2025 01 12 髪を切る

髪を切りに行った。 あまり切りに行くことはなく、去年なんて半年に一回ぐらいだった気がする。 3ヶ月ぐらいで切るかなあという気分になることが多いが、今回は先月に続いて切りに行った。 さっぱりはする気がするけれども、髪型がそんなに変わらないので気分転換した感じはしない。髪型を変えたいというべきなのかもしれないけれども、 どう変えてよいやら。 ついでに富士フイルムの直営店?のようなものがあり、そこでInstax Wideというチェキのワイドフィルムで写真のプリントが1枚200円で出来るというので プリントしてみた。 フイルム代は1枚150円。チェキのフイルムを液晶で感光させプリントするというのだからかなり贅沢なものだ。 かなり期待したが、もうちょっと解像度が欲しい感じがしてしまった。 でも、作品の販売形態としては悪くない感じがする。ポストカードよりも満足度高い気もする。 ただ、チェキのフイルムにプリントされていたら、一般的には1品物の写真であることが期待されるのではないかと思ってしまう。 原版を購入することができる という期待感から、購入するのではないか。 それが、デジタルデータからのプリントだったらどうなんだろう。ちょっと嘘っぽい感じもしてしまう。 しかし、じゃあチェキのカメラでこれをバシバシ取れるのかというと、1枚150円のフイルム代でだいぶ躊躇してしまう。 解像感、色感含めてポートレート向けなんだなという感じがした。 いやあでも、このチェキの印刷されたものがWEBショップで並んでいるのもそんな悪くない感じもする。 どうなんだろう。 とりあえずやってみるべきなのかどうか。

January 14, 2025

2025 01 11 起きたら一日が終わっていた

朝、どうしようもない気持ちになって写真を撮りにいく。 いや、どうしようもない気持ちというのは写真が最近撮れないというどうしようもない気持ちなので、撮りに行ってもそんな撮れないのだが。 でもまあまあ撮れたかなというものが撮れた。ちょっと不思議だ。 いや、でもなんかこう、ピンと来ていないというかなんというか。 こういう時、どこか気晴らしに観光をしてしまえばいいというのがあるのだが、観光した写真を撮ってどうなるんだろう? こういうこところでこういうものを撮ってくださいという写真を撮ってどうするんだろう? いや、行けば発見があるというものなのかな。なんというか、難しい。難しいとか言って何もしないぐらいなら行った方がいいことはもうわかってるのだけれども。 これはもしかしていつもの“飽きた”ような感じがして、すぐに投げ出してしまうやつなのだろうか。 すぐに投げるんだからっていうあれなのだろうか。 とりあえず続けるべきなのだろうか。いや、続けるしかないんだけれども。 例えばレンズを買うとか?例えばInstax(チェキ)でやるとか? そういう風に趣向を変えてみる? これもまた、いつもの何か買って何とかしようとする癖のような感じもする。 あるもので向き合い続けるべきなのではないかと思う。 しかしそれにしても、発見が なんというか、いいのか悪いのかピンとこない。 シャッターは一応切れてるけれども、ワンパターンな感じだ。 それが“世界観”なのだろうか。ワンパターンだとは思うけれども、それを続けると“世界観”であったり“作風”になるのだろうか。

January 12, 2025

2025 01 10 眠れなかった

今日は一睡もできなかった。 一睡もできないからじゃあ何かやれるかというと、めちゃくちゃ眠くてあまり手につかない。 眠いけど寝れないのだ。 睡眠が不安定になって5年近い。薬を飲み始めてからは4年ぐらいだろうか。 ただ単に寝れないだけなのであれば薬で寝てオッケーだったかもしれないが、私の場合は急に眠く成ったり寝れなくなったりする。 結果として時間を指定して行動できないし、眠れなかった日は眠くて全然動けない。今月はめちゃくちゃ長い時間寝てしまう。 薬を飲んだ状態でも、飲み続けてそれで健康と遜色ない状態になれるならそれでいいじゃないかとか思っていたが、薬を飲んで健康な状態と同じなんてことはできないのだと悟る。 身体は生身だから毎日状態が異なるのに対し、薬は常に一定の効力を出す。そんな都合よく健康体と同じというわけにはいかない。 これもいいわけなのだろうか。もう5年。これを治ると期待して動いてはいけない気もする。 ついこの前も書いたが、治ると期待して動いてしまうと、治るまでは安静にしようとなってしまう。 でも結局治らない限りは治らないなりにやるしかない。 それにしても厳しい。もうちょっと何とかならないものか。 何とかならないかと思い、とりあえず体を動かし続けている。へとへとになるまで動かす。それでも眠くなることはない。 厳しい。 まあでも最近気が付いた問題として、これが治ったとして僕はもう普通に働くということはできないのだなということだ。 むしろ普通に働きたくないからこの症状が出ているのかもしれない。いや、そうであってほしいといえばほしい。そのぐらいの理由だったら何とかなる。 いや、それはそれでならないか。 病気という建前はあるけれども、障碍者手帳は出ていない。外見上というかまあどう考えてもニートなわけだ。いや、写真家を目指しているというかやっているわけだけれども、 行政機関の取り扱い上はニートというわけだ。 これが誰か一緒に暮らしていれば整ってきたりするのだろうか。誰かのために働きますというモチベーションがあれば、その仕事のために眠れるようになったりするのだろうか。 残念ながら相手ができたことがないのでそれはわからない。そういう外部依存の理由で解決している人をたくさん見てきて、とてもうらやましい感じもする。そのめぐりあわせは自分にはなかった。 よく外部依存で物事を解決することを批判するのはよくないといわれるが、これは分解すれば ・外部依存することでその外部に振り回される ・依存相手に負荷がかかる といったことだと思うが、生活を共にする相手と巡り会えたならそれはとても幸せで幸運なことで、それで解決するならなんでもいいんじゃないかと思う。 基本的には誰もその負荷を負担してくれないので、アニメにはまったりゲームにはまったり最近だと配信者などを推す推し活にはまるみたいな外部依存になる。ただこれはかなり振り回されるし金銭的にも追い詰められるので問題がある感じがする。あと普通はお酒とかタバコとかギャンブルとかそっちの方向が多いか。 外部依存では解決しないこともうっすらわかっている。ある種の一発逆転みたいな感じで解決することを夢見ているのだが、そんなことはない。 これだけ薬を飲んでしかも結構新く開発された薬を飲んで解決しないのだから、そんな簡単な話ではないだろう。 いや、さっきも書いたが、簡単な話なのかもしれない。治ったと思ったら治ってしまうようなことなのかもしれない。 どこかでそうであってほしいと思いつつも、またどこかでそうであっては欲しくないと思っているのかもしれない。 そんな単純なことで20代後半が無くなったとは思いたくないだけなのかもしれない。サンクコストかな。 もうそのあたりはどうだっていい。何かと向き合うべきなのだが、そのテーマが見つかっていない。 例えば工芸家は美と向き合っているのだと思うが、私は写真を通して何と向き合うべきなのだろう。向き合いたいのだろう。 許可を撮った写真を撮って、撮ってくれてありがとうと言われたいのだろうか。SNSで有名になりたいのだろうか。歴史に残りたいのだろうか。感動させたいのだろうか。 いい写真とは何なのだろうか。いったい何をテーマにすればいいのか。何と向き合えばいいのか。 いや、いいのかというか、どうしたいのか。それは考えて出るものなのか、言葉になるものなのか。 日常の発見を撮っていくのもいいとは思うのだが、それが東京という都会の風景でいいのかどうか。人と向き合わないでいいのか。 いや、向き合えないからそれをそのまま出すしかない。昼間の光が美しいが、起きていられないので夜に撮るしかない。

January 10, 2025

2025 01 09 応募

写真コンテストに応募する。 いやーただ、結構厳しいというか、コンテスト的には同なんだろうという内容に仕上がってしまった。 コンテスト的には同なんだろうなんて本来気にしないでいい気もするのだが、あまりにも素朴な写真になってしまった。 コンテストに通りそうだなというきれいさと内容を両立するのはかなり難しい。 難しいというか、「取材」として撮らないと厳しいのではないかという気がしてきている。 今私は街を歩いて見つけたものを撮るという形になっているが、もっとこれを撮るぞ!として、許可申請を撮ったり取材申し込みをしたりしてちゃんと向き合って 撮ったものがコンテストに通ってる感じがしてしまう。どうなんだろう。 街を歩いて撮るというのはある意味連続性が重要になってくる。なので、5枚だけの中で出し切るのは難しいのかもしれない。 どうしてもダイジェストになってしまう。いや、でもそれでもなんか伝わるものがあればいいなと思って出してはいるのだが。 もう少しこう、コンテストに通りそうな形でかつ、自分らしいものは作れないだろうか。 きれいに撮るということをもう少し意識した方がいいのだろうか。

January 10, 2025

2025 01 08 人と会う

人と会うも、シャッターが切れない。 最近そればっかり。あまり残したいと思っていないのかどうか。 そこまで重く考えるべきではないのかどうか。 まあでもあまりこう、話の内容が残したいものではなかったというのは大きいかもしれない。今日はそんなにだったが。 過ごす時間自体が楽しめるみたいな感じになればいいのだけれども、今のところそういう状態ではない。 話の軸があるようでない。 話の軸がないこと自体は全然よくて、むしろ話の軸がなくても話ができるってすごく幸せなことだと思うのだけれども、 今のところなんというか、どうしようもないことをどうしようもないねって話しかしてないのが厳しい気がしている。 いや、そうでもないか。それは私がどうしようもない話だなと思っているという評価の問題か。 楽しくない。プラスにならなければ無視してしまえばいいのか。 まあ少なくともマイナスになるようなら無視してしまえばいいのか。なかなかそんなスパっと切れるものでもない。 いや、スパッとした方がいいのだろうか。 いやスパッとも何も、そういう切る切らないの話をしていること自体浅ましいという話なのだけれども、もうその微妙なディティールを 抱えきるほどの余裕もない。 話していて気分がいい人とだけ話しているといつかひどい目にある。大事な忠告を見逃しているという話もあるが、果たしてその大事な忠告でここまで自分が追い込まれてしまって動けなくなってしまうのだとしたら、意味はあるのだろうか?仮にその忠告の内容が現実であり事実だったとして、結果として何も進めなくなってしまうような形になるのだったらそれは聞く必要があるのだろうか。 正直あまりない気がしてきてしまっている。 少しでも前に進めそうなところに身をゆだねるべきというか、そんなに抑圧的になるようなことはもう受け止めきる必要がないんじゃないか。 でもそうやって現実とはとんでもなくずれたところに行きついてしまって、どうしようもなくなってしまうのだろうか。 わからない。どちらにせよ身近な人からここまでぐいぐいと押し込まれてしまうと厳しい。当人はそれを”そういう戦略をもって話している”というが、戦略で向き合われてもちょっと困ってしまう。 そういう戦略で来られてしまうならば、私はもうちょっと向き合いきれないし受け止めきれない。

January 10, 2025

2025 01 07 朝起きた

7日。近所の中華屋さんにおかゆを食べに行く。1000円。 7日だからおかゆを食べに行こうだなんてなんて贅沢なんだろう。 今日はリハビリがあるので朝起きて昼、今これを書いている。珍しい。 珍しいというか初めてなんじゃないか。 本当に好きなことなのかどうかという話を引きずっている。 それさえできていればいいやと思えるのかどうか。 いや、今まず収入がないということに対してそれなりに危機感を感じているのでそれさえできていればいいやと思うこと自体に抵抗感がある。 今に限らず、多分そうやって「あるべき姿」を規定して、それになれないのでその選択肢はNGですみたいな感じの考え方をずっと持ってきた感じがする。 なので、本心みたいなものがちょっとこう、どれが本心?という感じもしなくもない。 だってそれは人にはあらゆるしなければならないことがあって、それとこれとはトレードオフだからあきらめなきゃねってことがたくさんあるはずだ。 だけれども、最近思うのはこれとこれはトレードオフだよねと思ってきたり教えられてきたことが実はトレードオフじゃないということが沢山あるということだ。 これはとても私は心に来る。ぐっと苦しくなる。 あ、それ両方手に入るんだ。僕こっちあきらめたのに となる。 特に親から言われてきたことってそうするのは無理とか、駄目という話をされてきたけれども、そうすると確率が低い不安定な世界に行ってしまうよということだったんだなと思う。 まあ実際、今自分は親の言いつけを守ってこなかったのもあってかなくてか、とても不安定な世界にいる。 いや、でも別になんというか、何かを選んだので今こうなりましたという感じではない。こうなってしまいましたという感じだ。一番良くないかも。 だったら選択肢を選択肢てその結果追い詰められた方がよっぽどましである。 やりたいことをやって破滅した方がいい ということなのだろうが、ここがまたちょっと私のひねくれているところで、私は長らくの間”病気”なので何もできませんというスタンスだったのだ。 で、実際病気じゃないか?というと、多分病気ではある。病気ではあるのだが、病気なので何もできません、あれができませんというのはそうで、正しいのだけれども、もうそれで4年ぐらいたってしまって全然治る見込みもないのでもうそれ前提でやれることやるしかないというところに早くいかなければならないのだ。 出来ることをやる モードに入らなくてはいけない。このあたり、ちょっと苦手なんだなあと最近になってやっとわかってきた。 結局のところ理想な計画とか理想像を最初にめちゃくちゃち密に描いても仕方ないのだ。 私はある意味その理想像を描いて、それを誰かにやってもらうという仕事をしてきたのでそれはそれでよかったのだが、もうそういう立場にはないし、そういう仕事をしようとは思っていない。 自分の手でできることを広げていくという方向に行きたいと思っている。 ただそれで食えるのかというとまあ、正直食えないだろうとは思う。わからないけど。少なくともエンターテイメントはしていないのではないかと思う。 例えば何か物を作れるとする。物を作るというのは高度に分業化されている。写真もそうだ。物撮りとかポートレートとか、卒業写真とか各分野に専門家がいる。 そのある分野の専門家になりたいのかというと、そういうわけではないというか、誰かに注文されてバシバシ撮っていきたいですという感じではないのだ。 「そんなこと言ったらさすがに、、、」といわれてしまうことをやりたいと思ってしまう。しかしこれはもう仕方ないのかもしれない。 それで何とか突っ張っていくしかないのかもしれない。 〇〇するんだったら□■しなきゃね これも、トレードオフであるという提示だ。 しかし、そんなトレードオフ必ずそういうわけじゃないことはさっき書いたとおりである。 プロになるんだったらこうしなきゃね、それで食ってくならこうしなきゃね、ある程度人に伝わるものを作るならこうしなきゃね こういったものは全て根拠がありそうでない、トレードオフの押しつけである。 いや、でももちろん私のことを思ってくれて言っているに違いはないのだろうが、果たして本人がそれができないといっているところにそういう追い詰めを行って いったいどういった結果が出るというのだろうか?正しいことかもしれないし、ひどい目に合わない擁してくれてるのかもしれないが、本人ができない、きついといっていることを 押し込んで何かいいことがあるのだろうか。 これは自分が自分自身に対して行うことも同様だ。自分にそこでそういうものだからあきらめるとか、こういうことをしなくてはならないみたいなことを言い聞かせたとして、 本当にそれでいいことはあるのだろうか?あらゆるトレードオフを取り続け意識づけて、シュリンクしていった先にいったい何があるのだろうか? どんなことを言っても結局のところ、自分は今生きていて、それを全うしたいですという意思表示にはあらゆるトレードオフなど薄っぺらい確率とか常識とかそういう話でしかない。 そんなもの全く無意味である。従順に確率の高いほうにあらゆるものを曲げながら進んでも何かそれっぽい結果を手に入れてそれなりの幸せというか幸せに見える視野に縮こまって 死んで終わりである。それって本当にいいのだろうか?それでいいというのが大半で、それが幸せです、それが生活ですといわれるのだろうが、それでいいのだろうか。 それって繰り返しになるが、素直に生きていけるということに比べればあまりにもどうでもいい話ではなかろうか。 いや、それはもちろん私が食うに困ったことがないから言える話なのかもしれない。しかし、それにしてもだ。そこで誉を捨てていいのだろうか。 いや、捨てちゃいけないんじゃないか。たとえそれが”生活”との天秤にかかっていたとしても、そこでいう”生活”や”現実”なんてものはとてつもなく常識やあらゆるもので縛られた外側から与えられた像なのだから、そこで捕らわれても仕方ないんじゃないだろうか。 いろいろ書いたが、結局のところこれは単なるわがままなのかもしれないが、私は私がいいなと思うアウトプットを写真、映像で出すということ以外本当に手につかないのだ。あらゆる忠告、親身なアドバイス、現実的な問題が降りかかってきてももうできない。仕方ない。わがままだとか同とかそういう話ではない。もう私が生きていくということはそういうことなのだと思う。 それって単なるニートじゃんっていわれればそうかもしれない。どういわれてももう仕方ないのだ。だって本当にそれ以外手についていないのだから。 手につくことをやっていく。いいと思うアウトプットを出す。その時その日なんかいいなと思ったことを自分の手で動かしていく。もうこれを繰り返すしかない。 もしかしたらその中には例えば何か仕事的なことができる日もあるのかもしれない。それはそれでよかった。出来ない日が多いかもしれない。それはそれで仕方ない。 理由をそこに色々つけて述べることもできると思うが、もうそれも仕方ない。誰かが納得しなくても、周りが納得しなくてももう仕方ないのだ。やれることをやっていくしかないのだ。 そして自分にそれをつきつける。それがいいものかどうかを見て、いいと思うものを出し続ける。それしかないのだなと思う今日この頃だ。

January 7, 2025

2025 01 06 本当に好きなのかどうかみたいな話

久々に1時間走った。 走ったといっても早歩きに毛が生えた程度の速度だけれども。 いろいろ考えてしまう。 本当に好きなことならずっと続けてるよね という話をよく聞く。 だとすると、今写真が撮れなくなっているのは”本当に好きなこと”じゃなくて、写真は単なる手段でそこから例えばお金を儲けたいとか、 人から注目を浴びたいとかそういうことが目的になっているから撮れていないんじゃないか。 みたいなことを考えてしまう。 あと、向いてないんじゃないかみたいなことも考えてしまう。 隙も何もこれしか手元に残らなかったという感じだから、じゃあこれ無くなったらもう何もしなくなっちゃいますよってことなんだけれども、 それは”好きなこと”をやっているわけじゃないのだろうか。 これならできる ということを極めるのも一つのルートだとは思うが、好きな人には勝てないのだろうか。 いや、勝ち負けじゃないのだけれども。 止められてもやるようじゃないと駄目なのだろうか。 あまりあれもダメこれもダメというってもしょうがない気がしてきている。 あまり考えても仕方ない というのは究極の現実逃避だと思っていたが、考えても仕方ないことが増えてきている。 結局のところ出来上がったものが自分がいいなと思う物であればいいと思うのだが、どうなんだろう。 自分がいいと思うものと数字は乖離していく。 今回のお正月の動画、全然数字がよくなかった。 いやあ、でも悪くないと思うんだけれどもなあ。ただ写真がなあとは思う。ただ1カットいいのがあった。 正直、写真って1カット良いものが月1枚上がればそれでいいのではと思っている。 だけれども、構成上というかSNSの性質上というか、かなりの枚数をあげることをもとめられている。これがちょいきつい感じもする。 動画もそう。週1最低となるとぐっと負荷が高まるし、そんなに毎回良かったなというわけでもないけれどもあげなくてはならなくなる。 だけれどもそこはプロになるなら突っ張らなくてはいけないところなのかもしれない。 いや、どうなんだろう プロになる みたいなことを考えすぎなのかもしれない。 ただ考えないのもおかしいし、難しい。 それだけができていればなんでもいいや と思える そこまでたどり着けるのだろうか。いや、もうたどり着くしかないのか。 そこは意識してもう行ってしまうしかないのだろうか。

January 7, 2025

2025 01 05 何もしていない

終電後、東京 の編集が終わると、次の撮影があるまで途端に暇になる。 終電後、東京 だけではないはずなのだけれども、他のことができていない。 日が昇るころに寝て、日が落ちたころに起きる生活だと光がない。これはあまり良くないといわれているが、 本当にそうかもしれない。 光がないと気分が滅入ってくる。 ただ、気分が滅入ってくるのはもちろんそういう身体の本能的な部分で光を浴びていないと滅入ってくるというのもあるのかもしれないが、 なんか社会から疎外されてる感じがあるからだと思う。 ただ、それは昼間起きて街を歩いていても同じように感じることで、別に昼も夜もそこまで逃げ場はない。 薬の効き方が不安定でで12時間ぐらい寝てしまう。80歳まで生きても40歳分になってしまう。半分寝てるというのはなかなかにつらい。 1日が短い気がする。ただ、長かったら何をするのだろうか。いや、写真が撮れればいいのだが。

January 7, 2025

2025 01 04 編集をして起きている

編集しきった。寝て起きてアップロードしようと思ったが、もう起きてそのまま上げきることにした。 アップロード周りの処理は意外と多くて、特に字幕、各言語のタイトルを手動で言語の数分ポチポチと上げなくてはならない。 ほんと数人だけれども、見られるとは思ってなかった言語からすごい長い時間見てくれてる方がいる。 レンダリングボタンを押す。レンダリングを開始してから完了まで4時間ぐらい。アップロードに1時間弱なのでその間にジムに行く。 それでも終わっておらず、朝マックを食べに行く。朝日を眺める。そういえばお茶の水の初日の出はあのあたりからだったなと思いだす。 初日の出は近所でも見れるんだという当たり前のことに気が付く。 毎日いろいろなものを見落としている。こんな光があったんだとか、こんなところにこういう日が当たるんだとか。 あそこはああいう形だったんだとか。 撮るものがないなんてことはないはずなのに、なんだか最近見えなくなってきている。 どうしてなんだろうか。

January 7, 2025

2025 01 03 何とか編集をする

何とか編集を進める。でも遅い。 三が日には出したかったが、4日になりそうだ。 もう少し手早くなりたい。

January 7, 2025