2024/11/10/もうひとひねり必要な感じがする

東京の街を撮っている。先月と今月は多分主に終電後の東京を撮っている。 なんとなくテーマみたいなものは思い浮かんできているのだが、もう少し詰める必要があると思っている。 今のところ(まだステートメントといえるほどちゃんと文章にまとまっていないが)これだけ治安がいい街はないというところを写真で捉えつつ、 何か公共性を失っていないか、こんなに治安がいいなんてことあり得ないのではないかというところを表現していければと思っている。 ただ、治安がいいに決まっているというのは間違えのないことなので、もう少し、もうひとひねり というとなんかちょっと安っぽくなるが、もうちょっと工夫して現状の社会に通底するものをもう少し表したい。 具体的に言うと、”ルール”みたいなものがいつの間にかあるよねというところを浮き上がらせたいと思っている。 暗黙のルールみたいなものが破られているところを撮り、それに対する違和感を言語化していけば面白いものになるのではないかと思っている。 そのあたり、日記の体を借りてまた分解していきたいと思う。

November 12, 2024

2024/11/09/55mmのレンズを借りた

Sonnar T* FE 55mm F1.8 ZAを借りた。 私は今SONYのα7IVを使っているが、これは動画をある程度とる必要があるなと思っての選択だった。 そしてレンズはFE 24-70mm F2.8 GM II これもジンバルを使わない動画撮影なら一番いいのかなと思ってこれにした。 つまり、写真的な選択ではないということだ。もちろんいいレンズで、いいカメラなのだが。 それ以前は急にちょっと古くなってEOS 5D Mark2をずっと使っていた。しかもレンズはEF 50mm F1.4ほぼ一本。空を撮るときにEF 24mm F2.8に交換するという使い方で、この2本だけでずっと写真を撮ってきた。なぜ50mmなのかというとだカフェ日記の影響を受けたからだった。 だけれども当時から街を撮るには50mmは若干長いんじゃないかという感じはしていて、人の特に表情をとらえるにはいいけれども、人の佇まいを撮るにはやはり長いのではないかと思っていた。 人を撮ることはあまりないので結果的には24-70mmというズームレンズにしたのはよかったのではないかと思っている。 しかし、先日書いたようにけがをしてしまい24-70mmF2.8は重くて持てなくなってしまい、現在は急遽購入したFE 28mm F2を使っている。 そんな感じで久々に単焦点を使いながら様々な写真家の、特にストリートフォトグラフィーを見ていると、50mm弱の長めの写真がいいかもなとふと思った。 28mmや35mmだともちろん対象によったときはいいのだが、そうじゃなく全体を映すような写真だと目で見ているときと同じような漠然と全体の情報を見ているような写真になり、切り取っている感じが少し薄くなってやしないかとある日思った。 さらに、動画の撮影に使っているOsmoPocket3と画角が近いため、なんか動画の中で静止画を出しても動画をキャプチャして出した様に見えることがあり、街の中の情景から“発見”している感が薄いのではないかと少し思った。 そこで友人が持っている55mmを借りたのだが、これはなかなか良かった。確かに長くてちょっと近いなという場面が多いのだが、はまったときのちょっとした非日常感がいい感じ。ある種の制約事項がある単焦点はやっぱり楽しい。 ただ同時に思ったのは、28mmで撮ったらこうなったなとか、70mmあったらこうだったな見たいな感じでどれがあってもそれぞれ別のものが取れて面白いなということを再確認した。結局どれもこれも欲しいのだった。 24-70mmF2.8があるからさすがに6万円は手が出ず、買い足すことはあきらめることにしたが、余裕が出たら50mm前後のが一本ほしくなる1日だった。

November 11, 2024

2024/11/08/日本現代美術私観高橋龍太郎コレクションを見た

東京都立現代美術館の「日本現代美術私観:高橋龍太郎コレクション」を見てきた。 iPhoneの背面ガラスを割ってしまい修理に出したところ、仕上がるまで4時間ほどかかるとのことだったのでその間に見てきた。 だれだれのコレクションです という展示は見たことあるのかもしれないが、明確に意識してみるのは初めてでそれ自体少し新鮮で面白かった。 美術館、たいていの場合特別展を見に行く人がほとんどで、特別展を見に行くと常設展も観ることができるようになっているのだが見に行かない人も多いのではないか。 1度は見たのでもう2度目はいいかなという人が多いのかもしれないが。 で、その常設展のような形でいろいろな作家の作品が並んでいるという形。95年から形成されたコレクションが時代順に並んでいる。 この時代の変遷を作品でなんとなく、くくっているのが非常に面白かった。 一番面白かったのは各作家についてのキャプションだ。相当な数の作家の作品が並んでいるのだが、各作家について400文字行かないぐらいの文章でまとめられている。 これが非常に読みやすく端的で、多少端折りすぎな部分があるのかもしれないが作品意図を明瞭にわかりやすく書いてあって面白かった。この文章を再読するために図録を買ってしまった。 ちょっと展示の内容から外れてしまうのだが、この展示を通して強く感じたのは“作品です”と自称することの大切さだ。 これは私が最近“作品”を作ってるのだなと思い始めたから感じるこれまた普通は美大時代に通り過ぎることなのかもしれないが、なんとなく作品と自分でいうのは憚られるものだった。 すごく悪いい方だが、ある種職業的な教育、アカデミア的な教育、ある種のデザイン的な教育を受けてくると講評の時「これは作品だね」というのは若干ネガティブなニュアンスの言葉になってくる。 特に先行研究にも何にも依拠してないし、何か客観性・一般性・再現性がある部分も少ない。社会性が乏しく私小説的なものを作ったねというネガティブな要素として捉えられがちである。だけれども同時にそのかけがえのなさがあらゆる価値を持つ。それが作品だ。 現代アートに対するよくある批判は目の前にあるものを“作品”としてみているかどうか、“作品”というものはどういうもののことをさしているのかのすり合わせがうまくいっていないから起こる批判だと個人的には思っている。 で、当たり前といえば当たり前なのだが今回“作品なんだな”ということをキャプションが、展示の仕方が、並びが強く感じさせるものとなっていた。これは、単一作家の展示会ではなかなかなしえないもので、長期間にわたってコレクターが「これは価値があるんだ」とある種の主張をもって買い集めているということが効いているのだと思う。そして、学芸員の方が書いたキャプションとともに美術館に展示されるという形で作品が公共性を増していく様子が見て取れて非常に心地よかった。 なので、私もこれは作品だと思ったらこれは作品なんですとステートメントを付けつつちゃんと並べることが大切なんだなと改めて思った。SNSに乗せるだけでは足りなくて、やはり自分のホームページを作ってこれは作品なんですと主張することが大切なんじゃないかと。そのためにもステートメントをちゃんとつけておくべきなんじゃないかと思った。 ホームページ、作ります。 以下現代美術館までの光景 3番目以降が面白い 廃車になる子供用自動車 資源の持ち去りは犯罪です クリスマスツリー 毛ガニ(25000円) 湾曲鏡 iPhoneを修理に出したので切符で移動

November 8, 2024

2024/11/07/アレック・ソス部屋についての部屋を見た

東京都写真美術館にて開かれている「アレック・ソス 部屋についての部屋」を見に行った。 久々の東京都写真美術館 コンセプトなどは各メディアに書かれているのでそちらに譲り、感想を。 アレックス・ソスの展示を見るのは初めてで、とにかく画質の良さに驚いた。大判カメラで撮られていると最初のキャプションにかかれていたが、写実性を超えて実存性があった。インクジェットプリントで大きく印刷されているのだが 人物写真でこれほどの実存性を感じたのは初めてだった。 私は以前書いたようにちょっと画質に対してこだわることに懐疑的な考え方を持っているが、相当揺さぶられるものだった。 写真はやっぱりきれいであれば目を引く。目を引くためにいろいろSNS上で小手先のことを私はするが、そんなことをすべて吹き飛ばすほど圧倒的なきれいさだった。 これは昨日の話と同じであれだけれども、ミュージアムショップで見た写真集では伝わってこないものだった。 サイズが小さいと、画質が良くても悪くてもそこまで差にならない と頭で思っているので、仮に差があったとしても圧倒するほど直感的に感じさせるものにはならないのだ。 実際差は小さくなると思う。 私は基本的にSNSに掲載するための編集をしているので、Lightroom経由で最後iPhoneで色を確認して出している。当然見ているサイズは小さいので、その中で許容されている荒れがたくさんある。 そのまま大判にプリントしたら見られないだろう。 最終的にどのメディアで発表するのかに合わせて写真の編集や撮り方、機材まで変化してくる。今回は画質をよくすることでどのような力を持つか痛いほど伝わってくる展示だった。 そして、その力を手に入れてみたいと思ったが、大判カメラで私の今のようなスタイルの撮影は厳しい。 もう少し何とかならないか、何とかバランスする点がないかを模索してみようと思った。 あと、印刷をもっとしてみたいと思ってしまった。色の調整などを考えると外注してトライアンドエラーを続けるのは難しい。どうしても手元にプリンターが必要になる。 しかし、一度でもプリンターを買ってしまえば紙代、インク代含めものすごい金額になってしまうだろう。大判にプリントするとなればなおさらだ。 あまり金銭的理由で行動を変えるのはよくないが、いくらなんでもお金がかかりすぎてしまう。 もう少しSNSで数字を獲得し、小さなサイズ、それこそ昨日見たような色紙サイズである程度売れるようになってから印刷には手を出したいと思う。 それにしても、大判プリントはあこがれを抱かせるものだった。空間の支配力があった。圧倒的だった。 で、ちょっと細かい話なのかもしれないが、新宿のパークハイアットのシリーズについて。今回の展示会のカバー写真はパークハイアットでの自撮りだ。 ロスト・イン・トランスレーションをモチーフにしたとあり、キャプションにも書かれていて、さらにキャプションにロスト・イン・トランスレーションとは違って部屋から出ずに部屋に訪問してもらう形にしたとあったが、さすがにそれは真逆すぎてパークハイアット以外共通点がないのではと思ってしまった。 インターネットで知り合ったゲストを部屋に招き撮影とあり、さらにそれをソス自身は偏った日本のイメージと自認しつつ「東京を体験している自分」を写したかったと語っているが(https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/alec-soth-tokyo-photographic-art-museum-report-202410)パークハイアットという外資系ラグジュアリーホテルに招くというのは観光よりもさらに先鋭化された”収穫”という暴力的側面が否めないのではないかと思ってしまった。 もちろん、私の写真含めて写真は収集的意味合いがありある種の暴力性を持つものなのだが、それにしてもではないか。 ミュージアムショップにはNewMoonScreen2が 昼ご飯は目黒区役所で 目黒区役所からの眺め。中目黒といえばあの丸い高級マンションとうるさい高架下のイメージ

November 8, 2024

2024/11/06 田中一村展がすごくよかった

東京都立美術館に「田中一村展 奄美の光 不屈の情熱の軌跡 魂の絵画」を見に行った。これがとてもよかった。 写真を撮り絵を描いている人なので、構図が非常に写真的でありながら、写真ではあり得ない絵になっているのがとても面白かった。 特に屏風、つまり縦構図の構図の取り方が非常に勉強になった。「枯れ木にきつゝき」のような大胆に木の部分をそいである様な構図の取り方もとても面白かった。 しかし何より感動したのは、色紙の構図だった。 旅土産の色紙のシリーズはどれもこれも色彩が前面にわたるよう構図がとられており、全体の華やかさと色紙の絶妙な大きさ、色紙のほんの少し縦構図なところが生む余白が素晴らしかった。 いくつかの作品は参照元となった写真が一緒に展示されていて、「足摺狂濤」とかを見ると絵の方のパースがすこし写実的ではないことがわかる。 本来であれば海が途切れるところ、海を少しだけ垂直方向に立たせて沖が見えるような構図になっていて、写真的にはあり得ないのだけれども非常におさまりがよくて驚いた。 あと、「梨花春禽」や「花菖蒲」で使われている絹本銀地がとてもよかった。「白い花」もそうだけれども、銀地に色が乗っている様子は非常にきれいだった。 少し周辺減光のような丸い影が四隅についていたり、色が映える場所の後ろにはうっすら影がつけてあったりなど、いろいろなものを見て取ることができた。 図録だと残念ながらその良さは伝わってこなかった。 ・大胆にコラージュしてしまう ・色紙のサイズ感 ・白地ではなく別の色を使う これは一度取り入れてみたいと思った。白地ではなく別の色という部分はすでにパールプリントという形で、白というよりも銀色に輝く用紙での印刷がアオヤギ写真工芸社などでも気軽に行うことができるし、富士フイルムも結構押し出しているが、もっと大胆な色遣いをしてもいいのではないかと思わされた。 それと合わせて大胆なコラージュを行えば、背景部分の余白面積が増えてより面白いのではないかと思う。 色紙のサイズ感は一度一回り大きいサイズで印刷してカットして試してみたいと思う。ほんの少し縦に長いというのがすごくよかった。 あと、額そうした時のサイズ感がとてもよかった。 色紙のサイズ感にするとなると写真はあとからトリミングで構図を探ることになるが、難しいとは思うが少しコラージュを取り入れていい感じの構図にできないか試してみたいと思う。

November 6, 2024

日報的に文章を書くべきなのかどうか

インプットとアウトプットを太く継続的にお香なうべき。 これについてはだれもが思うことだろう。ただ、アウトプットを継続的に行ってしまうことで何かが失われてしまうのではないか?とか思ってしまっている。 そんなことないとも思うのだが、なぜそう思っているのかを書きながら分解していきたいと思う ーーしたいという話をするだけして満足してしまう アウトプットしてしまうとある種完成したような感じになってしまうことがあると思う。満足してしまうというか、あ、一度出しましたので。という感じで。 そうやって小出しにしていくと、構想だけが積み重なっていってしまうのではないか。特に、こういう文章という形で書くといくらでもかけてしまう。 いくらでも制限なく「こういうことをやりたいんだよねー」という話をしているとその話をすることで満足してしまうのではないか。 周りの人にその話をしてしまうことで満足してしまうのではないかと思ってしまう。 つまり、ーーしたいんだよね という構想の話を日報的に出すべきではないということだ。 アウトプットが悪いというわけではなくて、--したいという構想を小出しにしなければいいのだろう。 日報的、日記的にはその日起こったこととそれについて思ったことを書くべきではないかと思った。 アウトプットしすぎて枯れてしまうのではないか これはまあなんか傲慢な考え方なのだが、アウトプットすることで何か話のタネみたいなものを消費しきってしまうのではないかと思っている節がある。 あ、同じ話したな あ、この前この話やったな とどこかで話す時思ってしまうのではないかと思った。 でも考えてみれば確かに同じ人に全く同じ話をするのはあまりよくないことかもしれないが別にここに書いたことを周りの友人にしてもいいし、どっかで話してもいい。 話すときには文章と違ってそれはそれなりに違ったものに仕上がってくると思うので、別に日報的に何かを出したり日記を書かない理由にはならない。 むしろ私の場合人と話す機会が現状非常に少ないので、ここに書き出していった方が言語化が習慣付いて話の方にも厚みが出てくると思う。 今は言語化するタイミングが人と話すときその瞬間なので、いろいろ話が薄っぺらくなってきてしまっている気がする。 インプット・アウトプットという言葉がちょっと気に行ってない インプット・アウトプットという言葉に対していけ好かなさというか、うさんくっさを感じてしまっている。 これは、分解してみるとどうやらインプット・アウトプットという言葉自体に対してちょっと広告代理店的なイメージというか、何かをまねする・参照するときの体のいい言い訳のような言葉として使われているんじゃないかという疑念を私が持っているようだ。 ただ、このマネする、何かを参照するということに対する抵抗感を正しく持たなければならないと最近は思う 0から何かを生み出すことなんてなくて、何かをつくるということは何かインプットがあってその影響を受けながらやるものであって そこで、私は何も参照していません!というのはむしろ傲慢な何かなのだ。 この前ライゾマティクスによる展示「Rhizomatiks Beyond Perception」があった https://kotaronukaga.com/exhibition/rhizomatiks-beyond-perception/ この展示の中で(以下引用) ライゾマティクスは、自身の作品を学習したAIモデルをアート作品として展示します。 ライゾマティクスは独自のAIモデルを作り、そのモデル自体を購入可能な作品とすることで、AIとアートに関する新しい視点や考察が生まれることを期待しています。 とある。 で、この言葉がどういう目的で書かれたのかを私はもし機会があれば聞いてみたい。もしこの言葉が、「自身の作品」のみを学習したので一般的に生成AIのイラストなどで問題になっているようなありていに言えばパクリであったりとか、収奪的な側面がありませんよ!なので販売してもいいですよね!という意味合いで言ってるのであればちょっとそれはないんじゃないかと思う。 AIとアートに関する新しい視点や考察が生まれることを期待しています。 とあるのでそういう批判承知でやってるとは思うのだが、Twitterなどでの感想やいくつかのメディアの論調を見ているとここの部分がやっぱりちょっと議論が足りないのではないかと思った。 結局のところ私たちは作品を作るにあたっては大量のインプットがあり、さらに様々な技術を利用して作っていて、さらに社会構造の中に支えられて何かをつくっており、歴史上の文脈の延長線上からは逃れられない。私であれば現代の日本に生きているという事実からは逃れられず、見てきた作品群の影響からは逃れられないということをまず自認せねばならない。それを自身の作品のみを学習してるので問題ありませんという話をしているのであればもってのほかだ。さらに自身の作品のみを学習したのでライゾマティクス的作品がアウトプットされるというのもちょっと浅はかすぎやしないかと思う。 情報あふれる現代、作品が情報としてインターネットを通じてみることができる現代においては、多かれ少なかれものをつくるということは自分のいいと思ったものをたくさん摂取していいと思う形で出すというキュレーション的側面を排除しきれない。過去作までくまなく検索やSNSで回ってくるここ10年であればなおさらである。 そんな時代だからこそ、インプットとアウトプットはより重要で、特にインプットを意識的に大量に行うことで創作性を高めていく必要があるのだが、それに対しどことなくパクリではないか、自分の作ったものではないから・・・みたいな遠慮を思ってしまうところがあった。 繰り返しになるがそんな傲慢な考え、美術大学を出ていれば学部1年生で消え去るのだと思うが、まだそれがぬぐい切れていなかった。ので、インプットとアウトプットを大量に行うべきなのではないかとおもい今こうして日報的日記を書こうとしている。 もし仮にそれをやってもアウトプットが何かのパクリ的なものにすぎないのであればそれはもう私はそれまでということだ。その過程において例えば炎上したり作者の方に訴訟を起こされたら甘んじて受け入れようと思う。 書くことがなさそう これはいわゆるネタ切れというものを懸念してのことだが、先述の通り書くことがないということはインプットが足りてないということの指標になる。ある程度太いインプットを意識づけることができていれば、そのような事態にはならないはずだし、なったのならばなったと書くことでインプットが足りていないことを観測することが大切だ。 何ならネタ探しのために何かしなければ で行動が起こってもいいと思う。 時間がなさそう これは、今までの記事がちょっと重すぎたというところがある。あらゆる出店を調べたりなんなりですごい時間がかかっていたので、もう少し気軽に書くことを意識づけようと思う。カテゴリは日記に分類することにする。 大したこと書けなさそう 多分これが一番書かない理由なんだと思う。底が知れてしまうというか。感想文としても面白かったです以上のものは最初かけないのかもしれない。もう10年以上書いてないし。もうそれはしょうがない。恥を忍んで書きましょう。 以上、とりあえず日報的日記を始めますという話でした。

November 6, 2024

作品のクオリティと合理的な消費行動の残酷さ

私たちは日々クオリティを気にしている。クオリティというとなんというか、ちょっと業界用語みたいなものでそれぞれの業界で意味が変わってきてしまうと思う。ただ、どの業界でもみんなクオリティを気にしてものを作るなりサービスをするなりしているし、消費者は常にそのクオリティと価格が見合っているか、他の商品と比べてクオリティがどうなのかを気にし続けている。あらゆる比較を行って納得した上で合理的な選択だという自分への説得を経てお金を支払う。 合理的な消費 さて、ペルソナを作るわけじゃないがAさんの生活を例に取り、どのように“合理的”な判断の下消費を行なっているのかを振り返ってみよう。 朝コーヒーを買う。コーヒーを買うのはいつものスターバックスだ。スターバックスのコーヒーは一見高いように見えるのだが、グランデサイズを頼んでるので結構な量がある。しかも2杯目が130円でのむことができるのだ。朝は職場近くのスターバックスにより持ち帰りでGrandeサイズのホットコーヒーを飲み、仕事終わりに家の近くで資格の勉強をするために3時間ぐらいいる。スキルアップもできるしコーヒーは美味しいしですごいコスパがいい。 昼ごはん、今日はコンビニでパスタサラダと期間限定のビリヤニを食べる。食後はプロテインを飲む。全部で1500円ぐらいするけれども、これも健康のためだ。期間限定のカレーもお弁当としては量が少ない割には高いけれども、なんとあのいつも行列で有名な新宿⚪︎×の監修だ。SNSでよく見かけてて行きたかったけど2時間街は流石に辛い。なかなかいけなかったあのお店の味が食べられる上、輸入のバスティカ米を使っていて本格的だ。お店の味とどのぐらい同じかわからないけどきっとセブンだしカレーって煮物だし焼き物とかと違ってほぼ同じなんじゃないかな!いやー美味しかったなあ 会議ではこの前買ったAppleWatchの新機能をクライアントに聞かれた。今までのAppleWatchと違って今回はUltraを買ったから大きくてぱっと見で新しく出たものだというのがわかるだろう。やっぱ高かったけどこうやって会話のネタになるしUltraにしてよかったな。それにいわゆる高級時計のほうがいいって先輩は言っていたけれども、そういうちょっと成金っぽいというか、高いやつはあまり良くないなと思う。その点AppleWatch Ultraは10万ちょっとだし、最新機能満載ですごく便利。心拍も常に測れるし心電図も測れる。高精度なジャイロセンサーで運動量とかも具に記録できるし、なんと40mまでの防水機能で水深まではかれちゃう。何よりバッテリーが今までの倍以上持つから毎日充電しなくても済むようになったのはでかい。スイカも入るしチタン製で高級感もあるしもはやこれは安いんじゃないかな。 夕飯買いに行くついでにこの前プライムデーで買ったテレビの台をニトリに買いに行かないと。本当はあまりものを買いたくないんだよね。家具とかも必要最低限でいい。ミニマリストってわけじゃないけど、テレビ台で良いものかっても別に何か機能的に変わるわけじゃないし、別に誰かを家に呼ぶわけでもないしね。ニトリならすごく安いから気に入らなくなったらまた買い換えればいいし。高いの買っちゃうと家に置いてなんか違うなってなっても捨てられなくなっちゃうし。家具はほとんどニトリだよ。 ついでにスタンダードプロダクツによっていこう。スタンダードプロダクツってのは最近ダイソーがだした無印みたいなブランド?シリーズで100円じゃないけれども300円ですごいデザイナーズっぽい雑貨が買えるすごいいいお店。無印はなんか高いしこっちで十分(enough)だよね。 ちょっと荷物が増えちゃったからタクシーで帰ろうかな。こういう時車があると便利なのかなと思うけれども毎日使うわけでもないのに駐車場代だったり車検、税金でコンスタントにお金がかかるものを持つのはちょっと無駄が多いなって感じちゃうな。実質サブスクが増えちゃうようなもんだし。それだったらMaaSの時代でもシェアした方がいいよね。スポーツカーとかもなんかちょっと浪費って感じだよね。そういうちょっと見栄なところにお金をかけるなら日々の生活に少し贅沢をするとかおいしいものをたまに食べるとか旅行で自分の気分をチャージする方がいいんじゃないかと思う。下手に郊外に住んで車が必須になっちゃうぐらいなら、その分家賃にかけて都心に住んだ方が環境とかそういうの含めて無駄がなくていいんじゃないかな。 週末、だんだんと寒くなってきたし久々に私服を買いに行こうと思う。普段はユニクロかZozoで買ってるけど、今日は二子玉のアークテリクスに行く。最近はアウトドア系の服を買うことが多い。いわゆるブランド物と違ってこっちはちゃんと機能性が重視されていて耐久性もあって長く使えるからだ。特にゴアテックスは最高だね。アークテリクスの派手な色じゃなければリュックも含めて仕事で使っても全然問題ない感じで、仕事の道具と考えれば全然安い。派手さはないけれどもそぎ落とされたデザインがすごいかっこいいし何年も使えていいよね。いろいろ買うんじゃなくてこういういいものを1つだけ買って長く使うって感じがいいと思う。 アウターも買ったし少し資格の勉強をするために蔦屋家電店のスタバに行く。その途中でバルミューダの試食会をやっていた。最新機種のトースターは今までよりもさらにおいしく食パンが焼けるらしい。いやーこれはいいかもしれない。毎日使うものだし、朝これだけおいしいトーストが焼けてエシレバターまでいかないでもいつもよりちょっといい塩分多めのバターをつけて食べたらすごく気分が上がるんじゃないか。下手にどっかのカフェによってモーニングとか頼むよりも全然安いし。しかも新機能でリベイク機能っていうのがついていて総菜パンとかもいい感じにおいしく温められるみたい。会社帰り近所のパン屋でいつもタイムセールをしてる。買ったことなかったけどあれを買って次の日これで温めて食べるのもありじゃないかなあ。しかも前の機種より安い。Paidyが使えるから月5000円だし全然元取りながら払えるなあ。これは買いだな。 さて、一度家に帰って荷物を置いて今日は飲みに行く。普段お酒は飲まないようにしてるんだけど毎週土曜日はリフレッシュでちょっとだけいいお酒を飲むに行くことにしてるんだ。今日は地元のといってもここに引っ越してきたのは5年前なんだけど、地元にある和食ワインバーに行く。今週のワインは何かな。3種類で3500円のテイスティングセットを飲むのがいつもの楽しみ。この前こっちに来た友達を連れて行った時も楽しかったな。あとここは和食に力を入れてることもあってその時仕入れた全国の名産品を使ったおつまみがおいしいんだ。今週は何だろう。。。生ガキだ!生でも食べてもいいしグラタンもカキフライも調理方法は選べるみたいだ。いやあ、でもいつもよりちょっと高いなあ。4産地2づつピースセットで3800円。でも生ガキだからあまり安いのを安いお店で食べるのも怖いし、広島、岡山、宮城に岩手と食べ比べができるみたい。こんなに一気にいろいろなところ実際には行けないしどれか行くにしても交通費とか考えれば全然安いしここは食べちゃおう。うーん岩手県のこれすごい気に行ったな。今度ふるさと納税でもしようかな。ふるさと納税?毎年やってるよ。お得って感じでもないけどね。いやあなんかもちろん制度のゆがみとかなんとかいろいろあるみたいだけどさすがにあの金額ただ税金払うのとそうじゃないのとだったらやらないってことはないでしょう。お会計はお会計は9500円。いやあちょっと行っちゃったな。でもまあリモートが増えて飲み会に平日行くわけでもないしこれぐらい全然安いよね。 隅々まで行き届いたマーケティング ある種の合理性を見てきた。人の消費行動なので銀行の投資のような経済的合理性のようなものではなく、いろいろな価値観の入り混じった合理性を作り出す。予想どおりに不合理な点も含めた合理性だ。この「今回の消費は合理的だな」と消費者本人に納得させるためにあの手この手を尽くすのがマーケティングだ。 原始的なところだと消費者がハンバーガーを食べたいと思ったときにまず最初に思い出す店名になることを第一想起を取るといって、それをとるために広告を打ったりする。広告が効果があるかどうかはアンケート調査(時々YoutubeとかFacebookで出てくるのもこれ)を行ったりして推定広告想起リフトという指数で測りながら広告を調整したりする。 ほしいな と思ったけれども“今欲しい!”と思わせるために「期間限定でセール実施中!」と言ったりして今買うことを正当化したりする。 高いな と思ったとしても、いやいやこんな機能があるんですよ。こんなに耐久性がすごいし、なんとあの有名な〇〇プロが使っています!と言ってみたり、表参道や銀座のど真ん中にでかい店舗を立ててドアマンを配置したりしちゃったりして、こんなに高級品なんだ。。。リセールもすごいし、、、ステータス、、、とかいろいろやって合理性を作り出す。 安物は買いたくないな と思ってる人がいたらすかさず「これはブランド品ではありません。無地です。いいものを作るところに投資してます」と言ったりして納得感を醸成する。無地の白い服を買わせたらその横でカレーを販売して買い替えを促す(嘘) 情報を広告や店舗などを使って提供するのでは飽き足らず、雑誌やワイドショーなどの媒体を使って価値観自体を変えてくる。この辺りはファッションに関する様々な論考を見ればわかりやすいのではないかと思う。 表現の世界まで踏み込んでくる合理性と市場経済 ちょっとマーケティングの話になってしまい、広告自体への批判も書きたいところではあるのだがそれは別の機会にして、今回書きたいのは品質、クオリティという考え方にあらゆる作り手が支配されてませんか?という問題提起である。 先述の通り人々は常に消費を行うとき、その消費が合理的であるかどうか考える癖がついてしまっている。 となると、当然、いわゆるアート作品を買うとき、作家の作品を買うときにも合理性があるかどうかを癖で考えざる追えないのだ。 例えば工芸的な花瓶があったとする。Aさんは工芸品など買わなさそうだが、仮に買うかどうか判断を迫られたらどう思うだろうか。 この作家さんはこの前テレビで見たな え あの有名な賞を取ってるのか 六本木のど真ん中のこんなところで展示されてるんだしさぞかしすごいんだろう いやー作るのにすごい時間がかかって年間50個しか生産できないらしい メイキング動画を見たけれども、本当に超絶技巧だった。こんなの機械を使わずに手作業でやってるなんてすごい! すごいクオリティだ。見たことないほどきれい。さすが職人の手作業 これはもはや資産かも こんな感じじゃなかろうか。ここまではなんとなく想像つくと思うが、これ、作り手もここまでではないにせよ、ある種の誠実さのためにクオリティに支配されてるのではないかと私は思っている。 これ20万かなあ どうだろう。まあでもいろいろ工夫したし作るのに相当時間かけてるしこんなもんかな。 かなりこの部分は気合を入れてつくってるし、これ作るにはあれもこれもそれもこれも習得してなきゃ無理だしやってる人いないと思うな この部分の色を出すのに3年ぐらい研究してるしなあ それを考えれば 別に原価から計算するわけじゃないけどこれぐらいの時間と材料かかってるしこのぐらいは全然とってもいいのでは いやあでも100万はないな。ちょっと取りすぎな感じする。他の作家さんもこのぐらいだし倍どころか5倍なんてちょっとね。 自分だったらいくらなら買うかなあ。でも100万はないな。 うーん 100万で売るならもっとこうしてこうしてこうするかなあ。今回使わなかった素材も100万なら使えるし 作品というものに”合理的”な価格を付けるのは不可能である。なぜなら同等品というものが本来であれば存在しないからだ。だけれどもなぜか作家側も普段は消費者なので値段をつけるときに消費者的発想で価格を付けるようになってしまう。買ってもらう人に対し一定の納得、一定の合理性を与えるためにいろいろ説明を付け加えてしまうのだ。 そういった合理性を伴わせないといけない気がするというのは市場経済であったり資本が生んだ価値観であったり、競争原理が生んでいる歪んだものであるにもかかわらず、消費者として教育され続けている我々はかなり意識しないと非合理的なものを生み出せないし、それらを切り抜けてせっかく生み出した尊い作品であったとしても最後の最後で価格を付ける瞬間に合理性のゆがみを乗っけてしまう。 そして何が厄介かというと、こういった歪んだ価値観や合理性のことを作家も消費者も”誠実さ”と呼んでいるところが一番厄介なところである。 つまるところ、価格に見合ったものを出すのが良心的であり、誠実さである。クオリティに責任を持つのが作家の責任である。そこに向き合うことが誠実さであるという。だが、どうだろうか?ここでいう価格に見合うとかクオリティというのはその大部分が「お金をかけて量産した方が有利」になるというとんでもなく資本家に有利な価値観に染まっていないだろうか? もちろんそうじゃない部分も沢山ある。作品とは誠実に向き合うべきである。しかしながら、何か歪んだ誠実さを持ってしまってはいないだろうか。いや、持たされてしまってはいないだろうか。 私は『東京有機』という本を作ったが(https://tokyomorph.theshop.jp/)、これを作るにあたって品質という部分、クオリティという点で本当に悩みつくした。つくせてはいない。まだ悩んでいる。 お金と時間をかければよくなる部分は企業・資本に負け続ける 『東京有機』はキンコーズのセルフコピー機やコンビニで印刷することを前提に作っている。いろいろ調べて、最初はそれこそ少し借り入れを覚悟してオフセット印刷しようかとか、そこまでいかないでもHPのIndigoという印刷機を持っている印刷所にデジタルオフセット印刷を頼めば比較的少部数でも液体トナーを使っているのでオフセットレベルのクオリティが出せるとかいろいろ悩んだ。せっかくだし色にこだわって色見本印刷してくれるところを探そうとか、銀座に行けばそういった対応をしてくれるところもあるらしいとか、東京にはいろいろな選択肢、お金を払ってお願いできるサービスが本当に無数にあった。 しかし、そうやって自分にはできないことをお願いしてやってもらって完成度をあげていく、クオリティをあげていくというのはどうなんだろうか。どこまでそれをやればいいのだろうかといろいろ試すうちに思うようになった。できる限り自分でやるというのは改めて言うと当たり前なのだが、なんだかそれではいけない気もする。 それではいけないと思うのは、自分の力だけではクオリティが低いものになるという前提があるからだ。 写真に関してはいいものが取れていると思うが、例えばグラフィックデザインとか、本の装丁とかはやったこともない。写真の配置とかもプロがやればもっと本っぽくなるのかなと思ったりもする。 自分の力 というのは自分ができる作業という意味以外にも自分で扱える機材の範囲という意味も含まれてくる。自分が取り扱えるのはせいぜい家庭用プリンターの一番いいやつぐらいで、オフセット印刷機を買って扱うことはできない。無線綴じ製本機を仮に購入してもきれいに生産することは難しいだろう。 こうなったときに当然出てくるのは「外注」と「借入」だ。自分ではでかい印刷機は取り扱えない。だけれどもラクスルで5万円ほど払えばオフセット印刷で印刷してもらえる。8万ぐらい払えば無線綴じにしてもらえる。さらにこだわって表紙をもっといい紙にしたいと思ったら印刷所に頼めば家庭用の機械では絶対印刷できない分厚い紙に印刷してもらえる。ハードカバーにすれば見栄えもいいだろう。シュリンクで包装した方がいいかもしれない。 だけれども、そういったことをやっていくと当然ながら一冊当たりの価格はどんどん上がっていく。どんどん上がっていくので、たくさん印刷して量産効果を効かせて一冊当たりの価格を下げていきましょうという話になる。結果、2000部、5000部印刷して在庫しましょうということになる。そして待っているのは500万であったり1000万ぐらいの支払いである。一冊当たりの値段は下がっていても、総額としてはどんどん大きくなっていく。そうなると商業出版、出版社に拾ってもらえないと出版できないという形になってくる。もちろんここで突っ張って自費出版で支払うというのもSNSで作家が直接発信する時代ではあり得る選択肢になってくると思う。そうなると借り入れが発生する。 借入するにせよ出版社に払ってもらうにせよ、結果的にここでその本は2000部なり5000部売れないとまずいものとなる。(損益分岐点はもう少ししたかも?)ということは2000部なり5000部売れそうなものを仕上げないといけないとなる。一般的に売られている写真集を見る。それと比べる。値段も比べる。写真を見る。表紙の紙を見る。本文の紙は最高級の紙でこれを使うにはあと300万円必要になる。こういった比較を無数に行い、自分にできる範囲を見定めていくことになる。それに合わせて内容を何とかできないか変えていく。これはいわゆるデザインという作業なのかもしれない。売るために売れそうな構図でとるようになるかもしれないし、売れそうな流行りの色に合わせた編集を行うかもしれない。なぜなら2000部売らなければならないからだ。そうやって売るためにいろいろやっていくことになる。 この時作品を多くの人に届けるためにということで手を加えていくのだが、”作品”は素直な純粋のもので、手を加えているのはクオリティをあげるためで売るためではなく、完成した作品を宣伝するときにあらゆる手段を尽くす(SNS,Youtube,書店での出展)と分けて考えるので作品に影響はないと思いがちだ。だが、影響がないわけないというのが私の考えだ。 結局のここで無意識に誠実であればあるほど意識してしまうクオリティ、価格に見合ったものを出すという精神は明らかに市場性にゆがめられたものになる。出版社を介していたら言うまでもないし、自費でやってもその歪みから免れることはできない。 結局のところ自分から外に出し、産業からの手を借りれば借りるほどお金というものを最初に積む必要が出てきて、そのお金を調達したり自分で無理したりして捻出することになる。資金の調達能力というのは企業のほうが圧倒的に有利というか、100パーセント勝ち目がない。100パーセントととかいうのは詐欺かバカしかいないが、今回は間違えなく100パーセントだ。大きな出版社であれば時価総額2000億とか3000億とかいう規模を持っている。人の人生700人を振り回しながら、人が一生稼いで得られる収入の1000倍近い金額を毎年得ているのだ。勝てるわけがない。 別に勝ち負けではないし、勝つ必要もないのではあるが、そこの土俵にちょっとでも乗っかってしまったら終わりだ。終わりなのだが、日々クオリティの高いエンターテイメントとしての作品に触れ続けている私たちはどうしてもクオリティをあげたいと思わざるを得ない。だが、その先に待っているのは市場のゆがみを一身に受けた作品だ。仮に作品には波及させまいと頑張っても結果として個人が金銭的な不安定さというあおりを食うことになる。一体それはいつまで続くのだろうか。 仮に作品の販売と制作費用がバランスしていたとしてもそれは両足が地に着いたバランスではない。つま先片足立ちでお皿を4枚回しながらバランスしていますという状態である。そんな状態で“クオリティ”を担保するのが誠実さなのだろうか。それがプロとしての、作家としての受けるべき試練なのだろうか。私はそうは思わない。 地代がかかる限り限界が来る そこで今度は自家印刷・自家製本という話になってくる。つまり、工場までいかないでも工房を作り、その工房にできる限り廉価な産業レベルまでいかない印刷機なりなんなりを購入して本を作ろうという話だ。私も上記のことを考え自分が手を動かせる範囲でやりきろうと思い、その中でもなるべくいいものをということでCanonのプロフェッショナル向けのインクジェットプリンターを買おうかとか、そこまでいかないでもEpsonのもう少し安いやつを買おうかと検討していた。裁断機もこのぐらいの値段ならなんとか買えるかなと思いいくつか実際に触ってみたりしていた。...

July 28, 2024

京島共同凸工所の本『京島の十月』が素晴らしかった

東京の墨田区、スカイツリーの北東方面に「京島」という地域がある。この場所に今からちょうど1年前ぐらいの2023年7月1日に京島共同凸工所という工作所が大学の先輩である淺野義弘さんによって開かれた。(運営は 淺野義弘+暇と梅爺株式会社 https://kyojima-totsu.studio.site/ ) 単純に工作をする工房としても使えるし、3Dプリンターやレーザーカッターをはじめとしたデジタル工作機械の講習を受け、レンタルすることもできる工房だ。 そして先日2024年6月1日に淺野さんが工房とともに京島で過ごした日々を綴った『京島の十月』が出版された。 出版記念イベントでお話を伺い、本を読ませていただいた。 書籍「京島の十月」 https://kyojima-totsu.stores.jp/items/665c3585e4567c1b41e30f54 私は短い期間だが2015年ごろから京都でシェア工房を運営していたので、その当時のFabやメイカーズムーブメントの空気感を私なりの視点から言語化しつつ、今回の『京島の十月』、京島共同凸工所を通して得た私の感想を書き留めておこうと思う。 FabとFabLab、ファブスペース、メイカーズ まず最初に京島共同凸工所ができるまでの流れの前提となるFab,FabLab,メイカーズムーブメントの源流について書いていこうと思う。 Fab ここでいうFabとは、当時米国マサチューセッツ工科大学(MIT)のmit media lab 内にあった Center for Bits and Atoms の所長である Neil Gershenfeld氏が提唱した、ものづくりに関する運動のことを指している。 『Fab パーソナルコンピュータからパーソナルファブリケーションへ』 https://www.ohmsha.co.jp/book/9784873115887/ Fabという概念自体は非常に抽象的で広範な概念で、良くも悪くもこのFabを各人が自分の持っている技能やポジションに合わせて解釈して使われているというのが実態で、Fabとはという話をすると十人十色の答えが返ってくる。私なりの言葉で短くまとめると、Fabは「ものづくり」というものが家内制手工業から問屋制手工業、工場制手工業、工場制機械工業と変遷していくにつれ大量生産が前提となり、人々から資本家・市場経済の世界に奪われ不自由になってしまったので、それをインターネット・地域・デジタルファブリケーション機器を使い再び手元でものをつくるという自由を取り戻そうという運動の総称であると捉えている。 中世前期は家内制手工業という形で、あらゆる日用品や仕事に使う農具、衣類などは自給自足の形で家庭内で作られていた。それが中世後期にかけて都市の発達に伴い交易が始まり、市場経済が拡大した。品質を維持したり技術を継承するためにギルド制が発達する。その後流通量が増えてゆきより組織的な生産が必要となる。商人が広範な地域を一括して流通管理・生産過程を管理し品質や納期を統制し始め、さらなる効率化を目指し商人が作業場を用意。そこに人を集めて生産を行うようになる。その後産業革命を機に蒸気機関による機械化が進み、工場制機械工業へと変遷してゆく。 この過程でものづくりの仕事は細分化が進んでゆく。工業化による生産技術の進歩により職人一人で10台以上の機織り機を操ることができるようになったり、何トンもの力を生み出す工作機械を使うことにより様々な素材を取り扱うことができるようになった。結果として日用品は手工業品から工業製品(機械製品)に移り変わり、手で作ることはできないものとなった。第二次産業革命以降石油化学の発達により1862年にはセルロイド、1907年にベークライトが。それ以降も様々な合成樹脂が開発されてからは射出成型など大規模な生産設備が前提となり工場自体もグローバリゼーションの流れのもと身近な町工場が消え、世界中のどこかにある超大規模な工業団地に集約された。 *2017年6月5日MITメディアラボ内で開催さ入れたThe DgigitalFactoryにて講演するNeil氏 このようにして身近にあるほぼすべてのものは頑張って手元で作ろうとしても作ることが不可能なものとなり、ものは買わなければ手に入らないものとなった。一方ものに対し、情報はインターネットの普及に伴い今までよりもずっと誰もが安価にありとあらゆる情報にアクセスできるようになった。Wikipediaをはじめとした独立した、もしくは公的な機関があらゆる情報を電子化し検索可能にして公開していく。あらゆる技能を持った個人がブログという形でその知識を公開しGoogoleが検索可能にしていく。さらにパーソナルコンピューターという形で1人1台の端末を持ちそのうえであらゆる情報処理を行える。方法はソフトウェアという形で共有され、シェアウェアとともに多くのオープンソースソフトウェアが生まれていった。 この情報の自由のようにものづくりも、パーソナルファブリケーションという形であらゆるものを作る道具が普及し、作り方がインターネットを通じて公開され、オープンソースソフトウェアを介してノウハウも共有されていくような形になればすでに市場経済から脱することができている(近年のAIは怪しい)情報と同じようにものづくりも自由を手に入れ、自給自足可能になるのではないかというのがFabの思想であり、Fabという運動だ。 そのFabの理念を体現していたのがNeil Gershenfeld氏自身がMITで1998年から行っていた授業が「How To Make (Almost) Anything」である。 MIT OpenCourseWare How To Make (Almost) Anything https://ocw.mit.edu/courses/mas-863-how-to-make-almost-anything-fall-2002/ これは先述のデジタルファブリケーション機器だけではなく様々な工場ではなくガレージで使える規模かんの工作機械を作って、樹脂製品から刺繍、鋳造から電子基板までいわゆる「ガジェット」であればどんなものでも作ることができるように1ターム(3ヶ月)でなるという授業である。Fabの理念を体現している授業で、この授業を通して自分がものを作れる自信を獲得することができる。この授業で生まれたプロトタイプをベースにクラウドファンディングで資金調達して生まれたのが有名なSLA3DプリンターメーカーであるFormlabsであるし、日本でFabを先導した田中浩也教授もこの授業の卒業生である。 田中浩也教授による詳細な体験記が残されている https://fab.sfc.keio.ac.jp/howto2010/ Fab Lab さらにFabの理念を体現しているのが2002年に作られたのが「FabLab」である。非常に具体的にFabLabとは何かが定義されている。 *FabLab大宰府 2022年3月訪問 FabLab Japan Networkのホームページが詳しいのでみていただきたい http://fablabjapan.org/whatsfablab/ ものづくりを人々の手に取り戻すためには3つのことが必要で、それは「Learn」「Share」「Make」が必要で、それの拠点としてFabLabというものを定義して世界中に共通のコンテクスト・共通の機材を持った拠点を広げていこうという話だ。 先述の通り情報の世界、コンピューターのパーソナル化の過程で起こったことを踏襲するべくそのために必要な環境を整備しようとしている 機材を共通化することで実行環境を統一する - 実行環境が統一されているので得られたノウハウを共有することができる デジタルファブリケーション機器によって遠隔地でも再現できる - FabLabで作られたものは世界中どこのFALabでも同じものを作ることができる FabLabに集まる様々な工業的製造業に携わる人から得られたノウハウを展開しやすい マニュアルが共通化できるので教育の効率が飛躍的に上がる WindowsとかMacみたいな基盤となるOSを作ろうとしているのだ。...

June 12, 2024

労働市場の歪みを医療に押し付けていると言う話

首を怪我して3週間 5月17日、いろいろあって首を痛めてしまった。レントゲンを撮ってもらった限りでは骨折はしていないようだが、右手と左手中指に違和感があり、今はだいぶマシになったがタイピングで誤字がすごく増えてしまうぐらい影響が出て、今でも続いている。MRIの結果が来週出るらしいが、仮に出たとしてもよほどでない限り保存療法、つまりそのままにして様子を見るという形になりそうである。 私は整形外科の治療に対しては不信感と言ったら失礼だが、ちょっと一般的な感覚とのズレを感じる。もちろん専門家では全くない私の方が感覚として間違っているのだが、ちょっと愚痴みたいなことを書かせてほしい。 首だけに限らず、以前腰を痛めたことがあった。腰を痛めた際も骨折はしていないので様子を見ますということで湿布やくと鎮痛剤が処方されて、様子見になった。状態はどんどん悪くなっていき、ついには寝ることができないぐらいになってしまった。病院に行くと、鎮痛剤を増やすという形になった。それをしばらく繰り返すことになった。 結果的には今でも腰痛は度々起こってしまっている。椅子が悪いのかもしれないし、ベッドが悪いのかもしれないし、歩き方が悪いのかもしれないがもう原因はわからない。いわゆる慢性的になってしまっているという状況だ。鎮痛剤・湿布では炎症を抑える効果はあるかもしれないが、私が望んでいるのは対処療法ではなくもっと構造的な問題を改善するというところだった。私が と書いたがみんなそうだろう。病院に行けば治してもらえると期待していくのだ。 もちろん病院は全知全能の神ではないし、治療が難しいものがたくさんあるのは百も承知だ。ただ、眠れないとか今回で言うと指の動きが以前と全く異なってしまうと言う状況、さらにカメラを持ち歩くこともできない、iPadぐらいしか入れていないリュックサックを背負うこともできなくなってしまうような状況になっていますと言う状態で、鎮痛剤と湿布のみで1ヶ月間耐えてくださいと言うのはなかなかに大変なことだ。職種によっては1ヶ月何もできなくなってもおかしくない。そのぐらい骨と筋肉というのは長いタイムスパンで見ないといけないものなのかもしれないが、かなり辛い。そして、治るかどうかもわからないという話だった。 これもわからないということを伝えるのは専門家にとって大切な仕事だ。専門家でもわからないことがあるのは十二分に承知しているし、そもそもMRIの画像が出てこないとどうしようもないというのはわかっている。一生後遺症として残る可能性がありますというのもわかる。わかるのだが、それはそれで事実として受け止めるのが辛い。(あたりまえ) 腰の時はMRIの結果が出てももしかしたらこのあたりの神経が触れてるかもしれませんね で終わりだった。結局生まれつきの骨格みたいなものがあって、それの上にさまざまな生活習慣がかさなった結果出てきているものなので対処療法をするしかないということだ。でもじゃああと30年40年鎮痛剤を飲み続けるのか?ロキソニンテープを貼り続けるのか?と当時は思ってしまった。結果的にその後腰痛は気にならなくなったが、今でも数ヶ月に一回痛くなって湿布を貼っている。治らないのか。 どうやらそのような話は結構普遍的な話のようで、腰が痛い、膝が痛いで行っても湿布と鎮痛剤だけで終わり全く直らないで5年通ってますみたいな話はザラなようだ。 で、結果どうなっているか。整骨院が氾濫しているのである。 何も別に私は東洋医学は全く効果がない!というつもりはない。ただ、整体に関しても以前行っみた3箇所はともに毎週来てくださいと言われて1箇所に関しては3年ぐらい通っていたが、付き合っていくしかないねーというスタンスである。たまに姿勢矯正みたいなことをやっているところがあって、3ヶ月ほど受けてみたが特に効果は感じなかった。 これは保険医療という制度に私が毒されているだけかもしれないし、父が膵癌亡くなった時に標準治療以外の治療がわんさとやってきてうんざりしていたトラウマのようなものも影響していると思うのだが、そんな治療があるのだったら病院でやってるよね?という疑問が常に付き纏ってうっすらとした不信感が募っていかなくなってしまった。 しかし、今回腰痛のようなじんわり生まれてきたものではなく明確に物理的な衝撃が加わって首を怪我した。にも関わらず、腰痛と同じようにぼんやりとした治療が続いている。直らないのかもしれない。 直らないとしたらこれは私の人生にとっては相当な打撃である。まず登山リュックなんてのはもってのほかになる。ミラーレスカメラを首からかけることももしかしたら叶わないのかもしれない。キャリーバッグにすればいいと言ってもじゃあそれを10km20km引きずっていけるのか。交換レンズを持つこともかなり強く制約されるだろう。紙の本はもう長時間読めないのかもしれない。 こう言った言葉が現在の不安から“大袈裟”なものになってしまっているとは思う。とは思うのだが、結局病院で一切の見通しを伝えてもらえないので悪い方に考えてしまうのだ。悪い方に考えるのが悪いという話かもしれないが、1ヶ月間何もできなかったという事実からそう思っても仕方ないんじゃないかと思ってしまう。 つきあっていく という表現 痛みと付き合っていくとか、病気と付き合っていくみたいな話は子供の頃からよく耳に入る言葉だった。父が非アルコール性の脂肪肝でもう20年近く薬を飲み続けていたからだ。祖母も常に湿布薬の匂いを漂わせていた。そうやってみんな意外と何か不健康と言われることを抱えながら生きているのかもしれない。ただ、30歳の現在でそんなことが起こってしまうとじゃ後何年付き合っていけばいいんですか?と思ってしまう。それはもっとひどい人がいるのよって言われるのかもしれないし、医者からすれば大したことないと言われるかもしれないが、長時間座れないとか長時間歩けないみたいな制約が突如突きつけられて明日から一生そうですというのはなかなかに辛い話だ。 同時に私は“薬”というものを飲めば解決するというものではないということを知っている。薬というのはもちろん効く時もあるのだが体というものがそこまで一定のものではないので、体の変化に合わせて薬の効果も増減するのである。健常者であっても あー今日は調子がいいな 今日は調子が悪いな という日があると思うのだが、薬を飲んでいるとその振れ幅が増幅され、あー今日は動けるな あー今日は何もできないな みたいな感じになってくるのである。 毎日湿布を貼ればいいじゃん 毎日鎮痛剤を飲めばいいじゃん というのもごもっともなのかもしれないが、それはすなわち体調のボラティリティをかなり大きくする行為になる。 いつ病院に行くのか 私は病院との距離感が相当近い人間であることを自覚している。それは日本の保険医療制度のおかげで安くいけるというのも大きいと思うし、実家の目の前に小児科がありことあるごとに連れていかれていたという習慣のようなものが染み付いているのかもしれない。なので、友人が病院にいこっかなーみたいな話をしているといつも驚く。そんなひどい状況でよく7日間も放っておいたね、その上で病院行くかどうか悩んでいるってどういうこと?と驚くことが多い。 昨今社会保障費の増大が問題となってきており、自己負担額を上げたり大きな病院に自己判断で行く場合は加算料金が取られたりするようになっている。セルフメディケーション税制が整備されて市販薬で対応できる範囲を広げようとの動きがあるが、だとするとじゃあ健康という状態がどの程度のものなのかというのを教えて欲しいと思う。 私は今回病院に行ったが、多分だが首が痛くて両手に違和感がある 程度では病院に行かない人も結構いるのだろう。血が出ているとか、明らかに腕が変な方向に曲がっているとか、発熱が一週間続いているみたいなこと以外では多くの人は病院にも行かないし市販薬も買わないようだ。つまり、多くの人にとってこの私の今の状況は健康ではあるが一時的に調子が悪い部分がある程度の認識なのだろう。一方私は神経質なので?もしこれで後遺症がずっと残ったらどうしようとか、首がヘルニアになってて固定しないとものすごい悪くなってしまうのではないかとかを考えてしまう。そのあたりの問題の分解=デバッグをしてもらうために病院に行く。病院に行くと診断がつく。薬が出るので健康ではないという状態になる。 こうなってくると、調子が悪いだけ と 健康ではない病気の状態である という境界はどんどん曖昧になってくる。調子が悪いというのはあらゆることで起こりうるので、これを全て病気と捉えてしまうと健康だと言える日はどんどん少なくなってくる。常に何らかの薬を服用する状態になってくる。私は子供の頃からこの病院にいくを繰り返し行ってきた結果、健康であるという自覚がある日がどんどん減っていき今ではほとんどない状態になってしまっているような感じがする。 もちろんそれは腰痛のような薄ら長く続く疾患を抱えているからというのが大きいのだが、それにしても元気ですと胸を張って言える日が少ないというのは何か間違った健康観を持ってしまっていると言わざるを得ない。言わざるを得ないのでそのような歪んだ健康観を持っている人が何度も病院に来るというのは病院側からすればうんざりだろう。申し訳ない。 だがしかし、私からすると私なりの健康状態があって、そこから外れ始めた時、それがさらに増悪していくものなのかそれとも治っていくものなのかの判断を専門家ではない自分自身では診断できないので病院に診断してもらうしかないというわけだ。 1番の問題は、そういう意識で行っているはずなのに今回の整形のように特に問題ないですねー つまり、「単なる不調で健康の範囲内です」と言われると不満が出てきてしまうという私の精神状態というか考え方が相当拗れていて修正が必要だ。 だが同時にそうやって初期症状を見逃して父が死んでいる(見逃してなかったとして生きれたかは別問題)ので、何かあったら病院に行っといた方がいい感じもするし、なかなか難しいところである。 じゃあ多くの人が思う健康・不健康ラインは? そこでまた周りに目を向けてみる。どういう時に病院最近いった?という話を聞いてみたり、こういう状況だったらどうする?みたいな話をしていると浮かび上がってくるのは「仕事ができるかできないか」というラインである。 確かに今回私はカメラを握る・持ち運ぶことができなくなってしまったので仕事ができなくなっている。できなくなっているので結果的にここまで不安が大きくなっているのかもしれない。一般的な病院に行くラインとして賃労働ができる状態ができない状態かというのは当たり前というか1番妥当な判断ラインなのかもしれない。 行政の健康不健康の判断もそのように感じる。健常者というものと障碍者を分けているのは「賃労働において特別な配慮が必要か否か」というところで線引きがなされている。特別な配慮が必要そうであればそれを支援するし、特別な配慮が要らなくなれば支援はなくなる。この支援というのはまず第一には「賃労働」ができてるのかどうかをみて判断されるものであって、その人が「日常的に困っているかどうか」ということでは判断されていない。 なぜなら「日常的に困るかどうか」というのは主観的なもので、そこまでいっていないがちょっとネットの言説を借りるようでよくないが「サボっている」とか「大した程度ではない」ものかもしれず、それを支援するのは「平等ではない」から常にハローワークを通じて「賃労働」をさせる圧力をかけてそれでもどうしてもできないということであったら支援するという仕組みになっている。 これは「現実的」かつ「客観的」に判断できる基準として「妥当」なものなのかもしれないが、実際多くの人がそこからこぼれ落ちていることは言うまでもない。 この非常に曖昧かつある種の暴力性を孕んだ基準の結果、多くの人がおこぼれ落ちた結果「これは調子が悪いだけ」「これで会社に行かないのは甘え」「自分が弱い」と言う形で自分を責めて生きていく。運が良ければそのまま定年でいくことができるが、残念ながら定年まで行き着けないことが多い。 どうして病気が増えてしまうのか 最近病気が増えていると言われている。自殺者の多さが随分前から取り沙汰されていたが、最近ではブラック企業という言葉は全員が知るところだし、うつ病は風邪を引くようなノリで身近で発生しているし、先天的な要因が大きそうなADHDもどんどん増えてきている。 これはなぜかというと、先述の通り健康か不健康かと言うラインが使用者のみならず労働者にとっても「労働ができるか否か」によって決まり、労働者側は「労働」の内容を決める権限がないので労働の搾取構造が強化されたり労働の種類が時代とともに変化してあまり人間的ではないことをやらなくてはならないことになった時に、「労働ができない」状態に多くの人がなり、不健康となる。不健康な状態になった上で、制度上医師の診断を持ってしてあらゆる支援が行われるので「病気」になるのである。 日本には皆保険制度という素晴らしい制度がある。もちろん多くの問題点を抱えており、特に医者の残業時間は大変な問題である。が、医療へのアクセスという観点からすると本当にこれ以上の制度はない。だが、それに甘んじて行政及び使用者が医療に問題の皺寄せをしていいかというとそんなわけはない。 科学的で客観的で一貫性があるという合意形成がなされている「医師の診断」というものを今の日本社会は濫用しているのである。 「普通の仕事」ができない人を「医師の診断」というもので「科学的」な判断のもと「病気」にすることで社会の中から隔離して隔離した上で「みんな労働をしている」という平等性を前提として何かを飲み込んでいるのである。これは大変不健全な状況だ。 気分が落ち込むのは健康な証拠 毎日粉塵の中で作業していたので病気になりました 灼熱の高炉で12時間連続で作業していたら病気になりました 建物を解体していたらアスベストを吸って中皮腫になりました ケガ・事故といったわかりやすいものは産業革命以降市民が工場労働に従事する中で比較的早期に(といっても時間がかかったが)問題となり、それ以外のこういった中長期で影響が出てくるものも、法規制によって事業者に安全を守るためのコストを強制し、事業者側から見ても競争の範囲がから外してもらったうえで競争が行われてきた。 会社でパワハラを受けたので鬱病になりました お客さんから毎日暴言を受けたので仕事に行けなくなりました 毎月100時間残業していたら脳卒中になりました だが、こういったちょっとわかりにくいものに関しては今でも問題が起き続けている。使用者側からすれば「そんなこと気にしてたら仕事にならないよ」とか、「そんなのみんなやっていて当たり前。そんなんじゃ競合に勝てないよ」「この仕事にはそういったことがつきものだからね。昔はもっと酷かったんだよ」ということを言い続ける。言い続けることが許されている。なぜなら事故などと違ってみてわかる何かが起こっているわけではないからだ。そこでどうしたか。医療という現場で「病気」として判断してもらうことで目に見えるものに転換して対抗したのである。それはもちろん当事者たちの普段の努力によって勝ち取った権利のようなものであることは間違えがない。 しかしながらここまで書いてきたように病気というのは「仕事がもうできない」という結構致命的なところまで追い込まれて初めて成立するものとして取り扱われている。病気になってからでは遅いのだ。 パワハラを受けたので落ち込んで毎週お酒を飲んで発散して仕事になんとか行っています という状況は病気ではないとされている。「そんなことで落ち込んでしまう本人が弱いし、お酒に逃げている本人のせいで病気になっても誰も悪くない」となるだろう。しかしながらこれは大変危険な状態だ。 ちょっと引いてみてほしい。「パワハラで気分が落ち込む」のは健康な証拠ではないか。そしてそれになんとか対処しようとしてお酒を飲んで発散し、仕事に行く。健康な証拠じゃないかと思うだろう。だが、これを健康としていいのだろうか?落ち込むことがあって落ち込むのは確かに健康な証拠で、楽しいことがあった時に楽しいと思えることと表裏だ。だが、このまま続けたらこの人が鬱病やアルコール依存症になることは目に見えている。 これは長い歴史の中で今ではブルーカラーと呼ばれる人々が闘って勝ち取ってきた安全と比較すると、随分と危険な状態を放置しているのではないか。ビルの20階の高所作業でヘルメット安全帯なしに作業することをケガをしてないし事故もないから大丈夫といっているだけではないか。...

June 8, 2024

作家とギャラリーの関係性

Twitterでは作家とギャラリーの関係での問題が表沙汰になることがちらちら見える。 ざっくりいうと以下の問題が挙げられていることが多いと感じる ギャラリーが何もやってくれない のに30パーとか40パー取ってく 客は自分(作家)が連れてっても同じ料金取られる 値付けがおかしい ひどいことを言われた さて、私はギャラリストではないし作家と言えるほど作品の販売ができているわけではないのであくまで想像だが、想定されるコンフリクトとその対処について少し書いておこうと思う。 作品をどうしようか という議論をするという大前提 まず、作家側とギャラリー(をはじめとしたビジネス側)との間で前提が全く違うことがしばしば見える。特に広告代理店をやっている人たちは作家側の前提を踏みつけて議論してしまうことが多く、話が噛みあっていない様子をよく見る。広告を制作する際のコミュニケーションをそのまま作品の話でしてしまうのは大変作家に対して失礼だし、作家を傷つけることになる。 広告の制作現場においては作家は完成物のあくまで一要素で方向性や雰囲気を決定づける一要素に過ぎない。例えば白黒のポートレートがとても上手い写真家に缶コーヒーの広告写真を頼んだら白黒写真になることは決定づけられるが、缶コーヒーをどのぐらいの大きさで写すとか、ここは文字を置くので開けておいてください見たいな構図的要請も作家側は受け入れる必要があることが多い。むしろそういったさまざまな配慮を織り込んで撮影できることがプロフェッショナリズムとして讃えられることが多いだろう。 これと同じノリで作家の作品に口を出してしまう人があまりにも多い。白黒の写真家の作品に対してカラー写真にした方が売れるよと言ってみたり、演歌歌手に時代はYOASOBIだからもっとそれっぽい曲歌った方が売れるよと言ってみたり。口を出す方は普段口を出すことを仕事としているので、市場というものを分析した結果という客観的事実に基づいて発言をしているだけなので何の悪気もない。 だが、残念ながら作品というのは現象なのである。 作品および作家の活動は基本的には自然現象として捉える必要がある 誤解を恐れずに言えば作品作りというのは自然現象の一つだ。作家の生い立ちや置かれている状況、生まれ育った環境に住んでいる国の社会情勢、さまざまな因果関係がわからないインプットが結果としてアウトプットを産んでいるのだ。なので、作品は現象の結果生み出された結晶のようなもので、まさに奇跡が生んだものなのだ。 なので作家側からするとあらゆる選択の結果が作品には表れているのでこうした方がいいよと安易に言われても、ほとんどの場合はそんなこと考えた上でそうしていないんだ!ということになるし、選択した結果ではなくさまざまな外的要因から生まれた歪みみたいなものが作品に表れていることも多々あるので、必ずしも本人にコントローラブルなものではないのである。 そこに「こうしないと売れないよ」みたいな話をされてしまうと、こだわりに抵触した場合は怒ることになるし、どうしようもない部分を指摘された場合はしゅんとするだけである。 編集者と作家の関係性 ギャラリストと作家の関係性 なので、編集者はすごい仕事だなと日々思う。作家ごとの特性をわかっていて、直せる部分と直せない部分をまずちゃんと分解して言語化しているのだと思う。作家が置かれている境遇と売れているもののギャップを理解し、直せないところ・いいところを肯定しつつ直せる部分を指摘していくというのは並大抵の仕事ではない。分野によっても多分踏み込める量みたいなものがあって、漫画は商業でやっていくという言葉もちらほら聞くし編集者が修正する範囲が大きいのではないかと思う。 一方アート作品、特に作家が存命の現代アート作品とギャラリストの関係はむしろ気持ちいいぐらい他人にすることで関係性を保っているのではないかと感じている。最初に書いた不満で何もやってくれないというのは2つに分解できると思っていて 作品についてのアドバイスがもらえない 作品の販売について何もしてくれない の2つに分解でき、基本的には後者のことを言っていると思うのだが、前者の意味で言われてることもそれなりの割合あるんじゃないかと思う。ギャラリストは編集者ではないのでまず前者に関してはあまり期待しない方がいいのではないかと思う。 ギャラリストは良くも悪くも好き勝手作品について評論することで作品をお金に変換する装置みたいなもの。証券会社みたいなものだと思った方がいい感じがする。 「作家本人が望む望まないにかかわらず、作品を大金に変えてくる」ぐらいの他人さがすごく大切なんじゃないかと思う。なぜなら、作品を金銭的価値に変換することは本来不可能なことだからだ。 作品の価格について無関係でいられる幸せ 作家が売り上げをどの程度気にするべきかについてまだちゃんと因数分解できていないのでちょっと雑な書き方になってしまうが、作品の売り上げを気にしながら作品を作ることは私はこれからの時代必須というかそれが作家の活動の根幹に関わると思っているが、一般的にはあまりよしとされていない感じがする。特に現代アートでは尚更で、あれは大衆的だねと後ろ指を指される。作品が、食える食えないという極めて現実的な切迫した短期的問題で変質していることをあまりよしとしないのである。この辺りはまた別で書く。で、あるからに作家が作品の売価を意識しながら制作するなんてことはもってのほかなのだ。作品作りにのみ没頭しているというある種の清楚さが求められている。 で、ギャラリー側が作家と仲の悪い存在であれば、この金銭化の部分を作家の意思とは無関係であるという関係が築けるのだ。あいつが勝手に高くして売ってるけど、私は全く関与してません。もう少し踏み込んで言う人は金儲けはよく分かりませんと言うだろう。 度々ジブリを出してしまうが、まさに宮崎駿-高畑勲 と 鈴木敏夫 である。よくよくドキュメンタリーを見ると 高畑勲-宮崎駿-鈴木敏夫 の順で宮崎駿は映画として成立しているかどうかと言うこと(楽しんでみれるか)と言うことをよく気にしているのである種商業的ではあるのだが、興行の方法にまでは私は分かりませんと言うことで一切踏み込まない。映画祭とかも鈴木さんが勝手に申し込みしましたと言うばかり。さながら親が勝手に応募したアイドルオーディションである。でもそうやって他人さを入れることであらゆるものを守ることができるのである。 百貨店とか呉服屋とか。商人的な嫌われ役はもしかしたら沢山の文化を守っていたのかもしれない。 だがやはり、私は今すべて直販直営で、直接発信することが大事だと考えている。それについてまた今度因数分解しようと思う。

May 22, 2024