朝起きる。7時ぐらいだったか。 普通の人が普通に生活している時間帯だ。
薄々思っていたことが現実になってきている。全て治ったらじゃあどうなるのだろう?ということが。 じゃあ深夜起きてしまいますという特徴も無くなったとして、ただ普通に朝起きて夜寝る人になったとき、私には何が残るのだろうかと。
残るというか、何が撮れるのだろうかということが。
とりあえず外に出る。久々に高井戸のミスタードーナツに行く。 高井戸のミスタードーナツは高校時代、いろいろ行き詰まったときに日記を書きに行く場所だった。 今でも同じ場所に残っている。
なんだかんだ書くことも考えていることもあのころと変わらない部分があって恐ろしいやらなんやら。
結局のところあの時も今も、何をすればいいのかを考えている。
当時は受験勉強をするにあたってだった気がするけれども、今は写真で何をすればいいのかを考えている。 いったい何をすればいいのだろう。
昼間、みんなが見ている光景の中で、いったい何ができるというのだろうか。 いや、何も出来ないなんてことはないのだけれども、それが見いだせていない。
この目まぐるしく動く都市の中で、いったい何を発見できるのだろう。いったい何を見いだせるのだろう。 いったい何を伝えられるのだろう。伝わる形に落とし込めるのだろう。
もっと私は伝わるということと向き合わなくてはならない感じがしてきている。 それは決してSNSでバズる物を作るということではない。そして、マーケティングの話とは全く別の話。 広告の話でもなく、人として伝わるということを考えなくてはならない。 わかりやすいものではなく、わざとらしいものではなく、刺激的なものではないけれども伝わるということ。
そして、果たして何かを考えて伝えるというものなのかどうかも向き合いなおす必要がある。 本当に写真というものは、何か設計してこういうことを伝えようと決めて、伝えるという所業なのだろうか? そんな設計的なものなのだろうか。
写真には即興性がある。そして、枚数を打ち出すことができる。絵は1ヶ月で1枚かければいいほうかもしれないが、写真は1日に何枚も取れる。 緻密に設計していって伝えるということもできるが、日々の撮影の中から滲みだすこともできるのではないか。
いや、でもメッセージ性は込めるべきなのだろうか。いったい私は何を伝えたいのだろうか。 そうやって考えて、ある種のデザインを行ってメッセージを打ち出す。そういったものなのだろうか。必ずしもそうでない気もする。 しかしそれでは伝わらないのか。