一昨日少し書いたが、今やっていることについてもうひとひねりというか、別にひねらないでもいいんだけどもうちょっと精緻に言語化する必要がある感じがしている。 それがないせいで、段々と写真が撮れなくなってきている。
写真は幾何学的に面白いところを撮ればとりあえずは成立するのだが、そうすると対象は段々と限られてくる。 郊外を歩けば幾何学的に面白い部分は少なく、どうしても都心に偏重してしまう。それに、何らかの通底するテーマに沿って撮りたいというのが贅沢かもしれないが、最近の希望だ。 もちろん、街の中である特定の角度から撮るとおもしろかったり、きれいな角度を発見するというのは面白いのだが、それだけでは満足できなくなってきている。
「終電後、東京」(https://youtube.com/playlist?list=PLeKhZDtYiZfHiRLI-D-7ixPiETt6AZLf5&si=TT61a8QLLq94oamw)は平和のメッセージとして撮っている。 深夜、都市部をそれなりに高価な機材をもってこれほどうろつくことができるほど平和な街もそれほどない。この先どうなるかわからないし、東京の中でもそういう場所ばかりではないがかなりの範囲特に治安を気にせず撮影しながら歩くことができる。
同時に、“治安”という言葉と否応がなしに向き合わされる。こんなに治安がいいなんてことはあるのだろうか?あっていいことなのだろうか。もはや、何かを弾圧した結果なのではないのかと思えてくる。1925年に制定された治安維持法が1945年に敗戦しGHQによる人権指令に基づいて廃止された歴史を振り返るに、我々は治安という言葉がいかに危ういものかを知っているはずだ。 しかし、東京は安全、安心、防犯のためといってありとあらゆることをしてくる。最終的には張り巡らされた電車を使って外へ外へと追いやってしまう。 何も追いやられるものは“不審”な人だけではない。開発を行い人々の生活事態も外へ外へ、ドアの中へと押しやっているのだ。その結果がこの気味の悪いほど静かな街なのではないかと思って撮り続けている。
なので、毎回同じような絵でもここでもそう、あっちでもそう。ここは生活感が染み出しているなといった観測としての意味合いはあるのだが、若干メッセージ性としては弱い感じがしている。 いや、でも、ストリートフォトグラフィーというのはそういう地道な観測の継続と積み重ねなのかもしれない。ここで下手に創作性を入れて写実性を削いでしまったり、わかりやすさをことさら強調しないほうがいいのかもしれない。
ただ、いや、何とも言えないのだが、もうちょっと伝わる形を模索しないといけない感じがしている。