今日は一睡もできなかった。

一睡もできないからじゃあ何かやれるかというと、めちゃくちゃ眠くてあまり手につかない。 眠いけど寝れないのだ。

睡眠が不安定になって5年近い。薬を飲み始めてからは4年ぐらいだろうか。

ただ単に寝れないだけなのであれば薬で寝てオッケーだったかもしれないが、私の場合は急に眠く成ったり寝れなくなったりする。 結果として時間を指定して行動できないし、眠れなかった日は眠くて全然動けない。今月はめちゃくちゃ長い時間寝てしまう。

薬を飲んだ状態でも、飲み続けてそれで健康と遜色ない状態になれるならそれでいいじゃないかとか思っていたが、薬を飲んで健康な状態と同じなんてことはできないのだと悟る。 身体は生身だから毎日状態が異なるのに対し、薬は常に一定の効力を出す。そんな都合よく健康体と同じというわけにはいかない。

これもいいわけなのだろうか。もう5年。これを治ると期待して動いてはいけない気もする。

ついこの前も書いたが、治ると期待して動いてしまうと、治るまでは安静にしようとなってしまう。 でも結局治らない限りは治らないなりにやるしかない。

それにしても厳しい。もうちょっと何とかならないものか。

ジムに通う日々

何とかならないかと思い、とりあえず体を動かし続けている。へとへとになるまで動かす。それでも眠くなることはない。 厳しい。

まあでも最近気が付いた問題として、これが治ったとして僕はもう普通に働くということはできないのだなということだ。 むしろ普通に働きたくないからこの症状が出ているのかもしれない。いや、そうであってほしいといえばほしい。そのぐらいの理由だったら何とかなる。 いや、それはそれでならないか。 病気という建前はあるけれども、障碍者手帳は出ていない。外見上というかまあどう考えてもニートなわけだ。いや、写真家を目指しているというかやっているわけだけれども、 行政機関の取り扱い上はニートというわけだ。

これが誰か一緒に暮らしていれば整ってきたりするのだろうか。誰かのために働きますというモチベーションがあれば、その仕事のために眠れるようになったりするのだろうか。 残念ながら相手ができたことがないのでそれはわからない。そういう外部依存の理由で解決している人をたくさん見てきて、とてもうらやましい感じもする。そのめぐりあわせは自分にはなかった。

よく外部依存で物事を解決することを批判するのはよくないといわれるが、これは分解すれば ・外部依存することでその外部に振り回される ・依存相手に負荷がかかる といったことだと思うが、生活を共にする相手と巡り会えたならそれはとても幸せで幸運なことで、それで解決するならなんでもいいんじゃないかと思う。 基本的には誰もその負荷を負担してくれないので、アニメにはまったりゲームにはまったり最近だと配信者などを推す推し活にはまるみたいな外部依存になる。ただこれはかなり振り回されるし金銭的にも追い詰められるので問題がある感じがする。あと普通はお酒とかタバコとかギャンブルとかそっちの方向が多いか。

外部依存では解決しないこともうっすらわかっている。ある種の一発逆転みたいな感じで解決することを夢見ているのだが、そんなことはない。 これだけ薬を飲んでしかも結構新く開発された薬を飲んで解決しないのだから、そんな簡単な話ではないだろう。

いや、さっきも書いたが、簡単な話なのかもしれない。治ったと思ったら治ってしまうようなことなのかもしれない。 どこかでそうであってほしいと思いつつも、またどこかでそうであっては欲しくないと思っているのかもしれない。 そんな単純なことで20代後半が無くなったとは思いたくないだけなのかもしれない。サンクコストかな。

もうそのあたりはどうだっていい。何かと向き合うべきなのだが、そのテーマが見つかっていない。 例えば工芸家は美と向き合っているのだと思うが、私は写真を通して何と向き合うべきなのだろう。向き合いたいのだろう。

許可を撮った写真を撮って、撮ってくれてありがとうと言われたいのだろうか。SNSで有名になりたいのだろうか。歴史に残りたいのだろうか。感動させたいのだろうか。 いい写真とは何なのだろうか。いったい何をテーマにすればいいのか。何と向き合えばいいのか。 いや、いいのかというか、どうしたいのか。それは考えて出るものなのか、言葉になるものなのか。

日常の発見を撮っていくのもいいとは思うのだが、それが東京という都会の風景でいいのかどうか。人と向き合わないでいいのか。

いや、向き合えないからそれをそのまま出すしかない。昼間の光が美しいが、起きていられないので夜に撮るしかない。