、かなり抵抗があるが結局”高い”とか”安い”という比較の話が出た時点である種の合理性の天秤にかけているのだ。これは価格に見合ったクオリティがあるかな。これは同じような価格の本と比べてどうなのかな。プロはこのぐらいのボリューム感でこのぐらいの値段だけどどうかな。
大変残念なことにクオリティという目線で価格の合理性の天秤にかけたらほぼ高いという結果になるだろう。結局のところ非合理手的なものを作っているので非合理的な価格がついてしまう。価格において非合理というのはそれすなわち高いな、割高だなと思われるということなのだ。そして、繰り返しになるがある種のデザイン教育であったり写真関係の勉強をしていたり、そういった作ることに関する教育を受けていればいるほど誠実さのようなものが染みついてしまい自分自身が一番高いと思うことになる。
だが、ここはもう本当に脂汗を垂らしながらクオリティを切って“高い”値段をつけなくてはならない。
作り手として普段の生活の固定費はできる限り下げ、享楽的消費を削れるだけ削り、人に楽しませてもらうことをやめ自分で自分を楽しませながら生きていく。それでも出てきてしまう人に頼まらなければならない物事、その時に必要なお金を賄える金額をつけるしかないのだ。
売れたらポルシェに乗りたいのでこの金額にしますなどはもってのほかで、そういった他人のブランドという価値尺度にのっかって楽しませてもらおうといった享楽的な消費を行う金銭は1円たりとも載せるべきではない。でもそうではない本当に私が私自身でいられるためのギリギリの金額というのはもうお願いして高いと思っていてもあなたの自由を分けてくださいと言いながらお願いするしかないのだ。クリエイターと消費者の関係ではこの不合理さを乗り越えることはできない。単なる消費者以上の関係を築かなくてはならない。その意思も込めて形態や価格、自身の生活を見つめていかなくてはならない。そのうえで自然体で出てくるありのままの作品を受け取ってもらうしかないのだ。それは傲慢かもしれない。傍若無人かもしれない。アマチュアイズムかもしれない。貧しい表現かもしれない。ぼったくりかもしれない。だが、その上で出すという覚悟をしなくてはならない。
合理的ではない、非合理な金銭の授受。ある種の投票のような作品と金銭の交換の先に、何か今の市場経済に身をゆだねた作品作りではなしえない美であったり、情報の伝わり方、運動の灯のようなものが生まれうるのではないかと思い『東京有機』は今回のような形となったのだった。