まず、久々にコインランドリーに行った。長距離歩くために使っているスニーカーを洗うためだ。 あまりやたら洗いたくなかったけど、前回の撮影の時に銀杏を大量に踏んでしまって、あまりにもにおいがひどかったので洗濯した。

コインランドリー。乾燥機付き洗濯機を買うまでは結構使っていたが、一回1500円ぐらいかかるので結構高い

靴は洗濯に20分、乾燥に40分。今回は余り汚れが取れていなくて2回洗ったので全部で80分本を読んでいた。 読んでいたのは「コモンの「自治」論」 https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-737001-0

私自身育てられてきた価値観としては明らかに治安が良く、きれいで、開発差れた場所を好むように育てられてきたと思う。 で、いまだに実際きれいな方がいいし、治安はいいほうがいい。エンジンをふかす車は少ないほうがいいし、酔っ払いが多い場所にはあまり行きたくないし、トイレは洋式がいい。

だけれども、再開発に対しては結構強い違和感があるんのだが、この自治という言葉はすごくいい切り口かもしれない。

タワーマンションでもいいのだが、住宅街からタワーマンションになると自治が失われてしまう。個人商店じゃなくてイオンでも同じ機能かもしれないが、自治が失われる。自治が失われた結果、なんとなくとどまれる居場所がなくなってしまう。すべてが消費行動をするためだけの場所になってしまい、消費行動・購買行動以上のつながりが消えてしまう。その結果、東京という都市ではお金があり消費を続けて行えないと居場所を失ってしまうという漠然とした不安感に襲われているのかもしれないと思った。

もちろん、自治会などを面倒くさいといって私自身参加してきていないし、何ならそういった逃れられないウェットな関係をなんか怖いと思ってしまう。 なんか怖いと思ってしまうのであらゆる面倒くさそうなことを排除してお金を払えば終りの関係に落とし込んできたまさに当事者だと思う。

だけれども、失って初めて気が付くなんとやら。チェーン店で全国どこでも同じ味のものを日々食べ続け、店員の人との会話はない。会話しようものならそれは迷惑行為だという場所で、食べ終わったらすぐに出ていくということを繰り返していると食事がだんだんおいしくなくなってきたりする。

個人店に行きたいなと思っても、1000円越えでなかなかいくことができない。いくらかかるか事前にわかりにくいし、通って知り合いになったらなったで、なかなか行けないのでなんとなく前を通り過ぎづらくなってしまいそうなので個人店に入る勇気が出てこない。 どんどんと消費行動以外の関係性というものを忘れてしまう。消費行動では合理化できない贈与的な何かをされると、なんか打算的な物があるんじゃないかと勘繰ってしまうようになるという悲しい状態で、何とかそれを抜け出したい。

自治に参加するというのは、そういう寂しさのようなものから脱するヒントになるのかもしれないなと思った。それこそまずは自分が持っているスキルで手伝えることをするというのがいいのではないかと思った。思ったのだが、以前とある開発反対運動に参加したところそれなりにひどい目にあったのでやっぱりちょっとなあと思ってしまう。難しい話だ。

洗濯が終わる。外に出ると雨が降っている。天気予報では雨が降るとは言っていなかったので傘がない。フードを目深にかぶって歩く。段々と晴れてくる。しかし、雨脚が強くなる。これは虹が出るのでは?と思って空を見上げると、ビルで空はあんまり見えない。でも、ビルにきれいな虹がうつっていた。僕もタワマンに住めば、東京にかかる虹がいつも見れるのだろうか。