マネできるけどマネしない範囲のことを発信するということ

先日のポストで書いたが、(SNSで有名になる)SNSである程度知名度を上げたいと考えている。バズ狙いですか?と言わればそうっちゃそうなのだが、一応自分なりの作品をベースにSNSエディションを作っているという感覚でやっている。で、具体的にはInstagramのリール動画である程度知名度を築こうと考えている。そんな中でInstagramというメディアと向き合っていると、インフルエンサーというものとプロフェッショナリズムがなぜしばしば対立しているのかが見えてきた気がする。 インフルエンスするということは真似する人がたくさん出てくるということ Instagramで売れている人?というのはそれすなわちインフルエンサーと呼ばれることが多いと思う。YoutubeだとYoutuberと呼ばれるが、Instagramではインスタグラマーもあるのだが、より一段抽象度を上げてインフルエンサーと呼ばれることが多い。もちろんYoutubeでもインフルエンサーと呼ばれることもある。 インフルエンサーというのは、その人がやることと同じことをたくさんの人が行うことから、インフルエンサーという名付けになっている。 例えばスキンケアインフルエンサーであれば、その人が普段からおすすめのスキンケア方法を紹介していて、視聴者も同じことをやってみるということを繰り返す。それによってその人がスキンケア分野において実体験に基づいたトライアンドエラーを繰り返し、その様子をつぶさに発信・高頻度に行うことで一定の専門家的な信頼を獲得する。そこに対して企業は金銭を支払いおすすめしてもらう、もしくは優先的もしくは単独としてトライアンドエラーを行ってもらうという形で生計を得るというものだ。 カメラ系機材インフルエンサーだと、その機材のおすすめポイントを紹介しつつ、実際にその機材を使った写真作品や映像作品を投稿することで視聴者に同じような成果物を得たいと思わせ機材を販売するという形態が多い。 真似できないとインフルエンサーにならない ここでいうまでもないかもしれないが、スキンケア系であれ映像系であれなんであれ、視聴者が真似できないとこのインフルエンサーというのは成立しないことがわかる。「超絶技巧のテクニックでしか行えないまつげメイクは、「すごいねー」となって終わりだ。iPhoneに3000万円のリグとクレーンと30人の人員と1億年のセットを組んで動画を撮っても、そんだけすごい機材使えばそりゃすごいのできるでしょで終わりなのである。もちろんそれはプロフェッショナルの表現として素晴らしいものだし、可能性を広げていくということは尊い。そうなのだが、それはそれなのである。 技術的プロフェッショナルはお前にはできない を発信し続ける 技術的プロフェッショナルはプロフェッショナリズムを持ってとある特定の分野に対して高いプライドを持つ。私にしかできない、到達できない表現、技巧を発信する。仮にそれが作品ではなく受託を取るための技術紹介だったとしても、基本的には「あなたにはできないからぜひ私に依頼してください」と思ってもらうために発信を行う。そのため、根底に流れるメッセージとしては「お前にはできないだろ」というものになってくるのだ。映画館で流れてきたらすごいと思うだろうし、Youtubeでも何千万回の再生を獲得できるかもしれない。ただ、殊SNSという媒体の上では同業者うけは素晴らしいかもしれないが、一般的な共感は得にくいのだ。 インフルエンサーはあなたにもできるよを発信し続けるのでコンフリクトする インフルエンサーは真逆である。良くも悪くも誰でも真似できる範疇の中で実践を行うのだ。iPhoneフォトグラファーの写真は100万円のGFXの写真よりも劣るかもしれないが、同じiPhoneを持つひとが自分も取れるかもしれないというところにコンテンツとしての面白さがあるのである。プロから見ればこれは2つの意味でちょっと嫌なのだ。 技術レベルが低い・妥協の産物に見える プロはありとあらゆる手段を使って完成物のクオリティを極限まで高めることに人生を賭けている。特にエンジニア志向の強いプロフェッショナルであれば尚更である。写真だと例えば物撮りの世界とかはもう本当にありとあらゆる手段を使ってCGのような、だけれども本当に綺麗な質感まで伝える物撮りを実現している。 そんな中で物撮りやってみたみたいな動画が流れてくると、ものすごくレベルが低いことをやっている。そんな機材じゃ全然ダメだよってなるし、そんな一人でできるわけないだろってことも多い。そんなの学生のレベルよりも低いよとなる。カルチャースクールかよみたいな言葉も聞こえてくる。で、それだけならそれでいいのだが、インフルエンスして数字を持っていたりするとその人に撮影依頼が行ったり、物撮りといえばこの人みたいな一般的な知名度を獲得してしまい写真集が爆売れしたりするのだ。悔しい。きつい。 みんなできるよ!と言って欲しくない。(できてないから) 先ほどは物撮りと言ったが、ありとあらゆるもの全て「あなたにもできるよ」というメッセージを発信するのだ。だが、プロから見ればそれは「全然ダメ。できてない」な内容なのである。正確にいうとインフルエンサーが発信している内容というのは「自宅で一人で専門教育を受けないでも一括払いできる金額感の機材で あなたにもできるよ!」なのだが、そんな前提はいちいちつけない。もしあなたが受託の獲得を目的とした技術紹介をSNS上で行っていたときに、「あなたにもできるよ」というある意味でクオリティの低い映像が流れてきて、いいね10万件、コメントで褒めそやされていたらどう思うだろうか?「いや、これはできてないじゃん。全然ダメ。もっとこうしないと。素人には無理」となるだろう。人生をかけてその技術を見たいていたら尚更だ。誰も責めない。 このような構造で、相反するメッセージを同じ舞台で叫びあっているので不幸なコンフリクトが出てきてしまうのである。 いいねよりもブックマークの方に重きが置かれているアルゴリズム では、推薦アルゴリズム的な部分で「マネできる動画」と「超投資されてできた動画」どちらが重視されているかというと、私は前者のほうに有利に働くよう調整されているという仮説を持っているアルゴリズムが実際どうなっているのか中身を見ることはできないので、あくまで仮説だが、どうやらいいね数よりもブックマーク数が増えることのほうが重きが置かれている感じがしている。 公開した作品の数字を見ていると、再生数に対するいいね数の割合よりも、ブックマーク数の割合が高いほうがフォロワー外の方の再生数が伸びる傾向にある。 いいねと違いブックマークとは後でまた見返したい動画という意味になってくる。つまり、プラットフォーマーからすればリテンション施策になるのだ。誤解を恐れずに言えば面白かったりすごい動画よりも役に立つ動画が水生されるようになってきているということである。 HowTo動画と作品の間で ここまで書いたことをざっくりまとめると「How to 動画を撮ることがあらゆる面から考えて数字が伸びやすい」ということになる。ただ、じゃあ作家の作品としてそれでいいのか?いやよくないだろう。AIの分野は特にそうだが、あらゆるツールがものすごい速度で出てきては消え、進化していく時代、ツールをとりあえず試してその可能性を模索する仕事の必要性は増してきているように感じる。私のいる写真映像分野でもそれは同じで、特に現像方面で本当にあらゆるツールが出てきており、1年に一回のCP+やIinterbeeに行ったらもう1年では試しきれない量の気になる機材が出てきてしまう。なので機能を試しつつ可能性を語ったりとか、作例を作るということ自体の価値は年々増してきているように感じる。なのでそれはそれで一つのプロフェッショナリズムの形だと思う。私もジンバルとかフィルターとかすべてを借りて試してから買うことはできないのでよく見ている。 ただ、機材紹介動画を出したいのではなく、あくまで作品を作っている身としてはこのあたりのバランスをとる必要がある。なのでこの観点からしても先日書いた参加可能な機材を使い果たして、身体化しながら可能性を探っていく形がいいのではないかと考えている。マネできるけどマネしないことをやるという形だ。 このあたりの業務用機材とそこまでいかない機材、ブラックボックスな機材と道具として使える機材についての因数分解また別の機会に書こうと思う。 具体的に今のところ気にしているポイント 全体の方針としてはここまでのとおりであるとして、具体的に投稿内容でInstagramにそぐうようにするため気にしていることをまとめておこうと思う。私はSNSマーケティングの専門家ではないのでアルゴリズムについて捉えきれていない部分がまだ多いと思うが、少しずつ変えてみて比較してこうなんじゃないかという仮説はある。あくまで仮説なので間違っているかもしれない。 トレンドの音楽を使うことが必須 これは以前別のポストでも書いたのだが、トレンドの音楽を使うと再生数が100倍ぐらいになる。なので基本的にはリール動画は曲先で作っている。本当は好きな曲を使いたいのだが、それは知名度ブルジョワジーにのみ許された贅沢だ。 そもそもショート動画というのはほとんど曲を聴いている人が多い。Tiktokは明確にダンス動画という軸があったので曲先であることは分かりきっていたが、どうやらYoutubeShortやInstagramもダンスでなくても同じように曲先の方が良さそうだ。 動きが予想できる状態になったら飛ばされてしまうのでその前にカットを切り替える 基本的に1カット2、3秒ぐらいがいい。なぜなら、あーこのあとこうなるなというのが予見できた瞬間に長いと感じて飛ばされてしまうからだ。例えば机から塩を持ち上げて塩をかけるという映像があったとする。これは机の塩を持ち上げた時点で塩をかけることまでが予見できてしまうので塩を持ち上げたー塩をかけるまでに映像をフルで入れてしまうと冗長な動画としてその時点で飛ばされてしまうことが多い。なので、塩を持ち上げてかけるという要素が伝わる最低限。塩に手をかけたー塩の容器が浮き上がったの2秒、塩の容器が傾いて塩が出てくる直前から塩がかかるところ1.5秒 食べ物に塩がかかる1秒 といった感じで構成しないと飛ばされてしまう。 あまり早くカットを移動すると視聴者が理解する前に場面が切り替わってしまうのではないかと思うのだが、今やってる感じむしろその方がいい。1回目ではなんかちょっとわからなかったけど面白い→2回目をみてもらう という構成にした方が総再生時間もあがるしリピート回数も増えるので推薦アルゴリズム的にも有利である。 私の場合写真を撮ってその写真を出すという構成をすることがあるのだが、最初は3秒ぐらい写真を提示していたが今は1秒ぐらいにしているみたい人が2回目で一時停止してみてもらうぐらいの感覚で作った方が全体としてのエンゲージメント率は高い。 BeforeAfter動画は平均再生時間を効果的に伸ばせる メイキング映像があって、そのあとそのメイキングした結果が出るという動画を勝手にBeforeAfter動画と呼んでいる。通常上記のように予見可能な時点で飛ばされてしまうのだが、BeforeAfter動画は実際の結果を見たくなってしまうので、Beforeの部分結構引っ張ることができる。最初の5秒しか見てくれないかなあというのが普通の動画なのだが、BeforeAfter動画だと9秒ぐらいまで耐えてもらえる感覚がある。 コツはBeforeAfter系の動画で使われている音楽をそのまま使うことだ。基本的には再生スタート時点から10秒前後のところに転調がある音楽が使われている。BeforeAfter系の動画として視聴者は他の動画も見ているので、曲が流れ始めた瞬間にああこれはBeforeAFter系動画なんだなという文脈を共有できる。そうすればこっちのもので、Beforeの間は冗長でも結構見てもらえる。Afterはなんなら1秒2秒でもいいくらいだ。もちろんそのAfterであまりつまらないことを連発すると飽きられるので注意。 25fpsにする これは完全に私の動画限定の話だが、3Dスキャン動画は基本24fpsにしている。CG感が出過ぎてしまうと、単なるクオリティの低いCGに見えてしまうからだ。これはまた別の機会に改めて書くが、最近エモいと言われながら2000年前後のデジタルカメラでとることが流行っている。これはなぜかというとまずあまり精緻な映像を作られてしまうと脳が補完する余地が減り過ぎてしまうからだ。思い出の記録というものは脳が補完する余地を残し理想化することでいい写真になるのだ。その補完余地の確保とともに、ストリートで実物を取り込んでいるんですよということを伝えるためにFPSも落としている。アバター:ウェイ・オブ・ウォーターをIMAXで見た方ならわかると思うが、48fpsになった瞬間に途端にゲームっぽくなってしまうのだ。CG高フレームレートというのは今の所の我々にとってはゲームだなっていう印象を強めてしまう。そのうちあらゆるものの標準フレームレートが上がるにつれこの辺りは変わってくるかもしれない。 HFRについてはこの記事が詳しい。 https://av.watch.impress.co.jp/docs/topic/1461878.html 極力スマートフォンで完結させる これは今も悩んでいるところだ。先述の通りInstagramは基本的に「あなたにもできるよ!」というメッセージを発する場となっている。そのため、先日書いたアマチュアイズムとの境界線の問題もあるのだが、基本的にはスマートフォンで完結する表現でどこまでいけるかを試した方がいい感じがしている。 ここで500万のレーザースキャナを出したり、一眼レフで4万枚撮影して高域を50万のグラフィックボードで24時間処理してもちょっともうそれは違うものなのではないかという感じがしている。 ただ、クオリティは上げたい。この枷が適切な枷なのか、それとも重すぎる枷なのかは非常に悩みながら作っている今日この頃だ。

May 20, 2024

個人や小さな主体のアウトプットはクオリティが低いからダメなのか

久々にゲームを買った。インディーゲームだった。 子供の頃は結構ゲームをしていた。平成5年生まれ。人生で初めてのゲーム機はプレイステーション1だった。その後中学受験が本格化するまでの間Nintendo64、ゲームキューブでよく遊んだ。一番遊んだゲームは多分バンジョーとカズーイで、次がペーパーマリオRPGだと思う。どうぶつの森も結構やっていたとおもう。 ただ最近はゲーム実況を見ることはあるけれども、自分でゲームをすることは減ってしまった。ゼルダのブレスオブザワイルドは是非やってみたいやってみたいと思いつつも、なかなか手が出ない。ゲームは設計されたストレスを受けて、そのストレスを解消することで楽しい感覚を得るものだと思っているが、その適切に設計されたストレスを受ける余裕がないのだ。 めちゃくちゃ感情を表現しながらゲームをすることもないため、感情の起伏が激しい人のゲーム実況を見てその人と同じゲームをやって追体験することで楽しみを得る様になってしまっている。結構そういう人多いんじゃないか。 その追体験も大作ゲームの実況を全部見る気にもなれず、ましてや自分でもプレイする気持ちになれないのでだんだんとインディーゲームを見てやる様になってくる。最後にやったAAAはデスストランディングだ。 千円前後のインディーゲームは1日2日で全クリでき、グラフィクは簡素的なものか、UnrealEngineのどこかで見たことあるような写実的というかスキューモーフィズム感あるデザインのゲームが多い。なので、感覚としてはボードゲームを遊んでいる様な気分になる。これが結構色々なバリエーションがあって面白い。スマートフォンのハイパーカジュアルよりは中身も詰まっていて全クリの満足感がある。 小さな規模だとクオリティが低い? AAAに対してインディーゲームってクオリティが低いんでしょ?という問があったら、確かにある意味でのクオリティは低いだろう。ワールドは圧倒的に狭いし、キャラクターも荒削りなことが多い。シェーダーもオリジナルで書いてる物は少なく演出上もどこかで見たことある感じになる。操作感のチューニングも詰まっていないと言えばないのだろう。ただ、あらゆる工夫がされていて面白いと感じさせるものが結構多い。もちろんそれは先日書いたメタ的な面白み(いやーうまくやってるなーここの処理 とか、 いやーこうやって開発工数減らすのか)を感じてしまっているのではないかと言われればそうなのかもしれないが、普通にゲームとして印象に残るものが結構ある。それは単なる暇つぶしゲームではない。ゲーム作者の作家性みたいなものを感じることがある。 ゲームに限らず他分野でも個人や小規模がやるとクオリティが低いという話はよく聞く。 複数人の専門家がやるのではなく個人が複数のことをやるため技量が低い かけられている時間が1人*開発期間だけなのでクオリティが低い そもそもかけられる開発期間が法人と違って赤字を掘れないので短い (ゲームでは今ではあまりないが)使える設備に差が出てきて最終的なアウトプットのクオリティが低い しかしこれらが雑な解釈であることはこれだけインディーゲームの魅力が語られている今では説明の必要がないだろう。この辺り後日切り出してまた書くかもしれない。 ゲームデザインで制約事項をかわしていく 小島秀夫のインタビューで以下の様な言葉がある。 オープンワールドなのに人はほとんど出てこないでしょう? そこに開発コストを割かないためですよ。敵(ゲイザー)が目に見えないのもそうです。僕もアホじゃないので、豪華に見える部分とそうじゃない部分を企画段階からすべて計算して、100人弱のスタッフでもつくれる仕様にしているんです。 livedoor news 『日本に本物のクリエイターはいるのか? 小島秀夫監督が「作家性」にこだわる理由』 https://news.livedoor.com/article/detail/18332936/ 小島秀夫をはじめとして、初期のゲームはメモリの制約や処理能力の限界がかなり厳しく、ゲームデザインでその辺りを乗り切ってきたという話を至る所で聞くことができる。 MGSの話 敵兵二人にユーザーのキャラクターを表現するだけでスプライトが6個必要となる。これだと「弾丸を3発撃ったところでスプライトが限界になり,表示できなくなる。 ゲーム・デザインでカバーすることにした。弾が撃てないのであれば,弾を撃たないでゲームとして成立すればよい。 結果として生まれたのが,「敵の基地に潜入する」というコンセプトのゲームである。これが「ステルス・ゲーム」と呼ばれる新しいゲーム・ジャンルを切り開くことになった。 日経XTech 『【GDC】視点をずらして不可能の壁を乗り越える――「メタルギアソリッド」の小島氏』https://xtech.nikkei.com/dm/article/NEWS/20090327/167865/ Nintendoでもまさにそう言った制約とデザインで戦っている 岩田 だから、どうしたら少ないデータで、より豪華に見えるようにするかとか・・・。 中郷少ないデータで、どうすればたくさんの表現ができるかという、こういうことに力を注いでいたんですね。 Nintendo 社長が訊く「スーパーマリオ25周年」 https://www.nintendo.co.jp/n10/interview/mario25th/vol5/index4.html マリオの1-1面のコース設計について 3分18秒あたりからがすごい面白い 何かを作るときに、全く制約事項がないなんてことはない。それぞれがそれぞれの立ち位置で立ちはだかる現実と闘っているのだ。それは例えばメモリが30バイトしかないという制約かもしれないし、逆に1000人の開発メンバーを背負わなくてはならないという制約かもしれない。新しいPS5の処理能力を存分に活かし切らなくてはならないという話かもしれない。どちらにせよそのときに大切なのは「やりたいことをやるために考える」という姿勢だ。実現したい理想がるからこそ、制約事項が壁になる。一体誰がそれをやりたいのかわからない主体性のないプロジェクトでは制約事項という物は往々にして認知できないのだ。 やりたいことを、できる限りを尽くして表現し積み重ねていく。何度も繰り返す。 友人であるギレルモ・デル・トロ(※編注2)やニコラス・ウィンディング・レフン(※編注3)だってそうですよ。みんなもともとニッチな志向があり、やりたいことはインディーズにあった。でも、そういうコアな作品を一歩一歩積み重ねる過程でフォロワーが増えていき、あるときにブレイクしたんです。 livedoor news 『日本に本物のクリエイターはいるのか? 小島秀夫監督が「作家性」にこだわる理由』 https://news.livedoor.com/article/detail/18332936/ 岩田宮本さんがこれまでずっとつくりたいと思ってきた構造のゲームを今回実現できたと感じているんですよね。 宮本 ええ。『マリオ』を使ってマルチプレイを実現させたいとずっと思ってきましたし、長年の夢だったんです。今回は、それはできた感じがします。 Nintendo 『社長が訊く『NewスーパーマリオブラザーズWii』』https://www.nintendo.co.jp/wii/interview/smnj/vol1/index9.html クオリティという言葉は非常に抽象度の高い概念で、本当に広い意味を持つ。ときには非常に客観性を持つ指標として残酷な使われ方をしている。それは3Dプリンターで言うとFFF方式の造形精度が業務用機に対して劣っていると言う話かもしれない。表面のツルツル感・質感が射出成形に対して劣っているが故に安っぽいと言う話かもしれない。iPhoneでの3Dスキャンでは業務用のレーザースキャナに対してぐちゃぐちゃで見た目が汚いと言う話かもしれない。個人の作ったゲームは作り込みが甘くてちょっとイレギュラーなことをするとすぐに壁にめり込んでしまうと言う話かもしれない。撮影・照明さん・カラリスト・コンポジッたー・VFXとあらゆる分野に分かれてそれぞれの人がそれぞれの分野に一生を賭けて向き合っており、その分業から生まれる映像の方がクオリティは高い。 専門家を下げているわけではないし、小島秀夫のようにAAAタイトルでないとやりたいことができないということも全然ありで、無理に個人でやらなくては何かが欠けてしまうという話ではない。 それでも、個人の作るものが、小さな主体が人の心を動かすことがあるのは、ひとえにやりたいと思ったことをさまざまな現実に直面しながらも誠実に表現しようと立ち向かい膝を折らなかったその姿勢があるからである。 やりたいことというのも非常に抽象度が高い話で、日によって変わったりもする。今日は目前の写真の色合いについてやりたい色があるかと思えば、ときには人生の幸せであったり、人類の進歩にどう貢献するという話になるかもしれない。大切なのは身体を動かしながらどの抽象度に於いても誠実に向き合い、表現し続けることなのだ。

May 19, 2024

東京の再開発に思うところ

東京では今あちらこちらで再開発が行われている。基本的には3、4ブロックぐらいのところを全て潰して、その間に走っていた道路も無くして特大の超高層ビルを建て、1つの街区として再開発するような感じだ。 最近完成したものだと麻布台ヒルズがわかりやすいだろうか。もともと住宅街だったところを丸ごと買い上げて一つの商業施設にしたわけだ。少し前だと六本木ヒルズとか、恵比寿ガーデンプレイスとか。 都心のど真ん中でなくとも有名どころだと小岩が周りの商店街を全て無くしてビルやタワーマンションにしようとしている。 治安が良くなる ということ。安全になる ということ。 再開発は大きく分けて2つの場合がある。 工場などの跡地をまとめて開発する たくさんの細かい土地をまとめて一つにして開発する 特に最近増えているのは2つ目の開発のパターンだ。都内で1台、2台しか止められないコインパーキングを見たことはないだろうか?あれらは基本的には隣の建物がなくなって一帯として全体を開発できるようにするため何も建てずに待っているのである。 さて、この2つ目のパターンには多くの場合自治体が噛んでることが多い。これは主に2つの理由で自治体が噛んでくる そもそもそこに自治体が所有する土地があり、その土地と隣接部を一帯としてまとめて開発する 地域の防災・治安の向上・にぎわいの創出の観点から再開発を行う 特に東京では2つ目の圧力がものすごく強い。これらについて私が観測する範囲で起こっていることをまとめておく。 防災上の観点 地震が多い上に首都直下型地震は確実にやってくる。そのためにまず東京は幅員6m以上の太い道を通しその通り沿いの建物は地震が起きても道が塞がないように厳しい耐震基準で作られ、基本的にはビルになる。防災生活道路網という形で街の周囲も太い道で囲み、ダメージを小さくしようとしているのだ。さながら第3新東京市のようだ。 スカイツリーから木密地域(比較的古い木造住宅が密集している地域)とされる京島方向を眺めると太い大通りが一本街の真ん中を突き通すように通り、その通り沿いにビルが立ちそこから少しずつ開発が進んでいく様子が見て取れる。 この写真左側にある白い壁のような団地は白鬚東アパートという団地で、もともと関東大震災の際京島地区が木密地域であるが故に大火事が起きてしまい、隅田川に多くの人が飛び込んでたくさんの死者を出してしまった。その教訓をもとに防火壁として作られた特殊な団地なのだ。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%AC%9A%E6%9D%B1%E3%82%A2%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%88 命を救うために必要ですという話になると他の何ごととも比較衡量できない上、地震だと自分が生きているうちは大丈夫みたいな話もできないので用地取得に対し強固に反発できないのだ。築地はこの部分が一番効いて再開発になったとのことだ。 治安 この話もよく出てくる。小岩のケースでは一番出てきたのではないかと思う。詰まるところ、アーケードでもない小さな居酒屋や商店が集まってくるとそこにガールズバーの様な風営法で取り締まれない接客業が入り客引き行為が横行する。細かい路地などがそう言ったものを助長した結果“犯罪件数”が増えているので再開発で減らしましょうという話だ。 近年の特に東京都市部での治安維持というのは基本的には犯罪が起こる機会自体を未然に消滅させようという方向性で行われる。街の至る所に設置されている防犯カメラはもちろん犯罪が起こった時に迅速に捜査ができるという機能もあるが、名前の通り防犯という機能の方が大きく、防犯カメラがあるので犯罪をする機会が減る、期待値が減るということの方が設置意義としては強い。他にも私の近所の橋の下には昼間ではないかと思うぐらい煌々としたLED照明が多数設置されてきている。明るくしてしまって犯罪機会自体を消滅させようということだ。 これも防災と並び結構説得的で犯罪件数のような具体的な数字で他の地域での再開発の成果を主張してくるのだが、私はこれは懐疑的なというか危険な主張だと思っている。 まずそもそも治安という概念を犯罪件数みたいなので測っているのがよくない。治安という言葉を聞けばいい方がいいに決まってると思ってしがいがちだが、日本が過去に“治安”維持法という法律でいかにひどいことをしてきたかは全員が知るところだし、他の国でも治安という言葉の暴力性は明白だ。 では治安という言葉は少し抽象的すぎましたということで、刑法犯の減少を目指しますという話になるのだが、じゃあそれは犯罪をしたくなる様な街を潰して綺麗にして警備しましょうでいいのだろうか。いや、そうではないだろう。街を変えるのではなく、福祉的なアプローチで犯罪機会と向き合うべきである。人間の内的な犯罪欲求と、街自体が生む犯罪機会がありこの均衡点の移動で犯罪が起きたり起きなかったりするという話なのであれば、自治体はまず持って人の内的な犯罪欲求と向き合い対処すべきだ。なぜそこで街自体の変数を減らし監視を容易にすることで押さえつけようという暴力的な方向に行ってしまうのだろうか。 にぎわいの創出 この再開発の文脈におけるにぎわいの創出は主に2つの観点から実現可能であると主張されることが多い。 単位面積あたりの人口の増加でにぎわいの創出 すごく安直に言えばでっかいビルを建てて昼間人口を増やしかつ、でっかいタワーマンションを建てて人口自体を増やせばその下にある街はにぎわってくるに決まってるという話だ。 企業も誘致できれば法人住民税も入る。高層ビルを建てることで固定資産税も入る。ビルにすれば賃料も上がるので全体の単価も上昇するだろうという話。 人流を変化させることでにぎわいの創出 これは駅前開発じゃない時に語られることが多いが、今まで地域に人が来なかったところに、目玉となる商業施設をつくれば人がやってくるだろうという話だ。商業施設として広報し、そこに地域独自のお店を入れてあげれば地域産業の活性化にもつながりますと。これをやるとよく聞くイオンができて地元の商店街が閑古鳥みたいな話になりそうだが、先述の通り東京の場合駅前の商店街や住宅街を取り壊して再開発する場合が多いのでコンフリクトはそこまでない様な気もする。ない様な気もするが、最近の中野の駅前開発は地元商店会はどう思っているのかちょっと気になる。ショッピングモールじゃないから特に問題視してないのだろうか? さて、にぎわいの創出というのは本当にあらゆる場面で目にする。 https://project.nikkeibp.co.jp/atclppp/122100007/010900033/ しかしこれはまさに自治体や不動産会社の傲慢さが溢れ出ている概念だと思う。もうこの言葉はあらゆる場面で使っていて聞き飽きたかもしれないが、にぎわいの創出なんていうものも本当に小さなインクリメントを積み上げてやっとこさ出来上がるものなのだ。地域の人の生活を一旦引き剥がして大きなマンションを作り元の家より小さな面積で与え、設計されたプライバシーの守られた箱の中に閉じ込め部屋の外は全て不動産会社による管理が行われる。道端での小さな菜園や少し道路にはみ出た商売を許容することなく契約に基づき賃料半年分の保証金を払える業者にしか利用を許さないという形で一体何が地域のにぎわいの創出なのだろうか。 巨大なオフィスビルを建てて、路面には何の店舗もない。あるとすればコンビニエンスストアだけでどう地域が賑わうというのか。 いやいやもともとあったお店はビルの1階ー5階部分に入居していただきますというが、その上に30階分の自分達が一切立ち入ることが許されない巨大空間を置いておいて、それでいや地面は自分たちの街と言えるのだろうか?渋谷を歩いてそう言えるのか。言えないだろう。小さな店舗を壊してでかいビルを建ててもnone of my businessな空間がただただ広がっていくだけなのである。 人間の寿命より長いものを作ってしまう危うさ 大規模な再開発を行えば、もうそのビルは60年は壊すことができない。途中でどんなことがあっても引き返せず、値引きすることもできない。汐留の様になってしまうのだ。 人間の現役と呼べる期間を大雑把に20から60と仮定すると、40年間。それを超える期間のビルを建築してしまうということは、街の新陳代謝をなくしてしまう。街を有機物から無機物に変えてしまうということなのである。当然、開発業者側にも自治体関係者にも当時の開発者はいなくなる。住民側もその土地を故郷として意識する人は減ってくる。行き着く先はどの町に行ってもユニクロ無印マクドナルドにスターバックスの基本ルーティンに、ワールドかどっかが展開しているブランドのどれか。和光でとんかつを、日本一で焼き鳥を買ってかえるみたいな流れに収束していくだろう。 規模を大きく、期間を長くすることで街は個人私人から引き剥がされ、永遠の命を持つ法人のものへとなっていく。法人というもの、特に不動産関係の巨大な法人というものはもはや誰にもコントロールできないある種の意志を持った存在だ。社長がどうこうすることもできない。誰かの意思でどうにかすることもできない。AIができるずっと前からある人間を超越した意志を持った存在なのである。 そんな法人のものとなっていく東京が上記3つの合理的とされる理有で再開発されていくことが残念でならない。

May 19, 2024

資本に対して芸術・文化で対抗できるのか悩む

先日、東京都庭園美術館で開催されていた「開館40周年記念 旧朝香宮邸を読み解く A to Z」を見てきた。 東京都庭園美術館自体には何回か行ったことがあり、以前から建物自体が常設展、そこにその時催されている展示が特別展みたいな気持ちで見ていたので、建物自体に主眼を置いた展示はとても面白かった。 解説も充実していて、本当に贅沢な展示だった。 展示の詳細はほかの方に譲るが、本当にありとあらゆる建築家やデザイナー、家具、カタログから集められて作られている。 単なるコラージュではなく、この家のために作られたものが数多くある。 見ていて、あまりの資本的な豊かさにめまいがするほどだった。 芸術とパトロンシップは切っても切れない関係であることは有名な話で、それは芸術に限らず科学もそうだった。 当時は貴族、今回は皇族のある種のパトロンシップによってこの一つの家に様々な文化が集うことになった。 文化 という言葉の危うさ 文化とは何か という抽象度の問いを立てると収拾がつかなくなることは目に見えている。私も文化とは何かなんで全く自分なりにも言葉にできていないが、うっすらとした問題意識がある。 文化 と名の付くもので最も身近なのは伝統文化ではないか。 伝統文化という言葉で言うと例えば歌舞伎、能、落語、各種神事などがまず挙がるだろう。これらは日本の伝統文化ということで”歴史”に残すことは既定路線だ。 代々家業として伝統文化を支えている人々がいるし、その伝統文化を鑑賞する人たちも一定数いる。日本に限らず往々にして伝統文化は社会的な階層の上にいる人々に鑑賞され、文化を守るという言葉の元支えられる。 神事はちょっと毛色が違う感じもするが、例えば神事の中で派手な各地に残るお祭りは神社を通して祭りの役員が結果的には地主から選ばれることで強固な”地域”を作り出すことで神輿を担げる地元の人と、地元の人じゃない人を生み出すことから、構造的に社会階層を固定化および安定化させることに一役買っていることは明らかだろう。 もちろん私はその伝統文化が持つ美しさやそこを支える人々を指さしてあれは現代においては資本にまみれたものだから下品なものだというつもりはない。 十二単の色は間違えなく美しいと感じるし、歌舞伎は面白い。また、その分野にいる方々が様々な方法で基礎となる型を身体にしみこませた上で、素晴らしい新たなものを作り出していることも知っている。 ただ、既得権益の方向を向いて作られていることは間違えがないし、表現者側に参加する機会はあまり開かれていないことは間違えのないことだ。 歴史というものがどのように紡がれるかは最近だとガザ地区の問題や映画『オッペンハイマー』を見ればいかに暴力性をはらんだものであるか言うまでもない。 文化やアートというものの要素のうち少なくない割合が”歴史として残す”ということを志向している限り、この暴力性は免れないものである。 であるからにして、「資本に対抗する手段としての文化」というのはちゃんと文化側の因数分解を行ってから語らないと成立しないのだ。 資本が紡ぎだす文化と歴史 ストリートアートですら資本という大きな力に飲み込まれている。 目下、いわゆる「ストリートアート」は極めて表層的に消費されている。バンクシーやKAWSはSNS及びマーケット上にセレブリティとして君臨し、かつて有していたカウンターカルチャーとしての側面をもうほとんど持ち合わせていない。「反逆の神話」(ジョセフ・ヒース、アンドルー・ポター)と批判されかねない、肥大して陳腐化した「ストリート」的な〈イメージ〉に、私はあまり興味をそそられないでいる。 TokyoArtBeat 中島晴矢『ストリートとアート:「路地裏」から生まれる革新的な文化史 【シリーズ】〇〇とアート(2)』 https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/streetandart 売れていることを非難しているわけではない。売れている人を見つけ次第指さしてあれは大衆だなんていうのはもってのほかだ。そうではなく、あまりにも速度感が早く規模感が大きすぎてもうそれって違うものになってしまっていませんかという話なのだ。 あと、本人が望んでいるかどうかというのもまた別の話だ。バンクシーというブランド名のようなものは資本に屈したかもしれないが、バンクシーという作家自身が資本になり下がったという話ではない。なぜなら作品は作家の手を離れた瞬間に作家だけのものではなくなるからだ。そうではなく、作家の手を離れる時点、発表時点でのある種の純粋さみたいなものにたいして問題意識がある。 今回見た展示は建築という分野で建っている場所でこそ超一等地だが、作られたのは少し大きな家だ。なので、各作家が手に収まる範囲で神経が行き届いたものを作っているという信頼がある。 ただじゃあこれが麻布台ヒルズならどうか。大阪万博の大屋根だとどうなのかという話だ。もちろん各人が様々な現実と戦いに戦い抜いた結果の産物だとは思う。そうだとは思うのだが、その規模のものをある一作家が責任をもって隅々までハンドリングしましたというのはもはや傲慢だ。 もちろん大きなインパクトをもたらす作品を私も作りたい。社会全体に問いを立てるような作品にしたいし、歴史に残るようなものに仕上げたい。ただ、じゃあだからと言って単純に物理的に大きなものを作ればいいというものではないし、値段が高くなればいいというものでもないし、いくら予算がでかくても企業のロゴを張り付けてはだめなのだ。 繰り返すが値段が高いからダメだとか大きいからダメみたいな話をしたいわけではない。小規模にやれば自然と手に収まるでしょとも思っていない。 私が知ってるこのあたりの絶妙なバランスを作り出したのはジブリだ。徳間書店の徳間康快の独断によるパトロンシップから始まりスタジオが結成。。高畑功・宮崎駿という巨匠の下、映画という複製容易な表現手法の上で、映画館という100年以上かけて作られたディストリビューション、テレビという暴力を取り入れ、分業体制やあらゆる道具を作り出し十数年に渡るスタジオの構築という仕組みづくりをやってのけて『千と千尋の神隠し』では200人弱を率いて長編アニメーションを作るという偉業を達成した。ただ、それでもいわゆる企業の前提となるゴーイングコンサーンとは程遠い状態であることは皆さんが知るところだ。 1人の作家の手から生み出された”原理”みたいなものを小さなインクリメントを繰り返して少しずつ大きくしていくしかない。そこで一足飛びに資本の梃子を使って大きくしてもそれは単なる張りぼてなのだ。 にもかかわらず、現代において”文化”を標榜し始めると、途端に上品で優雅であり、余裕があり、商売的ではなく、寡黙で、政治的ではなく、習得に時間のかかる技術で作られ、師匠がいるか、もしくはどこかのコンテストやアカデミアに担保されている、一般的には有名ではないかもしれないが、その界隈では言わずと知れたものを指すことになってしまうのだ。なぜなら文化を標榜することは、それすなわち歴史に残す価値があるかどうかという話になってしまい、それを自分では判断できないし、ましてや主張し、高額な金額を正当化できないので、先ほど挙げたような何らかの客観性と一般性がありそうな価値評価軸を導入して飲み込むからだ。 じゃあ有名飲料メーカーが10億円投じて町中に張り出しテレビでのべ数千万回再生される映像を作ったほうがいやでも印象に残る。麻布台の住宅を薙ぎ払って個人にはどうすることもできない、何なら森ビルの社長でもどうすることもできない巨大な建物を建てれば歴史に残る。やってることが古墳と同じなのだ。 なので資本に対抗する手段としての”文化”や”芸術””アート”はもはや作家の安住の地ではないし、一歩間違えればインプットが豊かな資本的に豊かな作家しか表現側に回ることができないある種の加害者側に回ってしまう危険な言葉なのである。 参加可能な方法で表現するということ じゃあどうするよって話なんだが、逃げるようで悪いがタイトルにある通り悩んでいるのだ。今のところ(2024年5月18日現在)2つ軸を据えつつ面白いものを作ろうと奮闘している。 1つ目 容易に参加可能な機材で表現する まず1つ目は特殊な機材をなるべく使わないで映像表現をすることだ。いや、カメラを持ってる時点でもう豊かなのよと言われればそう。そもそもPC含めて持ってるものすべて量産効果があったから技術開発・生産が進んであなたの手にあるんですよねと言われたらそうなのだ。だからもうそれでアウトと言われればそうなのだが、私なりにピーキーな機材を使わないように努めている。今持っている機材の範囲で、とんでもない業務用機は使わない範囲のもので60回払いでぎりぎり買えるものの範囲で工夫して何とかいいものを生み出せないかもがいている。 3Dスキャンなんてカメラよりも青天井の世界で建築現場で使われる数百万の機材を使えばいくらでも精度を上げることができ、月々数万円のサブスクリプションの高級ソフトウェアを使えばテクスチャもメッシュもきれいに仕上がるだろう。ただ、それだとほとんどの人は表現者側に回ることができないし、僕自身も成果物がペイするかどうかというところに振り回されてしまうのである。もちろん私の成果物が何らかの形式で少なくとも1000万円では売れるでしょという状態になったら使ってみるのかもしれないが、もうそれはなんか別種のものだ。今手元に手に入り、できる限り多くの人が同じことをしようとしたとき機材面では何とかなる(とはいえiphoneももう十分高くて私も追いつけるかどうかわからないが)ところで表現を模索したいと思っている。 ただこれもある種の危うさをはらんでる話だとは思う。また別の機会に『クオリティと資本』という投稿をする予定で、そこで書くつもりだが、この機材面での妥協はある意味ではクオリティに対する妥協になりかねず、アマチュアイズムになってしまう可能性がある話なのだ。精度がいいほうがいいならそこはもうガット投資してクオリティを上げて面白いものを作れよという話なのかもしれない。僕の中ではイヤーそれは違うものなんだよねと思ってはいるのだが、iPhoneでの3Dスキャンが精度という価値評価軸においては雑なものになっているのも間違えない。別にそこに妥協しているって話ではなくて、さっきも書いたがそれはもう別物でしょってところなのだがこの辺りまだちゃんと言葉になっていない。もうそれはプロじゃないじゃんと言われたらそうなのかもしれない。 iPhoneでやってるなんて単なる”やってみた”じゃん。何なら技術に向き合ってないってことじゃんと言われそうだが、こう、ちょっと別種のものなんだ。 2つ目 SNSで有名になる これも賛否両論というか、否定的な意見のほうが多いと思うし、何なら1つ目よりもっと整理できていない部分なのだが、いま私はSNSに軸足を置いて基本的な知名度と評価を獲得してそこから少しずつ範囲を広げていこうと思っている。出すかもしれないしそっちで売れちゃったら謝るが、コンテストとかにはあまり積極的には出していない。 これは私がSNSというものが元来社会的階層や資本的な差と知名度が連動していたところに風穴をあけた革命だと思っているからだ。発信力・知名度というのは基本的には権威、地位、資本力と比例するものだった。もともとは教会や城のようなものを建て支配する者の発言が力を持っていたし、印刷が生み出されてからは輪転機を持つものに大きな力が生まれていた。そこにインターネットができてSNSができ、必ずしもそれらとは連動しない知名度の分布変化が起きたのだ。 もちろんこれは功罪あってしょうもないものが影響力を持ってしまうこともしばしばあるというかそのほうが多い。炎上というのはまさに発信力・影響力を得るために今までは様々なフィルターを経て洗練されたものしか得られなかったところにそうじゃない方法でその力が付与された結果生み出されたものだ。 ただ同時に、そういったエスタブリッシュメントに依拠することなく社会に影響を与えられる唯一といっていい手段だとも思っている。 以前は広告もそうなのではと思っていたが、考えてみれば資本の分布がこれほど偏ってしまった現代においては広告ももはやエスタブリッシュメント側だ。 SNSなんて下品な、ましてや15秒の縦動画なんて邪道Of邪道な方法で、そういったメディアでバイラルすることを志向してつくられた表現作品なんてゴミだという意見もすごくわかる。 すごくわかるのだが、民衆的な運動として知名度を獲得していくという前提が私にとってはとても大事なことで、そのために表現を曲げているといっても差し支えない。それほど草の根から広げることを重視しているのだ。 個人的に一番妥協しているのは動画につける曲だ。Instagramのリール動画はトレンドの曲を使う時とそうでないときで再生数が段違いだ。トレンドに乗っている曲がだめだという話ではないが、普段聞いていて雰囲気が合いそうな曲を使いたいところだが、それは知名度ブルジョワジーにのみ許された贅沢なのである。 民衆運動としての表現 そんなこんなで、豊かさから生み出されたものを見ながら、民衆運動としての表現をどうすればいいのかという話だった。この辺りはいろいろな人の話を聞いたり読んだりしながらまだ私が私の中だけで反芻しただけで、本当はもっと議論をしたい。ただ、本当にこの議論は難しいというか、議論するには共通認識が必要なのだ。 え、それって売れたくないってこと? え、それって投資しないってこと? え、それって同業者には共感を得るかもしれないけどメタ的な話で鑑賞者にとっていいものかどうかとは全く関係ない話だよね? え、で結局これって表現したいものがあってそのうえで課される制約条件の話で結局あなたがやりたい表現と理念次第なんだからこの部分単体で言語化しても意味なくない? え、それってFABの話? など、もういくらでも反論は出てくるし、おっしゃる通りです。だからより、悩ましい。理想を掲げて現実と闘っていくが、現実の作品は理想とは程遠いということを自覚してます。それでもやっぱり理想を掲げ運動とし、理念を少しずつこうやって抽象化・言語化しながら作品を作り、闘える現実の範囲を広げていきたい所存です。

May 18, 2024

コンセプトをどこまで語っていいのか問題

とある映像について、評論家が「ここはこういう工夫があって、こういうふうに撮っている。これはこういうことを表現している」ということを語った後、全く別の機会で撮影した本人が「その時電信柱が邪魔でこうするしかなかったんだよなあ」という話をした という話を聞いた。 作品には解釈の余地が残されている 上記のような話を聞いた人の多くは「これだから評論家は。好き勝手なこと言いやがって」と思うだろうが、それは間違いだ。 私の作品は主に写真だが、写真は現実から情報を減らして解釈余地を生み出す作業だと思っている。以前別ポストでも書いたが、現実から時間軸を切り離し、さらに被写界深度を深くしたり浅くしたり、パースをつけたりつけなかったりすることで情報を減らしていき、単なる街の風景にさまざまな視点が入り込む余地を生み出し作品と観覧者の間に自由を生み出す。その解釈余地に少し方向性をつけてみたり、広げたり狭めたりするのが作品作りの大事な作業だと思っている。 なので、解釈余地を残しているのだから好き勝手言っていいというか、言って欲しいのである。他作品を引用したり今の社会を言語化しつつ作品の解釈を与えてもらえるのは本当にありがたい話だ。そして、あらゆる人が好き勝手言ってくれることで作品は作家の手を旅立ち公共性を獲得していくのだ。 余談だが動画は写真よりも解釈余地を狭めるものだと思っている。なぜなら時間軸をつけて視線をある程度カメラワークという形で強制するからだ。 非言語表現でどの程度言語化していいのか 先述の通り作品には解釈余地がある というよりもなくてはならないので、では作家がどこまで言語化を行っていいのかという話だ。最初に書いた例のように実際に撮った人が全くそんなこと意図してませんでした!と言ってしまったらもうそれが模範解答になってしまう。そこに解釈を挟み込むことはできなくはないが結構難しい。作った本人の言葉は強く重い。あらゆる解釈を焼き払う力を持っている。最近Twitterで作家本人が評論家の評論に対して引用リポストする形で公然と非難するのをたまに見るが、一体そんな解釈余地を狭めて何がしたいのかと思う。 コンセプトを語る必要はある かと言ってじゃあ何も言わないでいいのか。作品について何の言葉もつけずスゥッと写真を差し出して黙っているべきなのか。それもちょっと不親切しやすぎませんかという感じがする。最初に出した例はちょっと極端な話で、あそこまで具体的なカメラワークについて語らないにせよ、どういう思いで作りました どういうコンセプトで作りましたという話はしたほうがいいのではないかと思う。理想的には評論家と対話するのが一番なのではないかと思う。評論家の人に一つの解釈を持ってきてもらって、それをベースに対話を行なって解釈を広げていく方向の話ができるのではないか。 ただ、それが難しいのもわかる。今、評論家の数はあまりにも少ない。SNSの広がりによって解釈を与えないで驚くだけの人は増えてきているが、一つの解釈と呼べる言葉を生み出してくれる人は本当に減ってきている。さらにこれは私個人の問題だが、私は美術大学に行ったわけでもなく映像系の学部にいたわけでもないのでいわゆるエスタブリッシュメントな評価軸に乗っかって評価をしてもらえる機会というのはこれから先もほぼないだろう。ありていな言い方をすればSNSを通じてある程度売れなくてはならないのである。 SNSを通じて自力である程度の知名度を確立しなくてはいけないとなった時、自分から語らないというのは不可能というか、もうそれって傲慢だよねって言われそうである。 沈黙は金、寡黙に作品を作り続けたいと思わなくもないのであるが、そういう時代ではないというかそういう形でマスコミュニケーションすることはもうできないと感じる今日この頃だ。 作品自体 以外で語るのは野暮なのか POV動画というものを最近ずっと作っている。ざっくり言うと撮影者が撮影している様子を写して、そのあと写した結果を出すという動画だ。以下は私のアカウントで一番再生してもらえてる東京メトロ竹橋駅を3Dスキャンしている様子の動画だ。 この投稿をInstagramで見る Taro Ohtani(@taroohtani)がシェアした投稿 メタ的面白さ というのは結構NGとされているというか、あんまり好かれてないように感じる。 実際上の動画も感想として これは実質iPhoneの宣伝動画? アプリの宣伝動画?ハウツー動画? という感想をもらっている。 つまり、作品で面白さを訴えかけるべきかつ、作品(今回の場合は3Dスキャンした成果物)で面白さを表現しきるべきところ、 そうではなくPOVという形でメタい部分をあえて表に出して面白さを表現しているのでそれはルール違反というかちょっと王道じゃない話だ。 その気持ちはすごくわかる。 作品で伝えるべきところを作品自体でないところで補強していくのはオタク的な楽しみ方であるという話。私もついつい映画を見ていて「あーこのカメラの使い方うまいなー、ライトもいい」とか思ってしまうが、それは同業者の視点であって、そういうメタ的ところをいくら工夫して強調し、パンフレットのインタビューで語っても社会を突き動かすことはない。もちろん作品作りというのはそういった至極具体的な小さなことを積み上げて結果的に素晴らしい作品ができるものと理解しているが、最初からそのメタ的なことをベラベラ語っていいものなのかどうか大変悩ましい。 ましてや繰り返しになるが写真・映像という非言語表現なのにも関わらず、キャプションに長文を書いて補強していいのか。それを自分で書いていっていいのか大変悩ましいところだ。 コンセプチュアルアートとファインアート、SNSの狭間を彷徨う こんな話はファインアートの世の中からコンセプチュアルアートが生まれた時に散々議論・言語化されてきている話なのだろう。私はまだその辺りの文献を読めていないので、少しずつ読んでいこうと思う。自分が思う技術的な面白さをどうコンセプトに落とし込めるのか。私の場合ストリートフォトグラフィの文脈で街を3Dスキャンしているが、写真自体の絵的な美しさを精度が悪いという形で捨てることになっているがそこにどう向き合うべきなのか。高価な機材を購入してスキャンの精度を上げていけばいい話ではないが、全く画質を気にしていないわけでもないし、どこが落とし所なのか。SNSのしかも15秒の縦動画というフォーマットからどうやってコンセプトを伝えられるのか。エスタブリッシュメントな写真映像の流れに挑戦ができるのか。ストリートビューで定期的に全ての街の風景が記録される中で、何を撮って何を訴えかけたいのか。 SNSや作品のキャプションとして発信するかどうかはともかく、どちらにせよその辺りは自分の中では言語化しておく必要があるのではないかと思う。また、とりあえずこのブログには好き勝手書いていこうと思っている。場の空気を自分でコントロールできる・下手におすすめとかで拡散されない場所を作る。好き勝手いう。そのために自分のサーバーでブログを作ったのだ。

May 17, 2024

映像の実存性

どの程度後処理するかをこの1か月ずっと悩みながら作っている。加工すればするほど創作性は出るのかもしれないが、どんどん現実から離れていき単なるクオリティの低いCGになってしまう。かといって写実性を高めればいいわけでもない。即興性、実存性、創作性との距離感がまだわからない。 映像はどこまでも空想を描けるがどこまでも虚構になる。コンピュータやセンサーの進化、分業化と専業化によって資本を投下し続ければどこまでも写実的になることができるが、行きつく先に立ちはだかるのは現実の物理現象という豊かな情報量と、人間の目と脳という高性能なセンサーとレンダラである。 写真では街の光景を被写界深度を深くしたり浅くしたり、パースを付けたりつけなかったりしつつ時間軸を外し切り取ることで、現実よりも情報を整理・減らして創作性と受け手の解釈の余地を生み出してきたが、時間軸が乗って視線を強制する動画や3Dスキャンではどうもまだしっくり来ていない。 映像は印刷であったり映写機などの装置、映画館といった仕組みによって実存性を獲得し、存在感を得たり説得力を得たり様々な形で質量を得てきたが、現在ではほぼほぼスマートフォンでみられるだけになってくる。そんな中でどう質量を持たせられるのか。何らかの上映装置を作る必要性を薄々と感じている。 ただ、映像の中で という縛りが必要な感じもしている。領域を踏み越えたり閉じこもったりを繰り返していく。どこに自分が軸足を置きたいのか探っている。

May 16, 2024

Hugoでyaml設定で作成したけどtomlをyamlにしきれてなかった

PaperModというテーマを使っている。ドキュメントに従ってサイト作成時にはYamlのフォーマットにしていた https://github.com/adityatelange/hugo-PaperMod だが、ポストの先頭部分のオプションはtomlになっていたのでarchetypes default.mdを書き換えてyamlにしたつもりだった。 hugo serverでエラーを吐いてしまう よく見たら+++で囲まれていて、—で囲まなければならなかった。凡ミス。

May 16, 2024

ブログを再開した

今まで幾度となくブログを作っては閉じてきた。今まで挫折した理由とか、なんでまた始めたのかを書いておきたいと思う。 ブログ遍歴 ブログというよりもネット上に文章を後悔しようというモチベーションは結構節目節目にやってくる。理由はいろいろあるのだが主なのは2つで 〇年前にもうそれ思いついてた!といいたい 当時思っていたことを見返しながら今を考えたい の二つである。2つと書いているけれどもこれは実質同じことで、結局過去のある時点でこんなことを考えていたということの証跡を残したいのである。 個人的にはTwitterがそれにはベストで、日付も残る、編集できない(最近できるようになったけれども履歴は残る)、管理がいらないという最高の環境だったが、最近どうなってしまっているかはご存じのとおりである。 また、たまに長い文章を書きたい気持ちになったときにツイッターでスレッドを連ねて書くことはなんか気が引ける。 インターネットの情報は残らない そんなこと最初からわかってるじゃんといわれそうだが、結局外部のサービスに、しかも無料のサービス(有料でも怪しいが)に長く残したいと思うものを置くのは得策ではない。 Petit.ccというサービスに写真をためていたが、Petit.ccごとなくなってしまった。各サービスそれなりのエクスポートサービスは用意してくれるが、結局いろいろやり直し。 もしかしたら、ブログというのはそういうものなのかもしれない。そうやって式年遷宮を繰り返して新しい技術を学んでいくのが一番なのかもしれない。が、最初に書いた通り過去に書いたことをそれなりの期間たった後に見返すのが目的なので、なるべく軽率な方法でかけて、なるべく低コストで残っていってほしい。 デジタルデータは本当に残らない。今まで写真は同時プリントという形でフイルムの現像時にL判サイズに印刷するのが常だったが、デジタルになってからは印刷する人なんてほとんどいないだろう。 これはもちろん、写真の重みや役割に変化が生じたということもでかい。写真は以前よりずっと気軽に撮られるようになった。フイルム代や現像代もかからないし、スマートフォンという常に持ち歩いているものに高性能なカメラが搭載されている。 そうやって枚数が増えたことにより印刷しきれなくなってくる。見返して写真を選定するというのは本当に大変なことなので(ある写真館の人が写真屋の仕事は写真を捨てることと言っていたぐらい大変)それは行えない。結果的に印刷されることはなくなっていく。 実際ここ10年で撮影された写真がどのぐらい残っているのか気になる。スマートフォンが壊れた時に大体消えて行ってしまっているのではないか。 私の場合賃貸に住んでいるので印刷したところで残せるかどうかはわからない。家賃が払えなくなった時点で終わりだろう。スペース的にも厳しいものがある。 そんなこともあってか、Mixiのみてねというサービスは大人気である。子供の写真は残したいからクラウドに家賃を払って保管してもらう。すごく自然なことだ。 じゃあ文章もということで最初Wordpressのブログを始めたのだが、DBエラーで見れなくなってしまった。今なら復旧できるかもしれないが、残念ながら当時DBエラーを解消する技術力はなく、そのまま消えてしまった。 Wordpress自体もいろいろ変更があって結構うんざりという感じだった。 じゃあ自分でやるよりは安定しそうなブログサービスにするかということでNoteを少し始めたのだが、あそこはちょっとソワソワする。心理的安全性がないのだ。 プラットフォーム自体の心理的安全性 Noteは清書感が強すぎてなかなか書き出しずらい。Note自身がそういうイメージを持ってもらう場所としてブランディング・広報され、エディタまでこだわって作っているのだからそういう場所なのだ。 ソーシャルメディアというのは常にだんだん投稿しにくくなるという構造を持っている。利用者数が増えるにつれ、だんだんとクオリティの高い投稿が流れてくるようになり、投稿しにくくなってくる。投稿が清書になってくる。 こんなこと投稿して大丈夫かな。。。炎上しないかな。。。フォロワー減らないかな といった様々な投稿しにくい理由が増えてくる。 なのでみんなあるところから24時間で消えるストーリー的な機能を搭載するようになるのだ。 それでも有名人はだんだん投稿しにくくなってきて、”本音”を有料のファンクラブ内で発言するようになる。 私の場合別に誰も見てないし何言っても影響力ないのだが、それでもやっぱりなんかそれなりのコストを払って見に来る人が見る場所に言語化したことは置きたいと思ってしまった。のでこのブログを作っている。 10年残すことの難しさ 少し話がそれたが、プラットフォームに乗るためには先述の場が持つ雰囲気や心理的安全性、ノーコストで投稿を見られることに対する抵抗などに加え、現状のTwitter(X)のように根本からひっくり返されてしまうことが多い。 じゃあ自前ってなるとメンテナンスのミスなどで全部消えそう。 そこで、DBを使わない形で静的にページを生成するという条件でいろいろ検討して、今回Hugoでブログを作ることにした。これなら元データも残るし、Hugo自体が使われなくなっても記事データはMarkdownファイルとして残っているので比較的移動しやすいと思っている。 そのうえ、できる限りサーバー代がかからないようにしたいと思い、CloudFlarePagesでホスティングすることにした。画像をどのぐらい追加するかによるが、無料で済むと思う。結局ここで月に10ドルぐらいの家賃がかかってしまうとどこかで存続できないタイミングが出てきてしまうのではないかと思う。 というわけで、ブログを再開した。デザインは少しずつカスタマイズしていきますのでよろしくお願いします。

May 16, 2024