どの程度後処理するかをこの1か月ずっと悩みながら作っている。加工すればするほど創作性は出るのかもしれないが、どんどん現実から離れていき単なるクオリティの低いCGになってしまう。かといって写実性を高めればいいわけでもない。即興性、実存性、創作性との距離感がまだわからない。

映像はどこまでも空想を描けるがどこまでも虚構になる。コンピュータやセンサーの進化、分業化と専業化によって資本を投下し続ければどこまでも写実的になることができるが、行きつく先に立ちはだかるのは現実の物理現象という豊かな情報量と、人間の目と脳という高性能なセンサーとレンダラである。

秋葉原のホーム

写真では街の光景を被写界深度を深くしたり浅くしたり、パースを付けたりつけなかったりしつつ時間軸を外し切り取ることで、現実よりも情報を整理・減らして創作性と受け手の解釈の余地を生み出してきたが、時間軸が乗って視線を強制する動画や3Dスキャンではどうもまだしっくり来ていない。

映像は印刷であったり映写機などの装置、映画館といった仕組みによって実存性を獲得し、存在感を得たり説得力を得たり様々な形で質量を得てきたが、現在ではほぼほぼスマートフォンでみられるだけになってくる。そんな中でどう質量を持たせられるのか。何らかの上映装置を作る必要性を薄々と感じている。

ただ、映像の中で という縛りが必要な感じもしている。領域を踏み越えたり閉じこもったりを繰り返していく。どこに自分が軸足を置きたいのか探っている。