首を怪我して3週間
5月17日、いろいろあって首を痛めてしまった。レントゲンを撮ってもらった限りでは骨折はしていないようだが、右手と左手中指に違和感があり、今はだいぶマシになったがタイピングで誤字がすごく増えてしまうぐらい影響が出て、今でも続いている。MRIの結果が来週出るらしいが、仮に出たとしてもよほどでない限り保存療法、つまりそのままにして様子を見るという形になりそうである。
私は整形外科の治療に対しては不信感と言ったら失礼だが、ちょっと一般的な感覚とのズレを感じる。もちろん専門家では全くない私の方が感覚として間違っているのだが、ちょっと愚痴みたいなことを書かせてほしい。 首だけに限らず、以前腰を痛めたことがあった。腰を痛めた際も骨折はしていないので様子を見ますということで湿布やくと鎮痛剤が処方されて、様子見になった。状態はどんどん悪くなっていき、ついには寝ることができないぐらいになってしまった。病院に行くと、鎮痛剤を増やすという形になった。それをしばらく繰り返すことになった。
結果的には今でも腰痛は度々起こってしまっている。椅子が悪いのかもしれないし、ベッドが悪いのかもしれないし、歩き方が悪いのかもしれないがもう原因はわからない。いわゆる慢性的になってしまっているという状況だ。鎮痛剤・湿布では炎症を抑える効果はあるかもしれないが、私が望んでいるのは対処療法ではなくもっと構造的な問題を改善するというところだった。私が と書いたがみんなそうだろう。病院に行けば治してもらえると期待していくのだ。
もちろん病院は全知全能の神ではないし、治療が難しいものがたくさんあるのは百も承知だ。ただ、眠れないとか今回で言うと指の動きが以前と全く異なってしまうと言う状況、さらにカメラを持ち歩くこともできない、iPadぐらいしか入れていないリュックサックを背負うこともできなくなってしまうような状況になっていますと言う状態で、鎮痛剤と湿布のみで1ヶ月間耐えてくださいと言うのはなかなかに大変なことだ。職種によっては1ヶ月何もできなくなってもおかしくない。そのぐらい骨と筋肉というのは長いタイムスパンで見ないといけないものなのかもしれないが、かなり辛い。そして、治るかどうかもわからないという話だった。
これもわからないということを伝えるのは専門家にとって大切な仕事だ。専門家でもわからないことがあるのは十二分に承知しているし、そもそもMRIの画像が出てこないとどうしようもないというのはわかっている。一生後遺症として残る可能性がありますというのもわかる。わかるのだが、それはそれで事実として受け止めるのが辛い。(あたりまえ)
腰の時はMRIの結果が出てももしかしたらこのあたりの神経が触れてるかもしれませんね で終わりだった。結局生まれつきの骨格みたいなものがあって、それの上にさまざまな生活習慣がかさなった結果出てきているものなので対処療法をするしかないということだ。でもじゃああと30年40年鎮痛剤を飲み続けるのか?ロキソニンテープを貼り続けるのか?と当時は思ってしまった。結果的にその後腰痛は気にならなくなったが、今でも数ヶ月に一回痛くなって湿布を貼っている。治らないのか。
どうやらそのような話は結構普遍的な話のようで、腰が痛い、膝が痛いで行っても湿布と鎮痛剤だけで終わり全く直らないで5年通ってますみたいな話はザラなようだ。 で、結果どうなっているか。整骨院が氾濫しているのである。
何も別に私は東洋医学は全く効果がない!というつもりはない。ただ、整体に関しても以前行っみた3箇所はともに毎週来てくださいと言われて1箇所に関しては3年ぐらい通っていたが、付き合っていくしかないねーというスタンスである。たまに姿勢矯正みたいなことをやっているところがあって、3ヶ月ほど受けてみたが特に効果は感じなかった。 これは保険医療という制度に私が毒されているだけかもしれないし、父が膵癌亡くなった時に標準治療以外の治療がわんさとやってきてうんざりしていたトラウマのようなものも影響していると思うのだが、そんな治療があるのだったら病院でやってるよね?という疑問が常に付き纏ってうっすらとした不信感が募っていかなくなってしまった。
しかし、今回腰痛のようなじんわり生まれてきたものではなく明確に物理的な衝撃が加わって首を怪我した。にも関わらず、腰痛と同じようにぼんやりとした治療が続いている。直らないのかもしれない。
直らないとしたらこれは私の人生にとっては相当な打撃である。まず登山リュックなんてのはもってのほかになる。ミラーレスカメラを首からかけることももしかしたら叶わないのかもしれない。キャリーバッグにすればいいと言ってもじゃあそれを10km20km引きずっていけるのか。交換レンズを持つこともかなり強く制約されるだろう。紙の本はもう長時間読めないのかもしれない。
こう言った言葉が現在の不安から“大袈裟”なものになってしまっているとは思う。とは思うのだが、結局病院で一切の見通しを伝えてもらえないので悪い方に考えてしまうのだ。悪い方に考えるのが悪いという話かもしれないが、1ヶ月間何もできなかったという事実からそう思っても仕方ないんじゃないかと思ってしまう。
つきあっていく という表現
痛みと付き合っていくとか、病気と付き合っていくみたいな話は子供の頃からよく耳に入る言葉だった。父が非アルコール性の脂肪肝でもう20年近く薬を飲み続けていたからだ。祖母も常に湿布薬の匂いを漂わせていた。そうやってみんな意外と何か不健康と言われることを抱えながら生きているのかもしれない。ただ、30歳の現在でそんなことが起こってしまうとじゃ後何年付き合っていけばいいんですか?と思ってしまう。それはもっとひどい人がいるのよって言われるのかもしれないし、医者からすれば大したことないと言われるかもしれないが、長時間座れないとか長時間歩けないみたいな制約が突如突きつけられて明日から一生そうですというのはなかなかに辛い話だ。
同時に私は“薬”というものを飲めば解決するというものではないということを知っている。薬というのはもちろん効く時もあるのだが体というものがそこまで一定のものではないので、体の変化に合わせて薬の効果も増減するのである。健常者であっても あー今日は調子がいいな 今日は調子が悪いな という日があると思うのだが、薬を飲んでいるとその振れ幅が増幅され、あー今日は動けるな あー今日は何もできないな みたいな感じになってくるのである。
毎日湿布を貼ればいいじゃん 毎日鎮痛剤を飲めばいいじゃん というのもごもっともなのかもしれないが、それはすなわち体調のボラティリティをかなり大きくする行為になる。
いつ病院に行くのか
私は病院との距離感が相当近い人間であることを自覚している。それは日本の保険医療制度のおかげで安くいけるというのも大きいと思うし、実家の目の前に小児科がありことあるごとに連れていかれていたという習慣のようなものが染み付いているのかもしれない。なので、友人が病院にいこっかなーみたいな話をしているといつも驚く。そんなひどい状況でよく7日間も放っておいたね、その上で病院行くかどうか悩んでいるってどういうこと?と驚くことが多い。
昨今社会保障費の増大が問題となってきており、自己負担額を上げたり大きな病院に自己判断で行く場合は加算料金が取られたりするようになっている。セルフメディケーション税制が整備されて市販薬で対応できる範囲を広げようとの動きがあるが、だとするとじゃあ健康という状態がどの程度のものなのかというのを教えて欲しいと思う。
私は今回病院に行ったが、多分だが首が痛くて両手に違和感がある 程度では病院に行かない人も結構いるのだろう。血が出ているとか、明らかに腕が変な方向に曲がっているとか、発熱が一週間続いているみたいなこと以外では多くの人は病院にも行かないし市販薬も買わないようだ。つまり、多くの人にとってこの私の今の状況は健康ではあるが一時的に調子が悪い部分がある程度の認識なのだろう。一方私は神経質なので?もしこれで後遺症がずっと残ったらどうしようとか、首がヘルニアになってて固定しないとものすごい悪くなってしまうのではないかとかを考えてしまう。そのあたりの問題の分解=デバッグをしてもらうために病院に行く。病院に行くと診断がつく。薬が出るので健康ではないという状態になる。
こうなってくると、調子が悪いだけ と 健康ではない病気の状態である という境界はどんどん曖昧になってくる。調子が悪いというのはあらゆることで起こりうるので、これを全て病気と捉えてしまうと健康だと言える日はどんどん少なくなってくる。常に何らかの薬を服用する状態になってくる。私は子供の頃からこの病院にいくを繰り返し行ってきた結果、健康であるという自覚がある日がどんどん減っていき今ではほとんどない状態になってしまっているような感じがする。
もちろんそれは腰痛のような薄ら長く続く疾患を抱えているからというのが大きいのだが、それにしても元気ですと胸を張って言える日が少ないというのは何か間違った健康観を持ってしまっていると言わざるを得ない。言わざるを得ないのでそのような歪んだ健康観を持っている人が何度も病院に来るというのは病院側からすればうんざりだろう。申し訳ない。
だがしかし、私からすると私なりの健康状態があって、そこから外れ始めた時、それがさらに増悪していくものなのかそれとも治っていくものなのかの判断を専門家ではない自分自身では診断できないので病院に診断してもらうしかないというわけだ。 1番の問題は、そういう意識で行っているはずなのに今回の整形のように特に問題ないですねー つまり、「単なる不調で健康の範囲内です」と言われると不満が出てきてしまうという私の精神状態というか考え方が相当拗れていて修正が必要だ。
だが同時にそうやって初期症状を見逃して父が死んでいる(見逃してなかったとして生きれたかは別問題)ので、何かあったら病院に行っといた方がいい感じもするし、なかなか難しいところである。
じゃあ多くの人が思う健康・不健康ラインは?
そこでまた周りに目を向けてみる。どういう時に病院最近いった?という話を聞いてみたり、こういう状況だったらどうする?みたいな話をしていると浮かび上がってくるのは「仕事ができるかできないか」というラインである。
確かに今回私はカメラを握る・持ち運ぶことができなくなってしまったので仕事ができなくなっている。できなくなっているので結果的にここまで不安が大きくなっているのかもしれない。一般的な病院に行くラインとして賃労働ができる状態ができない状態かというのは当たり前というか1番妥当な判断ラインなのかもしれない。
行政の健康不健康の判断もそのように感じる。健常者というものと障碍者を分けているのは「賃労働において特別な配慮が必要か否か」というところで線引きがなされている。特別な配慮が必要そうであればそれを支援するし、特別な配慮が要らなくなれば支援はなくなる。この支援というのはまず第一には「賃労働」ができてるのかどうかをみて判断されるものであって、その人が「日常的に困っているかどうか」ということでは判断されていない。
なぜなら「日常的に困るかどうか」というのは主観的なもので、そこまでいっていないがちょっとネットの言説を借りるようでよくないが「サボっている」とか「大した程度ではない」ものかもしれず、それを支援するのは「平等ではない」から常にハローワークを通じて「賃労働」をさせる圧力をかけてそれでもどうしてもできないということであったら支援するという仕組みになっている。
これは「現実的」かつ「客観的」に判断できる基準として「妥当」なものなのかもしれないが、実際多くの人がそこからこぼれ落ちていることは言うまでもない。 この非常に曖昧かつある種の暴力性を孕んだ基準の結果、多くの人がおこぼれ落ちた結果「これは調子が悪いだけ」「これで会社に行かないのは甘え」「自分が弱い」と言う形で自分を責めて生きていく。運が良ければそのまま定年でいくことができるが、残念ながら定年まで行き着けないことが多い。
どうして病気が増えてしまうのか
最近病気が増えていると言われている。自殺者の多さが随分前から取り沙汰されていたが、最近ではブラック企業という言葉は全員が知るところだし、うつ病は風邪を引くようなノリで身近で発生しているし、先天的な要因が大きそうなADHDもどんどん増えてきている。 これはなぜかというと、先述の通り健康か不健康かと言うラインが使用者のみならず労働者にとっても「労働ができるか否か」によって決まり、労働者側は「労働」の内容を決める権限がないので労働の搾取構造が強化されたり労働の種類が時代とともに変化してあまり人間的ではないことをやらなくてはならないことになった時に、「労働ができない」状態に多くの人がなり、不健康となる。不健康な状態になった上で、制度上医師の診断を持ってしてあらゆる支援が行われるので「病気」になるのである。
日本には皆保険制度という素晴らしい制度がある。もちろん多くの問題点を抱えており、特に医者の残業時間は大変な問題である。が、医療へのアクセスという観点からすると本当にこれ以上の制度はない。だが、それに甘んじて行政及び使用者が医療に問題の皺寄せをしていいかというとそんなわけはない。
科学的で客観的で一貫性があるという合意形成がなされている「医師の診断」というものを今の日本社会は濫用しているのである。 「普通の仕事」ができない人を「医師の診断」というもので「科学的」な判断のもと「病気」にすることで社会の中から隔離して隔離した上で「みんな労働をしている」という平等性を前提として何かを飲み込んでいるのである。これは大変不健全な状況だ。
気分が落ち込むのは健康な証拠
毎日粉塵の中で作業していたので病気になりました 灼熱の高炉で12時間連続で作業していたら病気になりました 建物を解体していたらアスベストを吸って中皮腫になりました
ケガ・事故といったわかりやすいものは産業革命以降市民が工場労働に従事する中で比較的早期に(といっても時間がかかったが)問題となり、それ以外のこういった中長期で影響が出てくるものも、法規制によって事業者に安全を守るためのコストを強制し、事業者側から見ても競争の範囲がから外してもらったうえで競争が行われてきた。
会社でパワハラを受けたので鬱病になりました お客さんから毎日暴言を受けたので仕事に行けなくなりました 毎月100時間残業していたら脳卒中になりました
だが、こういったちょっとわかりにくいものに関しては今でも問題が起き続けている。使用者側からすれば「そんなこと気にしてたら仕事にならないよ」とか、「そんなのみんなやっていて当たり前。そんなんじゃ競合に勝てないよ」「この仕事にはそういったことがつきものだからね。昔はもっと酷かったんだよ」ということを言い続ける。言い続けることが許されている。なぜなら事故などと違ってみてわかる何かが起こっているわけではないからだ。そこでどうしたか。医療という現場で「病気」として判断してもらうことで目に見えるものに転換して対抗したのである。それはもちろん当事者たちの普段の努力によって勝ち取った権利のようなものであることは間違えがない。
しかしながらここまで書いてきたように病気というのは「仕事がもうできない」という結構致命的なところまで追い込まれて初めて成立するものとして取り扱われている。病気になってからでは遅いのだ。
パワハラを受けたので落ち込んで毎週お酒を飲んで発散して仕事になんとか行っています
という状況は病気ではないとされている。「そんなことで落ち込んでしまう本人が弱いし、お酒に逃げている本人のせいで病気になっても誰も悪くない」となるだろう。しかしながらこれは大変危険な状態だ。
ちょっと引いてみてほしい。「パワハラで気分が落ち込む」のは健康な証拠ではないか。そしてそれになんとか対処しようとしてお酒を飲んで発散し、仕事に行く。健康な証拠じゃないかと思うだろう。だが、これを健康としていいのだろうか?落ち込むことがあって落ち込むのは確かに健康な証拠で、楽しいことがあった時に楽しいと思えることと表裏だ。だが、このまま続けたらこの人が鬱病やアルコール依存症になることは目に見えている。
これは長い歴史の中で今ではブルーカラーと呼ばれる人々が闘って勝ち取ってきた安全と比較すると、随分と危険な状態を放置しているのではないか。ビルの20階の高所作業でヘルメット安全帯なしに作業することをケガをしてないし事故もないから大丈夫といっているだけではないか。
労働者にとって労働ができなくなる状況というのは致命的である。その致命傷に至るまで「健康である」とするのはあまりにも暴力的ではないか。
私たち社会は科学的というコンセンサスのある医師の診断にあらゆる曖昧な判断を押し付けて、危険な状態を放置する免罪符として使っているのである。 医者からしたら本来行政の問題であるはずの判断をあらゆる方向から押し付けられており、大変だろうと思う。
だったらもう窓口が医師になればいいという話
さて、だとしてどうすればいいかという話だが、いわゆるセーフティーネットの判断はもう医師の診断書があればそれ1本であとは法人登記のように形式的審査主義にしてしまうのがいいのではないかと思う。行政は都合のいい時に医師の判断を仰ぎ同時に一方では審査をするという形で医師の判断とは別に判断を行う。もし申請に医師の診断を必要とするものがあるのだとしたら、じゃあそれ以外に何が必要なんだろうか?医師の診断が出たうえで「本当は大丈夫なんでしょ?」という趣旨の話をするつもりなのだろうか。まさにこのあたりの審査は官僚制的行政でありがちな「平等」を実現するためにいろいろ行使してしまうというよくある問題だ。
純粋な行政とはその行政の「継続性・持続性」以外の特定の目的を持たない、特定の人格(主体゠主観)を持たない、単なる金銭の機械的な分配者でしかないという意味である。つまり官僚制的行政のことである。
山本理顕. 権力の空間/空間の権力 個人と国家の〈あいだ〉を設計せよ (講談社選書メチエ) . 講談社. Kindle 版.
社会情勢に応じる診断
病気という言葉の解釈の変化は何も今に始まったことではない。映画『イミテーションゲーム』のアランチューリングを見れば今は病気とされているアスペルガー症候群が当時では少し変わり者として扱われ、今では病気ではない同性愛がソドミー法により病気とされ治療される様子が描かれている。 中世ヨーロッパでは各町の占い師が今でいううつ病とされる病気を発見し、呪われているとして旅に出したというが、それは治療で重要な時間・お金・環境からの切り離しの機能を持っていたのではないか。一部の病気というのは社会と密接に関係しながら生まれてくることがよくわかる。いま私たちが生きる社会は市場社会だ。
医師ではない私たちが病気と向き合うとき、科学的な診断に基づいていると無思想に受け入れるのではなく、市場原理や思想などの影響を見逃してはならない。ただ同時にその姿勢が怪しい民間療法の侵入を許してしまう面もある。私の母は父の余命がわかったとき、普段はあれほど科学的でないものに懐疑的な態度をとるのによくわからないシイタケの栄養剤が台所の食器棚に置かれていたのを私は忘れられない。