東京都立現代美術館の「日本現代美術私観:高橋龍太郎コレクション」を見てきた。 iPhoneの背面ガラスを割ってしまい修理に出したところ、仕上がるまで4時間ほどかかるとのことだったのでその間に見てきた。
だれだれのコレクションです という展示は見たことあるのかもしれないが、明確に意識してみるのは初めてでそれ自体少し新鮮で面白かった。 美術館、たいていの場合特別展を見に行く人がほとんどで、特別展を見に行くと常設展も観ることができるようになっているのだが見に行かない人も多いのではないか。 1度は見たのでもう2度目はいいかなという人が多いのかもしれないが。
で、その常設展のような形でいろいろな作家の作品が並んでいるという形。95年から形成されたコレクションが時代順に並んでいる。 この時代の変遷を作品でなんとなく、くくっているのが非常に面白かった。
一番面白かったのは各作家についてのキャプションだ。相当な数の作家の作品が並んでいるのだが、各作家について400文字行かないぐらいの文章でまとめられている。 これが非常に読みやすく端的で、多少端折りすぎな部分があるのかもしれないが作品意図を明瞭にわかりやすく書いてあって面白かった。この文章を再読するために図録を買ってしまった。
ちょっと展示の内容から外れてしまうのだが、この展示を通して強く感じたのは“作品です”と自称することの大切さだ。
これは私が最近“作品”を作ってるのだなと思い始めたから感じるこれまた普通は美大時代に通り過ぎることなのかもしれないが、なんとなく作品と自分でいうのは憚られるものだった。 すごく悪いい方だが、ある種職業的な教育、アカデミア的な教育、ある種のデザイン的な教育を受けてくると講評の時「これは作品だね」というのは若干ネガティブなニュアンスの言葉になってくる。 特に先行研究にも何にも依拠してないし、何か客観性・一般性・再現性がある部分も少ない。社会性が乏しく私小説的なものを作ったねというネガティブな要素として捉えられがちである。だけれども同時にそのかけがえのなさがあらゆる価値を持つ。それが作品だ。
現代アートに対するよくある批判は目の前にあるものを“作品”としてみているかどうか、“作品”というものはどういうもののことをさしているのかのすり合わせがうまくいっていないから起こる批判だと個人的には思っている。
で、当たり前といえば当たり前なのだが今回“作品なんだな”ということをキャプションが、展示の仕方が、並びが強く感じさせるものとなっていた。これは、単一作家の展示会ではなかなかなしえないもので、長期間にわたってコレクターが「これは価値があるんだ」とある種の主張をもって買い集めているということが効いているのだと思う。そして、学芸員の方が書いたキャプションとともに美術館に展示されるという形で作品が公共性を増していく様子が見て取れて非常に心地よかった。
なので、私もこれは作品だと思ったらこれは作品なんですとステートメントを付けつつちゃんと並べることが大切なんだなと改めて思った。SNSに乗せるだけでは足りなくて、やはり自分のホームページを作ってこれは作品なんですと主張することが大切なんじゃないかと。そのためにもステートメントをちゃんとつけておくべきなんじゃないかと思った。
ホームページ、作ります。
以下現代美術館までの光景
3番目以降が面白い
廃車になる子供用自動車
資源の持ち去りは犯罪です
クリスマスツリー
毛ガニ(25000円)
湾曲鏡
iPhoneを修理に出したので切符で移動