インプットとアウトプットを太く継続的にお香なうべき。
これについてはだれもが思うことだろう。ただ、アウトプットを継続的に行ってしまうことで何かが失われてしまうのではないか?とか思ってしまっている。 そんなことないとも思うのだが、なぜそう思っているのかを書きながら分解していきたいと思う
ーーしたいという話をするだけして満足してしまう
アウトプットしてしまうとある種完成したような感じになってしまうことがあると思う。満足してしまうというか、あ、一度出しましたので。という感じで。 そうやって小出しにしていくと、構想だけが積み重なっていってしまうのではないか。特に、こういう文章という形で書くといくらでもかけてしまう。
いくらでも制限なく「こういうことをやりたいんだよねー」という話をしているとその話をすることで満足してしまうのではないか。 周りの人にその話をしてしまうことで満足してしまうのではないかと思ってしまう。
つまり、ーーしたいんだよね という構想の話を日報的に出すべきではないということだ。 アウトプットが悪いというわけではなくて、--したいという構想を小出しにしなければいいのだろう。
日報的、日記的にはその日起こったこととそれについて思ったことを書くべきではないかと思った。
アウトプットしすぎて枯れてしまうのではないか
これはまあなんか傲慢な考え方なのだが、アウトプットすることで何か話のタネみたいなものを消費しきってしまうのではないかと思っている節がある。 あ、同じ話したな あ、この前この話やったな とどこかで話す時思ってしまうのではないかと思った。
でも考えてみれば確かに同じ人に全く同じ話をするのはあまりよくないことかもしれないが別にここに書いたことを周りの友人にしてもいいし、どっかで話してもいい。 話すときには文章と違ってそれはそれなりに違ったものに仕上がってくると思うので、別に日報的に何かを出したり日記を書かない理由にはならない。
むしろ私の場合人と話す機会が現状非常に少ないので、ここに書き出していった方が言語化が習慣付いて話の方にも厚みが出てくると思う。 今は言語化するタイミングが人と話すときその瞬間なので、いろいろ話が薄っぺらくなってきてしまっている気がする。
インプット・アウトプットという言葉がちょっと気に行ってない
インプット・アウトプットという言葉に対していけ好かなさというか、うさんくっさを感じてしまっている。 これは、分解してみるとどうやらインプット・アウトプットという言葉自体に対してちょっと広告代理店的なイメージというか、何かをまねする・参照するときの体のいい言い訳のような言葉として使われているんじゃないかという疑念を私が持っているようだ。
ただ、このマネする、何かを参照するということに対する抵抗感を正しく持たなければならないと最近は思う 0から何かを生み出すことなんてなくて、何かをつくるということは何かインプットがあってその影響を受けながらやるものであって そこで、私は何も参照していません!というのはむしろ傲慢な何かなのだ。
この前ライゾマティクスによる展示「Rhizomatiks Beyond Perception」があった https://kotaronukaga.com/exhibition/rhizomatiks-beyond-perception/
この展示の中で(以下引用)
ライゾマティクスは、自身の作品を学習したAIモデルをアート作品として展示します。
ライゾマティクスは独自のAIモデルを作り、そのモデル自体を購入可能な作品とすることで、AIとアートに関する新しい視点や考察が生まれることを期待しています。
とある。
で、この言葉がどういう目的で書かれたのかを私はもし機会があれば聞いてみたい。もしこの言葉が、「自身の作品」のみを学習したので一般的に生成AIのイラストなどで問題になっているようなありていに言えばパクリであったりとか、収奪的な側面がありませんよ!なので販売してもいいですよね!という意味合いで言ってるのであればちょっとそれはないんじゃないかと思う。
AIとアートに関する新しい視点や考察が生まれることを期待しています。
とあるのでそういう批判承知でやってるとは思うのだが、Twitterなどでの感想やいくつかのメディアの論調を見ているとここの部分がやっぱりちょっと議論が足りないのではないかと思った。
結局のところ私たちは作品を作るにあたっては大量のインプットがあり、さらに様々な技術を利用して作っていて、さらに社会構造の中に支えられて何かをつくっており、歴史上の文脈の延長線上からは逃れられない。私であれば現代の日本に生きているという事実からは逃れられず、見てきた作品群の影響からは逃れられないということをまず自認せねばならない。それを自身の作品のみを学習してるので問題ありませんという話をしているのであればもってのほかだ。さらに自身の作品のみを学習したのでライゾマティクス的作品がアウトプットされるというのもちょっと浅はかすぎやしないかと思う。
情報あふれる現代、作品が情報としてインターネットを通じてみることができる現代においては、多かれ少なかれものをつくるということは自分のいいと思ったものをたくさん摂取していいと思う形で出すというキュレーション的側面を排除しきれない。過去作までくまなく検索やSNSで回ってくるここ10年であればなおさらである。
そんな時代だからこそ、インプットとアウトプットはより重要で、特にインプットを意識的に大量に行うことで創作性を高めていく必要があるのだが、それに対しどことなくパクリではないか、自分の作ったものではないから・・・みたいな遠慮を思ってしまうところがあった。
繰り返しになるがそんな傲慢な考え、美術大学を出ていれば学部1年生で消え去るのだと思うが、まだそれがぬぐい切れていなかった。ので、インプットとアウトプットを大量に行うべきなのではないかとおもい今こうして日報的日記を書こうとしている。
もし仮にそれをやってもアウトプットが何かのパクリ的なものにすぎないのであればそれはもう私はそれまでということだ。その過程において例えば炎上したり作者の方に訴訟を起こされたら甘んじて受け入れようと思う。
書くことがなさそう
これはいわゆるネタ切れというものを懸念してのことだが、先述の通り書くことがないということはインプットが足りてないということの指標になる。ある程度太いインプットを意識づけることができていれば、そのような事態にはならないはずだし、なったのならばなったと書くことでインプットが足りていないことを観測することが大切だ。
何ならネタ探しのために何かしなければ で行動が起こってもいいと思う。
時間がなさそう
これは、今までの記事がちょっと重すぎたというところがある。あらゆる出店を調べたりなんなりですごい時間がかかっていたので、もう少し気軽に書くことを意識づけようと思う。カテゴリは日記に分類することにする。
大したこと書けなさそう
多分これが一番書かない理由なんだと思う。底が知れてしまうというか。感想文としても面白かったです以上のものは最初かけないのかもしれない。もう10年以上書いてないし。もうそれはしょうがない。恥を忍んで書きましょう。
以上、とりあえず日報的日記を始めますという話でした。