Twitterでは作家とギャラリーの関係での問題が表沙汰になることがちらちら見える。 ざっくりいうと以下の問題が挙げられていることが多いと感じる

  • ギャラリーが何もやってくれない
    • のに30パーとか40パー取ってく
    • 客は自分(作家)が連れてっても同じ料金取られる
  • 値付けがおかしい
  • ひどいことを言われた

さて、私はギャラリストではないし作家と言えるほど作品の販売ができているわけではないのであくまで想像だが、想定されるコンフリクトとその対処について少し書いておこうと思う。

作品をどうしようか という議論をするという大前提

まず、作家側とギャラリー(をはじめとしたビジネス側)との間で前提が全く違うことがしばしば見える。特に広告代理店をやっている人たちは作家側の前提を踏みつけて議論してしまうことが多く、話が噛みあっていない様子をよく見る。広告を制作する際のコミュニケーションをそのまま作品の話でしてしまうのは大変作家に対して失礼だし、作家を傷つけることになる。

広告の制作現場においては作家は完成物のあくまで一要素で方向性や雰囲気を決定づける一要素に過ぎない。例えば白黒のポートレートがとても上手い写真家に缶コーヒーの広告写真を頼んだら白黒写真になることは決定づけられるが、缶コーヒーをどのぐらいの大きさで写すとか、ここは文字を置くので開けておいてください見たいな構図的要請も作家側は受け入れる必要があることが多い。むしろそういったさまざまな配慮を織り込んで撮影できることがプロフェッショナリズムとして讃えられることが多いだろう。

これと同じノリで作家の作品に口を出してしまう人があまりにも多い。白黒の写真家の作品に対してカラー写真にした方が売れるよと言ってみたり、演歌歌手に時代はYOASOBIだからもっとそれっぽい曲歌った方が売れるよと言ってみたり。口を出す方は普段口を出すことを仕事としているので、市場というものを分析した結果という客観的事実に基づいて発言をしているだけなので何の悪気もない。

だが、残念ながら作品というのは現象なのである。

作品および作家の活動は基本的には自然現象として捉える必要がある

誤解を恐れずに言えば作品作りというのは自然現象の一つだ。作家の生い立ちや置かれている状況、生まれ育った環境に住んでいる国の社会情勢、さまざまな因果関係がわからないインプットが結果としてアウトプットを産んでいるのだ。なので、作品は現象の結果生み出された結晶のようなもので、まさに奇跡が生んだものなのだ。 なので作家側からするとあらゆる選択の結果が作品には表れているのでこうした方がいいよと安易に言われても、ほとんどの場合はそんなこと考えた上でそうしていないんだ!ということになるし、選択した結果ではなくさまざまな外的要因から生まれた歪みみたいなものが作品に表れていることも多々あるので、必ずしも本人にコントローラブルなものではないのである。

そこに「こうしないと売れないよ」みたいな話をされてしまうと、こだわりに抵触した場合は怒ることになるし、どうしようもない部分を指摘された場合はしゅんとするだけである。

編集者と作家の関係性 ギャラリストと作家の関係性

なので、編集者はすごい仕事だなと日々思う。作家ごとの特性をわかっていて、直せる部分と直せない部分をまずちゃんと分解して言語化しているのだと思う。作家が置かれている境遇と売れているもののギャップを理解し、直せないところ・いいところを肯定しつつ直せる部分を指摘していくというのは並大抵の仕事ではない。分野によっても多分踏み込める量みたいなものがあって、漫画は商業でやっていくという言葉もちらほら聞くし編集者が修正する範囲が大きいのではないかと思う。

一方アート作品、特に作家が存命の現代アート作品とギャラリストの関係はむしろ気持ちいいぐらい他人にすることで関係性を保っているのではないかと感じている。最初に書いた不満で何もやってくれないというのは2つに分解できると思っていて

  • 作品についてのアドバイスがもらえない
  • 作品の販売について何もしてくれない

の2つに分解でき、基本的には後者のことを言っていると思うのだが、前者の意味で言われてることもそれなりの割合あるんじゃないかと思う。ギャラリストは編集者ではないのでまず前者に関してはあまり期待しない方がいいのではないかと思う。 ギャラリストは良くも悪くも好き勝手作品について評論することで作品をお金に変換する装置みたいなもの。証券会社みたいなものだと思った方がいい感じがする。 「作家本人が望む望まないにかかわらず、作品を大金に変えてくる」ぐらいの他人さがすごく大切なんじゃないかと思う。なぜなら、作品を金銭的価値に変換することは本来不可能なことだからだ。

作品の価格について無関係でいられる幸せ

作家が売り上げをどの程度気にするべきかについてまだちゃんと因数分解できていないのでちょっと雑な書き方になってしまうが、作品の売り上げを気にしながら作品を作ることは私はこれからの時代必須というかそれが作家の活動の根幹に関わると思っているが、一般的にはあまりよしとされていない感じがする。特に現代アートでは尚更で、あれは大衆的だねと後ろ指を指される。作品が、食える食えないという極めて現実的な切迫した短期的問題で変質していることをあまりよしとしないのである。この辺りはまた別で書く。で、あるからに作家が作品の売価を意識しながら制作するなんてことはもってのほかなのだ。作品作りにのみ没頭しているというある種の清楚さが求められている。

で、ギャラリー側が作家と仲の悪い存在であれば、この金銭化の部分を作家の意思とは無関係であるという関係が築けるのだ。あいつが勝手に高くして売ってるけど、私は全く関与してません。もう少し踏み込んで言う人は金儲けはよく分かりませんと言うだろう。

度々ジブリを出してしまうが、まさに宮崎駿-高畑勲 と 鈴木敏夫 である。よくよくドキュメンタリーを見ると 高畑勲-宮崎駿-鈴木敏夫 の順で宮崎駿は映画として成立しているかどうかと言うこと(楽しんでみれるか)と言うことをよく気にしているのである種商業的ではあるのだが、興行の方法にまでは私は分かりませんと言うことで一切踏み込まない。映画祭とかも鈴木さんが勝手に申し込みしましたと言うばかり。さながら親が勝手に応募したアイドルオーディションである。でもそうやって他人さを入れることであらゆるものを守ることができるのである。

百貨店とか呉服屋とか。商人的な嫌われ役はもしかしたら沢山の文化を守っていたのかもしれない。

だがやはり、私は今すべて直販直営で、直接発信することが大事だと考えている。それについてまた今度因数分解しようと思う。