人と会うも、シャッターが切れない。 最近そればっかり。あまり残したいと思っていないのかどうか。 そこまで重く考えるべきではないのかどうか。

まあでもあまりこう、話の内容が残したいものではなかったというのは大きいかもしれない。今日はそんなにだったが。

過ごす時間自体が楽しめるみたいな感じになればいいのだけれども、今のところそういう状態ではない。 話の軸があるようでない。

話の軸がないこと自体は全然よくて、むしろ話の軸がなくても話ができるってすごく幸せなことだと思うのだけれども、 今のところなんというか、どうしようもないことをどうしようもないねって話しかしてないのが厳しい気がしている。

いや、そうでもないか。それは私がどうしようもない話だなと思っているという評価の問題か。

楽しくない。プラスにならなければ無視してしまえばいいのか。 まあ少なくともマイナスになるようなら無視してしまえばいいのか。なかなかそんなスパっと切れるものでもない。 いや、スパッとした方がいいのだろうか。

いやスパッとも何も、そういう切る切らないの話をしていること自体浅ましいという話なのだけれども、もうその微妙なディティールを 抱えきるほどの余裕もない。

話していて気分がいい人とだけ話しているといつかひどい目にある。大事な忠告を見逃しているという話もあるが、果たしてその大事な忠告でここまで自分が追い込まれてしまって動けなくなってしまうのだとしたら、意味はあるのだろうか?仮にその忠告の内容が現実であり事実だったとして、結果として何も進めなくなってしまうような形になるのだったらそれは聞く必要があるのだろうか。 正直あまりない気がしてきてしまっている。 少しでも前に進めそうなところに身をゆだねるべきというか、そんなに抑圧的になるようなことはもう受け止めきる必要がないんじゃないか。 でもそうやって現実とはとんでもなくずれたところに行きついてしまって、どうしようもなくなってしまうのだろうか。

わからない。どちらにせよ身近な人からここまでぐいぐいと押し込まれてしまうと厳しい。当人はそれを”そういう戦略をもって話している”というが、戦略で向き合われてもちょっと困ってしまう。 そういう戦略で来られてしまうならば、私はもうちょっと向き合いきれないし受け止めきれない。