7日。近所の中華屋さんにおかゆを食べに行く。1000円。 7日だからおかゆを食べに行こうだなんてなんて贅沢なんだろう。

今日はリハビリがあるので朝起きて昼、今これを書いている。珍しい。 珍しいというか初めてなんじゃないか。

本当に好きなことなのかどうかという話を引きずっている。 それさえできていればいいやと思えるのかどうか。

いや、今まず収入がないということに対してそれなりに危機感を感じているのでそれさえできていればいいやと思うこと自体に抵抗感がある。

今に限らず、多分そうやって「あるべき姿」を規定して、それになれないのでその選択肢はNGですみたいな感じの考え方をずっと持ってきた感じがする。 なので、本心みたいなものがちょっとこう、どれが本心?という感じもしなくもない。

だってそれは人にはあらゆるしなければならないことがあって、それとこれとはトレードオフだからあきらめなきゃねってことがたくさんあるはずだ。

だけれども、最近思うのはこれとこれはトレードオフだよねと思ってきたり教えられてきたことが実はトレードオフじゃないということが沢山あるということだ。 これはとても私は心に来る。ぐっと苦しくなる。

あ、それ両方手に入るんだ。僕こっちあきらめたのに となる。

特に親から言われてきたことってそうするのは無理とか、駄目という話をされてきたけれども、そうすると確率が低い不安定な世界に行ってしまうよということだったんだなと思う。 まあ実際、今自分は親の言いつけを守ってこなかったのもあってかなくてか、とても不安定な世界にいる。

いや、でも別になんというか、何かを選んだので今こうなりましたという感じではない。こうなってしまいましたという感じだ。一番良くないかも。 だったら選択肢を選択肢てその結果追い詰められた方がよっぽどましである。

やりたいことをやって破滅した方がいい ということなのだろうが、ここがまたちょっと私のひねくれているところで、私は長らくの間”病気”なので何もできませんというスタンスだったのだ。 で、実際病気じゃないか?というと、多分病気ではある。病気ではあるのだが、病気なので何もできません、あれができませんというのはそうで、正しいのだけれども、もうそれで4年ぐらいたってしまって全然治る見込みもないのでもうそれ前提でやれることやるしかないというところに早くいかなければならないのだ。

出来ることをやる モードに入らなくてはいけない。このあたり、ちょっと苦手なんだなあと最近になってやっとわかってきた。 結局のところ理想な計画とか理想像を最初にめちゃくちゃち密に描いても仕方ないのだ。

私はある意味その理想像を描いて、それを誰かにやってもらうという仕事をしてきたのでそれはそれでよかったのだが、もうそういう立場にはないし、そういう仕事をしようとは思っていない。 自分の手でできることを広げていくという方向に行きたいと思っている。

ただそれで食えるのかというとまあ、正直食えないだろうとは思う。わからないけど。少なくともエンターテイメントはしていないのではないかと思う。

例えば何か物を作れるとする。物を作るというのは高度に分業化されている。写真もそうだ。物撮りとかポートレートとか、卒業写真とか各分野に専門家がいる。 そのある分野の専門家になりたいのかというと、そういうわけではないというか、誰かに注文されてバシバシ撮っていきたいですという感じではないのだ。

「そんなこと言ったらさすがに、、、」といわれてしまうことをやりたいと思ってしまう。しかしこれはもう仕方ないのかもしれない。 それで何とか突っ張っていくしかないのかもしれない。

〇〇するんだったら□■しなきゃね これも、トレードオフであるという提示だ。 しかし、そんなトレードオフ必ずそういうわけじゃないことはさっき書いたとおりである。

プロになるんだったらこうしなきゃね、それで食ってくならこうしなきゃね、ある程度人に伝わるものを作るならこうしなきゃね こういったものは全て根拠がありそうでない、トレードオフの押しつけである。

いや、でももちろん私のことを思ってくれて言っているに違いはないのだろうが、果たして本人がそれができないといっているところにそういう追い詰めを行って いったいどういった結果が出るというのだろうか?正しいことかもしれないし、ひどい目に合わない擁してくれてるのかもしれないが、本人ができない、きついといっていることを 押し込んで何かいいことがあるのだろうか。

これは自分が自分自身に対して行うことも同様だ。自分にそこでそういうものだからあきらめるとか、こういうことをしなくてはならないみたいなことを言い聞かせたとして、 本当にそれでいいことはあるのだろうか?あらゆるトレードオフを取り続け意識づけて、シュリンクしていった先にいったい何があるのだろうか?

どんなことを言っても結局のところ、自分は今生きていて、それを全うしたいですという意思表示にはあらゆるトレードオフなど薄っぺらい確率とか常識とかそういう話でしかない。 そんなもの全く無意味である。従順に確率の高いほうにあらゆるものを曲げながら進んでも何かそれっぽい結果を手に入れてそれなりの幸せというか幸せに見える視野に縮こまって 死んで終わりである。それって本当にいいのだろうか?それでいいというのが大半で、それが幸せです、それが生活ですといわれるのだろうが、それでいいのだろうか。

それって繰り返しになるが、素直に生きていけるということに比べればあまりにもどうでもいい話ではなかろうか。

いや、それはもちろん私が食うに困ったことがないから言える話なのかもしれない。しかし、それにしてもだ。そこで誉を捨てていいのだろうか。 いや、捨てちゃいけないんじゃないか。たとえそれが”生活”との天秤にかかっていたとしても、そこでいう”生活”や”現実”なんてものはとてつもなく常識やあらゆるもので縛られた外側から与えられた像なのだから、そこで捕らわれても仕方ないんじゃないだろうか。

いろいろ書いたが、結局のところこれは単なるわがままなのかもしれないが、私は私がいいなと思うアウトプットを写真、映像で出すということ以外本当に手につかないのだ。あらゆる忠告、親身なアドバイス、現実的な問題が降りかかってきてももうできない。仕方ない。わがままだとか同とかそういう話ではない。もう私が生きていくということはそういうことなのだと思う。 それって単なるニートじゃんっていわれればそうかもしれない。どういわれてももう仕方ないのだ。だって本当にそれ以外手についていないのだから。

手につくことをやっていく。いいと思うアウトプットを出す。その時その日なんかいいなと思ったことを自分の手で動かしていく。もうこれを繰り返すしかない。 もしかしたらその中には例えば何か仕事的なことができる日もあるのかもしれない。それはそれでよかった。出来ない日が多いかもしれない。それはそれで仕方ない。

理由をそこに色々つけて述べることもできると思うが、もうそれも仕方ない。誰かが納得しなくても、周りが納得しなくてももう仕方ないのだ。やれることをやっていくしかないのだ。 そして自分にそれをつきつける。それがいいものかどうかを見て、いいと思うものを出し続ける。それしかないのだなと思う今日この頃だ。