作品のクオリティと合理的な消費行動の残酷さ

私たちは日々クオリティを気にしている。クオリティというとなんというか、ちょっと業界用語みたいなものでそれぞれの業界で意味が変わってきてしまうと思う。ただ、どの業界でもみんなクオリティを気にしてものを作るなりサービスをするなりしているし、消費者は常にそのクオリティと価格が見合っているか、他の商品と比べてクオリティがどうなのかを気にし続けている。あらゆる比較を行って納得した上で合理的な選択だという自分への説得を経てお金を支払う。 合理的な消費 さて、ペルソナを作るわけじゃないがAさんの生活を例に取り、どのように“合理的”な判断の下消費を行なっているのかを振り返ってみよう。 朝コーヒーを買う。コーヒーを買うのはいつものスターバックスだ。スターバックスのコーヒーは一見高いように見えるのだが、グランデサイズを頼んでるので結構な量がある。しかも2杯目が130円でのむことができるのだ。朝は職場近くのスターバックスにより持ち帰りでGrandeサイズのホットコーヒーを飲み、仕事終わりに家の近くで資格の勉強をするために3時間ぐらいいる。スキルアップもできるしコーヒーは美味しいしですごいコスパがいい。 昼ごはん、今日はコンビニでパスタサラダと期間限定のビリヤニを食べる。食後はプロテインを飲む。全部で1500円ぐらいするけれども、これも健康のためだ。期間限定のカレーもお弁当としては量が少ない割には高いけれども、なんとあのいつも行列で有名な新宿⚪︎×の監修だ。SNSでよく見かけてて行きたかったけど2時間街は流石に辛い。なかなかいけなかったあのお店の味が食べられる上、輸入のバスティカ米を使っていて本格的だ。お店の味とどのぐらい同じかわからないけどきっとセブンだしカレーって煮物だし焼き物とかと違ってほぼ同じなんじゃないかな!いやー美味しかったなあ 会議ではこの前買ったAppleWatchの新機能をクライアントに聞かれた。今までのAppleWatchと違って今回はUltraを買ったから大きくてぱっと見で新しく出たものだというのがわかるだろう。やっぱ高かったけどこうやって会話のネタになるしUltraにしてよかったな。それにいわゆる高級時計のほうがいいって先輩は言っていたけれども、そういうちょっと成金っぽいというか、高いやつはあまり良くないなと思う。その点AppleWatch Ultraは10万ちょっとだし、最新機能満載ですごく便利。心拍も常に測れるし心電図も測れる。高精度なジャイロセンサーで運動量とかも具に記録できるし、なんと40mまでの防水機能で水深まではかれちゃう。何よりバッテリーが今までの倍以上持つから毎日充電しなくても済むようになったのはでかい。スイカも入るしチタン製で高級感もあるしもはやこれは安いんじゃないかな。 夕飯買いに行くついでにこの前プライムデーで買ったテレビの台をニトリに買いに行かないと。本当はあまりものを買いたくないんだよね。家具とかも必要最低限でいい。ミニマリストってわけじゃないけど、テレビ台で良いものかっても別に何か機能的に変わるわけじゃないし、別に誰かを家に呼ぶわけでもないしね。ニトリならすごく安いから気に入らなくなったらまた買い換えればいいし。高いの買っちゃうと家に置いてなんか違うなってなっても捨てられなくなっちゃうし。家具はほとんどニトリだよ。 ついでにスタンダードプロダクツによっていこう。スタンダードプロダクツってのは最近ダイソーがだした無印みたいなブランド?シリーズで100円じゃないけれども300円ですごいデザイナーズっぽい雑貨が買えるすごいいいお店。無印はなんか高いしこっちで十分(enough)だよね。 ちょっと荷物が増えちゃったからタクシーで帰ろうかな。こういう時車があると便利なのかなと思うけれども毎日使うわけでもないのに駐車場代だったり車検、税金でコンスタントにお金がかかるものを持つのはちょっと無駄が多いなって感じちゃうな。実質サブスクが増えちゃうようなもんだし。それだったらMaaSの時代でもシェアした方がいいよね。スポーツカーとかもなんかちょっと浪費って感じだよね。そういうちょっと見栄なところにお金をかけるなら日々の生活に少し贅沢をするとかおいしいものをたまに食べるとか旅行で自分の気分をチャージする方がいいんじゃないかと思う。下手に郊外に住んで車が必須になっちゃうぐらいなら、その分家賃にかけて都心に住んだ方が環境とかそういうの含めて無駄がなくていいんじゃないかな。 週末、だんだんと寒くなってきたし久々に私服を買いに行こうと思う。普段はユニクロかZozoで買ってるけど、今日は二子玉のアークテリクスに行く。最近はアウトドア系の服を買うことが多い。いわゆるブランド物と違ってこっちはちゃんと機能性が重視されていて耐久性もあって長く使えるからだ。特にゴアテックスは最高だね。アークテリクスの派手な色じゃなければリュックも含めて仕事で使っても全然問題ない感じで、仕事の道具と考えれば全然安い。派手さはないけれどもそぎ落とされたデザインがすごいかっこいいし何年も使えていいよね。いろいろ買うんじゃなくてこういういいものを1つだけ買って長く使うって感じがいいと思う。 アウターも買ったし少し資格の勉強をするために蔦屋家電店のスタバに行く。その途中でバルミューダの試食会をやっていた。最新機種のトースターは今までよりもさらにおいしく食パンが焼けるらしい。いやーこれはいいかもしれない。毎日使うものだし、朝これだけおいしいトーストが焼けてエシレバターまでいかないでもいつもよりちょっといい塩分多めのバターをつけて食べたらすごく気分が上がるんじゃないか。下手にどっかのカフェによってモーニングとか頼むよりも全然安いし。しかも新機能でリベイク機能っていうのがついていて総菜パンとかもいい感じにおいしく温められるみたい。会社帰り近所のパン屋でいつもタイムセールをしてる。買ったことなかったけどあれを買って次の日これで温めて食べるのもありじゃないかなあ。しかも前の機種より安い。Paidyが使えるから月5000円だし全然元取りながら払えるなあ。これは買いだな。 さて、一度家に帰って荷物を置いて今日は飲みに行く。普段お酒は飲まないようにしてるんだけど毎週土曜日はリフレッシュでちょっとだけいいお酒を飲むに行くことにしてるんだ。今日は地元のといってもここに引っ越してきたのは5年前なんだけど、地元にある和食ワインバーに行く。今週のワインは何かな。3種類で3500円のテイスティングセットを飲むのがいつもの楽しみ。この前こっちに来た友達を連れて行った時も楽しかったな。あとここは和食に力を入れてることもあってその時仕入れた全国の名産品を使ったおつまみがおいしいんだ。今週は何だろう。。。生ガキだ!生でも食べてもいいしグラタンもカキフライも調理方法は選べるみたいだ。いやあ、でもいつもよりちょっと高いなあ。4産地2づつピースセットで3800円。でも生ガキだからあまり安いのを安いお店で食べるのも怖いし、広島、岡山、宮城に岩手と食べ比べができるみたい。こんなに一気にいろいろなところ実際には行けないしどれか行くにしても交通費とか考えれば全然安いしここは食べちゃおう。うーん岩手県のこれすごい気に行ったな。今度ふるさと納税でもしようかな。ふるさと納税?毎年やってるよ。お得って感じでもないけどね。いやあなんかもちろん制度のゆがみとかなんとかいろいろあるみたいだけどさすがにあの金額ただ税金払うのとそうじゃないのとだったらやらないってことはないでしょう。お会計はお会計は9500円。いやあちょっと行っちゃったな。でもまあリモートが増えて飲み会に平日行くわけでもないしこれぐらい全然安いよね。 隅々まで行き届いたマーケティング ある種の合理性を見てきた。人の消費行動なので銀行の投資のような経済的合理性のようなものではなく、いろいろな価値観の入り混じった合理性を作り出す。予想どおりに不合理な点も含めた合理性だ。この「今回の消費は合理的だな」と消費者本人に納得させるためにあの手この手を尽くすのがマーケティングだ。 原始的なところだと消費者がハンバーガーを食べたいと思ったときにまず最初に思い出す店名になることを第一想起を取るといって、それをとるために広告を打ったりする。広告が効果があるかどうかはアンケート調査(時々YoutubeとかFacebookで出てくるのもこれ)を行ったりして推定広告想起リフトという指数で測りながら広告を調整したりする。 ほしいな と思ったけれども“今欲しい!”と思わせるために「期間限定でセール実施中!」と言ったりして今買うことを正当化したりする。 高いな と思ったとしても、いやいやこんな機能があるんですよ。こんなに耐久性がすごいし、なんとあの有名な〇〇プロが使っています!と言ってみたり、表参道や銀座のど真ん中にでかい店舗を立ててドアマンを配置したりしちゃったりして、こんなに高級品なんだ。。。リセールもすごいし、、、ステータス、、、とかいろいろやって合理性を作り出す。 安物は買いたくないな と思ってる人がいたらすかさず「これはブランド品ではありません。無地です。いいものを作るところに投資してます」と言ったりして納得感を醸成する。無地の白い服を買わせたらその横でカレーを販売して買い替えを促す(嘘) 情報を広告や店舗などを使って提供するのでは飽き足らず、雑誌やワイドショーなどの媒体を使って価値観自体を変えてくる。この辺りはファッションに関する様々な論考を見ればわかりやすいのではないかと思う。 表現の世界まで踏み込んでくる合理性と市場経済 ちょっとマーケティングの話になってしまい、広告自体への批判も書きたいところではあるのだがそれは別の機会にして、今回書きたいのは品質、クオリティという考え方にあらゆる作り手が支配されてませんか?という問題提起である。 先述の通り人々は常に消費を行うとき、その消費が合理的であるかどうか考える癖がついてしまっている。 となると、当然、いわゆるアート作品を買うとき、作家の作品を買うときにも合理性があるかどうかを癖で考えざる追えないのだ。 例えば工芸的な花瓶があったとする。Aさんは工芸品など買わなさそうだが、仮に買うかどうか判断を迫られたらどう思うだろうか。 この作家さんはこの前テレビで見たな え あの有名な賞を取ってるのか 六本木のど真ん中のこんなところで展示されてるんだしさぞかしすごいんだろう いやー作るのにすごい時間がかかって年間50個しか生産できないらしい メイキング動画を見たけれども、本当に超絶技巧だった。こんなの機械を使わずに手作業でやってるなんてすごい! すごいクオリティだ。見たことないほどきれい。さすが職人の手作業 これはもはや資産かも こんな感じじゃなかろうか。ここまではなんとなく想像つくと思うが、これ、作り手もここまでではないにせよ、ある種の誠実さのためにクオリティに支配されてるのではないかと私は思っている。 これ20万かなあ どうだろう。まあでもいろいろ工夫したし作るのに相当時間かけてるしこんなもんかな。 かなりこの部分は気合を入れてつくってるし、これ作るにはあれもこれもそれもこれも習得してなきゃ無理だしやってる人いないと思うな この部分の色を出すのに3年ぐらい研究してるしなあ それを考えれば 別に原価から計算するわけじゃないけどこれぐらいの時間と材料かかってるしこのぐらいは全然とってもいいのでは いやあでも100万はないな。ちょっと取りすぎな感じする。他の作家さんもこのぐらいだし倍どころか5倍なんてちょっとね。 自分だったらいくらなら買うかなあ。でも100万はないな。 うーん 100万で売るならもっとこうしてこうしてこうするかなあ。今回使わなかった素材も100万なら使えるし 作品というものに”合理的”な価格を付けるのは不可能である。なぜなら同等品というものが本来であれば存在しないからだ。だけれどもなぜか作家側も普段は消費者なので値段をつけるときに消費者的発想で価格を付けるようになってしまう。買ってもらう人に対し一定の納得、一定の合理性を与えるためにいろいろ説明を付け加えてしまうのだ。 そういった合理性を伴わせないといけない気がするというのは市場経済であったり資本が生んだ価値観であったり、競争原理が生んでいる歪んだものであるにもかかわらず、消費者として教育され続けている我々はかなり意識しないと非合理的なものを生み出せないし、それらを切り抜けてせっかく生み出した尊い作品であったとしても最後の最後で価格を付ける瞬間に合理性のゆがみを乗っけてしまう。 そして何が厄介かというと、こういった歪んだ価値観や合理性のことを作家も消費者も”誠実さ”と呼んでいるところが一番厄介なところである。 つまるところ、価格に見合ったものを出すのが良心的であり、誠実さである。クオリティに責任を持つのが作家の責任である。そこに向き合うことが誠実さであるという。だが、どうだろうか?ここでいう価格に見合うとかクオリティというのはその大部分が「お金をかけて量産した方が有利」になるというとんでもなく資本家に有利な価値観に染まっていないだろうか? もちろんそうじゃない部分も沢山ある。作品とは誠実に向き合うべきである。しかしながら、何か歪んだ誠実さを持ってしまってはいないだろうか。いや、持たされてしまってはいないだろうか。 私は『東京有機』という本を作ったが(https://tokyomorph.theshop.jp/)、これを作るにあたって品質という部分、クオリティという点で本当に悩みつくした。つくせてはいない。まだ悩んでいる。 お金と時間をかければよくなる部分は企業・資本に負け続ける 『東京有機』はキンコーズのセルフコピー機やコンビニで印刷することを前提に作っている。いろいろ調べて、最初はそれこそ少し借り入れを覚悟してオフセット印刷しようかとか、そこまでいかないでもHPのIndigoという印刷機を持っている印刷所にデジタルオフセット印刷を頼めば比較的少部数でも液体トナーを使っているのでオフセットレベルのクオリティが出せるとかいろいろ悩んだ。せっかくだし色にこだわって色見本印刷してくれるところを探そうとか、銀座に行けばそういった対応をしてくれるところもあるらしいとか、東京にはいろいろな選択肢、お金を払ってお願いできるサービスが本当に無数にあった。 しかし、そうやって自分にはできないことをお願いしてやってもらって完成度をあげていく、クオリティをあげていくというのはどうなんだろうか。どこまでそれをやればいいのだろうかといろいろ試すうちに思うようになった。できる限り自分でやるというのは改めて言うと当たり前なのだが、なんだかそれではいけない気もする。 それではいけないと思うのは、自分の力だけではクオリティが低いものになるという前提があるからだ。 写真に関してはいいものが取れていると思うが、例えばグラフィックデザインとか、本の装丁とかはやったこともない。写真の配置とかもプロがやればもっと本っぽくなるのかなと思ったりもする。 自分の力 というのは自分ができる作業という意味以外にも自分で扱える機材の範囲という意味も含まれてくる。自分が取り扱えるのはせいぜい家庭用プリンターの一番いいやつぐらいで、オフセット印刷機を買って扱うことはできない。無線綴じ製本機を仮に購入してもきれいに生産することは難しいだろう。 こうなったときに当然出てくるのは「外注」と「借入」だ。自分ではでかい印刷機は取り扱えない。だけれどもラクスルで5万円ほど払えばオフセット印刷で印刷してもらえる。8万ぐらい払えば無線綴じにしてもらえる。さらにこだわって表紙をもっといい紙にしたいと思ったら印刷所に頼めば家庭用の機械では絶対印刷できない分厚い紙に印刷してもらえる。ハードカバーにすれば見栄えもいいだろう。シュリンクで包装した方がいいかもしれない。 だけれども、そういったことをやっていくと当然ながら一冊当たりの価格はどんどん上がっていく。どんどん上がっていくので、たくさん印刷して量産効果を効かせて一冊当たりの価格を下げていきましょうという話になる。結果、2000部、5000部印刷して在庫しましょうということになる。そして待っているのは500万であったり1000万ぐらいの支払いである。一冊当たりの値段は下がっていても、総額としてはどんどん大きくなっていく。そうなると商業出版、出版社に拾ってもらえないと出版できないという形になってくる。もちろんここで突っ張って自費出版で支払うというのもSNSで作家が直接発信する時代ではあり得る選択肢になってくると思う。そうなると借り入れが発生する。 借入するにせよ出版社に払ってもらうにせよ、結果的にここでその本は2000部なり5000部売れないとまずいものとなる。(損益分岐点はもう少ししたかも?)ということは2000部なり5000部売れそうなものを仕上げないといけないとなる。一般的に売られている写真集を見る。それと比べる。値段も比べる。写真を見る。表紙の紙を見る。本文の紙は最高級の紙でこれを使うにはあと300万円必要になる。こういった比較を無数に行い、自分にできる範囲を見定めていくことになる。それに合わせて内容を何とかできないか変えていく。これはいわゆるデザインという作業なのかもしれない。売るために売れそうな構図でとるようになるかもしれないし、売れそうな流行りの色に合わせた編集を行うかもしれない。なぜなら2000部売らなければならないからだ。そうやって売るためにいろいろやっていくことになる。 この時作品を多くの人に届けるためにということで手を加えていくのだが、”作品”は素直な純粋のもので、手を加えているのはクオリティをあげるためで売るためではなく、完成した作品を宣伝するときにあらゆる手段を尽くす(SNS,Youtube,書店での出展)と分けて考えるので作品に影響はないと思いがちだ。だが、影響がないわけないというのが私の考えだ。 結局のここで無意識に誠実であればあるほど意識してしまうクオリティ、価格に見合ったものを出すという精神は明らかに市場性にゆがめられたものになる。出版社を介していたら言うまでもないし、自費でやってもその歪みから免れることはできない。 結局のところ自分から外に出し、産業からの手を借りれば借りるほどお金というものを最初に積む必要が出てきて、そのお金を調達したり自分で無理したりして捻出することになる。資金の調達能力というのは企業のほうが圧倒的に有利というか、100パーセント勝ち目がない。100パーセントととかいうのは詐欺かバカしかいないが、今回は間違えなく100パーセントだ。大きな出版社であれば時価総額2000億とか3000億とかいう規模を持っている。人の人生700人を振り回しながら、人が一生稼いで得られる収入の1000倍近い金額を毎年得ているのだ。勝てるわけがない。 別に勝ち負けではないし、勝つ必要もないのではあるが、そこの土俵にちょっとでも乗っかってしまったら終わりだ。終わりなのだが、日々クオリティの高いエンターテイメントとしての作品に触れ続けている私たちはどうしてもクオリティをあげたいと思わざるを得ない。だが、その先に待っているのは市場のゆがみを一身に受けた作品だ。仮に作品には波及させまいと頑張っても結果として個人が金銭的な不安定さというあおりを食うことになる。一体それはいつまで続くのだろうか。 仮に作品の販売と制作費用がバランスしていたとしてもそれは両足が地に着いたバランスではない。つま先片足立ちでお皿を4枚回しながらバランスしていますという状態である。そんな状態で“クオリティ”を担保するのが誠実さなのだろうか。それがプロとしての、作家としての受けるべき試練なのだろうか。私はそうは思わない。 地代がかかる限り限界が来る そこで今度は自家印刷・自家製本という話になってくる。つまり、工場までいかないでも工房を作り、その工房にできる限り廉価な産業レベルまでいかない印刷機なりなんなりを購入して本を作ろうという話だ。私も上記のことを考え自分が手を動かせる範囲でやりきろうと思い、その中でもなるべくいいものをということでCanonのプロフェッショナル向けのインクジェットプリンターを買おうかとか、そこまでいかないでもEpsonのもう少し安いやつを買おうかと検討していた。裁断機もこのぐらいの値段ならなんとか買えるかなと思いいくつか実際に触ってみたりしていた。...

July 28, 2024

京島共同凸工所の本『京島の十月』が素晴らしかった

東京の墨田区、スカイツリーの北東方面に「京島」という地域がある。この場所に今からちょうど1年前ぐらいの2023年7月1日に京島共同凸工所という工作所が大学の先輩である淺野義弘さんによって開かれた。(運営は 淺野義弘+暇と梅爺株式会社 https://kyojima-totsu.studio.site/ ) 単純に工作をする工房としても使えるし、3Dプリンターやレーザーカッターをはじめとしたデジタル工作機械の講習を受け、レンタルすることもできる工房だ。 そして先日2024年6月1日に淺野さんが工房とともに京島で過ごした日々を綴った『京島の十月』が出版された。 出版記念イベントでお話を伺い、本を読ませていただいた。 書籍「京島の十月」 https://kyojima-totsu.stores.jp/items/665c3585e4567c1b41e30f54 私は短い期間だが2015年ごろから京都でシェア工房を運営していたので、その当時のFabやメイカーズムーブメントの空気感を私なりの視点から言語化しつつ、今回の『京島の十月』、京島共同凸工所を通して得た私の感想を書き留めておこうと思う。 FabとFabLab、ファブスペース、メイカーズ まず最初に京島共同凸工所ができるまでの流れの前提となるFab,FabLab,メイカーズムーブメントの源流について書いていこうと思う。 Fab ここでいうFabとは、当時米国マサチューセッツ工科大学(MIT)のmit media lab 内にあった Center for Bits and Atoms の所長である Neil Gershenfeld氏が提唱した、ものづくりに関する運動のことを指している。 『Fab パーソナルコンピュータからパーソナルファブリケーションへ』 https://www.ohmsha.co.jp/book/9784873115887/ Fabという概念自体は非常に抽象的で広範な概念で、良くも悪くもこのFabを各人が自分の持っている技能やポジションに合わせて解釈して使われているというのが実態で、Fabとはという話をすると十人十色の答えが返ってくる。私なりの言葉で短くまとめると、Fabは「ものづくり」というものが家内制手工業から問屋制手工業、工場制手工業、工場制機械工業と変遷していくにつれ大量生産が前提となり、人々から資本家・市場経済の世界に奪われ不自由になってしまったので、それをインターネット・地域・デジタルファブリケーション機器を使い再び手元でものをつくるという自由を取り戻そうという運動の総称であると捉えている。 中世前期は家内制手工業という形で、あらゆる日用品や仕事に使う農具、衣類などは自給自足の形で家庭内で作られていた。それが中世後期にかけて都市の発達に伴い交易が始まり、市場経済が拡大した。品質を維持したり技術を継承するためにギルド制が発達する。その後流通量が増えてゆきより組織的な生産が必要となる。商人が広範な地域を一括して流通管理・生産過程を管理し品質や納期を統制し始め、さらなる効率化を目指し商人が作業場を用意。そこに人を集めて生産を行うようになる。その後産業革命を機に蒸気機関による機械化が進み、工場制機械工業へと変遷してゆく。 この過程でものづくりの仕事は細分化が進んでゆく。工業化による生産技術の進歩により職人一人で10台以上の機織り機を操ることができるようになったり、何トンもの力を生み出す工作機械を使うことにより様々な素材を取り扱うことができるようになった。結果として日用品は手工業品から工業製品(機械製品)に移り変わり、手で作ることはできないものとなった。第二次産業革命以降石油化学の発達により1862年にはセルロイド、1907年にベークライトが。それ以降も様々な合成樹脂が開発されてからは射出成型など大規模な生産設備が前提となり工場自体もグローバリゼーションの流れのもと身近な町工場が消え、世界中のどこかにある超大規模な工業団地に集約された。 *2017年6月5日MITメディアラボ内で開催さ入れたThe DgigitalFactoryにて講演するNeil氏 このようにして身近にあるほぼすべてのものは頑張って手元で作ろうとしても作ることが不可能なものとなり、ものは買わなければ手に入らないものとなった。一方ものに対し、情報はインターネットの普及に伴い今までよりもずっと誰もが安価にありとあらゆる情報にアクセスできるようになった。Wikipediaをはじめとした独立した、もしくは公的な機関があらゆる情報を電子化し検索可能にして公開していく。あらゆる技能を持った個人がブログという形でその知識を公開しGoogoleが検索可能にしていく。さらにパーソナルコンピューターという形で1人1台の端末を持ちそのうえであらゆる情報処理を行える。方法はソフトウェアという形で共有され、シェアウェアとともに多くのオープンソースソフトウェアが生まれていった。 この情報の自由のようにものづくりも、パーソナルファブリケーションという形であらゆるものを作る道具が普及し、作り方がインターネットを通じて公開され、オープンソースソフトウェアを介してノウハウも共有されていくような形になればすでに市場経済から脱することができている(近年のAIは怪しい)情報と同じようにものづくりも自由を手に入れ、自給自足可能になるのではないかというのがFabの思想であり、Fabという運動だ。 そのFabの理念を体現していたのがNeil Gershenfeld氏自身がMITで1998年から行っていた授業が「How To Make (Almost) Anything」である。 MIT OpenCourseWare How To Make (Almost) Anything https://ocw.mit.edu/courses/mas-863-how-to-make-almost-anything-fall-2002/ これは先述のデジタルファブリケーション機器だけではなく様々な工場ではなくガレージで使える規模かんの工作機械を作って、樹脂製品から刺繍、鋳造から電子基板までいわゆる「ガジェット」であればどんなものでも作ることができるように1ターム(3ヶ月)でなるという授業である。Fabの理念を体現している授業で、この授業を通して自分がものを作れる自信を獲得することができる。この授業で生まれたプロトタイプをベースにクラウドファンディングで資金調達して生まれたのが有名なSLA3DプリンターメーカーであるFormlabsであるし、日本でFabを先導した田中浩也教授もこの授業の卒業生である。 田中浩也教授による詳細な体験記が残されている https://fab.sfc.keio.ac.jp/howto2010/ Fab Lab さらにFabの理念を体現しているのが2002年に作られたのが「FabLab」である。非常に具体的にFabLabとは何かが定義されている。 *FabLab大宰府 2022年3月訪問 FabLab Japan Networkのホームページが詳しいのでみていただきたい http://fablabjapan.org/whatsfablab/ ものづくりを人々の手に取り戻すためには3つのことが必要で、それは「Learn」「Share」「Make」が必要で、それの拠点としてFabLabというものを定義して世界中に共通のコンテクスト・共通の機材を持った拠点を広げていこうという話だ。 先述の通り情報の世界、コンピューターのパーソナル化の過程で起こったことを踏襲するべくそのために必要な環境を整備しようとしている 機材を共通化することで実行環境を統一する - 実行環境が統一されているので得られたノウハウを共有することができる デジタルファブリケーション機器によって遠隔地でも再現できる - FabLabで作られたものは世界中どこのFALabでも同じものを作ることができる FabLabに集まる様々な工業的製造業に携わる人から得られたノウハウを展開しやすい マニュアルが共通化できるので教育の効率が飛躍的に上がる WindowsとかMacみたいな基盤となるOSを作ろうとしているのだ。...

June 12, 2024

労働市場の歪みを医療に押し付けていると言う話

首を怪我して3週間 5月17日、いろいろあって首を痛めてしまった。レントゲンを撮ってもらった限りでは骨折はしていないようだが、右手と左手中指に違和感があり、今はだいぶマシになったがタイピングで誤字がすごく増えてしまうぐらい影響が出て、今でも続いている。MRIの結果が来週出るらしいが、仮に出たとしてもよほどでない限り保存療法、つまりそのままにして様子を見るという形になりそうである。 私は整形外科の治療に対しては不信感と言ったら失礼だが、ちょっと一般的な感覚とのズレを感じる。もちろん専門家では全くない私の方が感覚として間違っているのだが、ちょっと愚痴みたいなことを書かせてほしい。 首だけに限らず、以前腰を痛めたことがあった。腰を痛めた際も骨折はしていないので様子を見ますということで湿布やくと鎮痛剤が処方されて、様子見になった。状態はどんどん悪くなっていき、ついには寝ることができないぐらいになってしまった。病院に行くと、鎮痛剤を増やすという形になった。それをしばらく繰り返すことになった。 結果的には今でも腰痛は度々起こってしまっている。椅子が悪いのかもしれないし、ベッドが悪いのかもしれないし、歩き方が悪いのかもしれないがもう原因はわからない。いわゆる慢性的になってしまっているという状況だ。鎮痛剤・湿布では炎症を抑える効果はあるかもしれないが、私が望んでいるのは対処療法ではなくもっと構造的な問題を改善するというところだった。私が と書いたがみんなそうだろう。病院に行けば治してもらえると期待していくのだ。 もちろん病院は全知全能の神ではないし、治療が難しいものがたくさんあるのは百も承知だ。ただ、眠れないとか今回で言うと指の動きが以前と全く異なってしまうと言う状況、さらにカメラを持ち歩くこともできない、iPadぐらいしか入れていないリュックサックを背負うこともできなくなってしまうような状況になっていますと言う状態で、鎮痛剤と湿布のみで1ヶ月間耐えてくださいと言うのはなかなかに大変なことだ。職種によっては1ヶ月何もできなくなってもおかしくない。そのぐらい骨と筋肉というのは長いタイムスパンで見ないといけないものなのかもしれないが、かなり辛い。そして、治るかどうかもわからないという話だった。 これもわからないということを伝えるのは専門家にとって大切な仕事だ。専門家でもわからないことがあるのは十二分に承知しているし、そもそもMRIの画像が出てこないとどうしようもないというのはわかっている。一生後遺症として残る可能性がありますというのもわかる。わかるのだが、それはそれで事実として受け止めるのが辛い。(あたりまえ) 腰の時はMRIの結果が出てももしかしたらこのあたりの神経が触れてるかもしれませんね で終わりだった。結局生まれつきの骨格みたいなものがあって、それの上にさまざまな生活習慣がかさなった結果出てきているものなので対処療法をするしかないということだ。でもじゃああと30年40年鎮痛剤を飲み続けるのか?ロキソニンテープを貼り続けるのか?と当時は思ってしまった。結果的にその後腰痛は気にならなくなったが、今でも数ヶ月に一回痛くなって湿布を貼っている。治らないのか。 どうやらそのような話は結構普遍的な話のようで、腰が痛い、膝が痛いで行っても湿布と鎮痛剤だけで終わり全く直らないで5年通ってますみたいな話はザラなようだ。 で、結果どうなっているか。整骨院が氾濫しているのである。 何も別に私は東洋医学は全く効果がない!というつもりはない。ただ、整体に関しても以前行っみた3箇所はともに毎週来てくださいと言われて1箇所に関しては3年ぐらい通っていたが、付き合っていくしかないねーというスタンスである。たまに姿勢矯正みたいなことをやっているところがあって、3ヶ月ほど受けてみたが特に効果は感じなかった。 これは保険医療という制度に私が毒されているだけかもしれないし、父が膵癌亡くなった時に標準治療以外の治療がわんさとやってきてうんざりしていたトラウマのようなものも影響していると思うのだが、そんな治療があるのだったら病院でやってるよね?という疑問が常に付き纏ってうっすらとした不信感が募っていかなくなってしまった。 しかし、今回腰痛のようなじんわり生まれてきたものではなく明確に物理的な衝撃が加わって首を怪我した。にも関わらず、腰痛と同じようにぼんやりとした治療が続いている。直らないのかもしれない。 直らないとしたらこれは私の人生にとっては相当な打撃である。まず登山リュックなんてのはもってのほかになる。ミラーレスカメラを首からかけることももしかしたら叶わないのかもしれない。キャリーバッグにすればいいと言ってもじゃあそれを10km20km引きずっていけるのか。交換レンズを持つこともかなり強く制約されるだろう。紙の本はもう長時間読めないのかもしれない。 こう言った言葉が現在の不安から“大袈裟”なものになってしまっているとは思う。とは思うのだが、結局病院で一切の見通しを伝えてもらえないので悪い方に考えてしまうのだ。悪い方に考えるのが悪いという話かもしれないが、1ヶ月間何もできなかったという事実からそう思っても仕方ないんじゃないかと思ってしまう。 つきあっていく という表現 痛みと付き合っていくとか、病気と付き合っていくみたいな話は子供の頃からよく耳に入る言葉だった。父が非アルコール性の脂肪肝でもう20年近く薬を飲み続けていたからだ。祖母も常に湿布薬の匂いを漂わせていた。そうやってみんな意外と何か不健康と言われることを抱えながら生きているのかもしれない。ただ、30歳の現在でそんなことが起こってしまうとじゃ後何年付き合っていけばいいんですか?と思ってしまう。それはもっとひどい人がいるのよって言われるのかもしれないし、医者からすれば大したことないと言われるかもしれないが、長時間座れないとか長時間歩けないみたいな制約が突如突きつけられて明日から一生そうですというのはなかなかに辛い話だ。 同時に私は“薬”というものを飲めば解決するというものではないということを知っている。薬というのはもちろん効く時もあるのだが体というものがそこまで一定のものではないので、体の変化に合わせて薬の効果も増減するのである。健常者であっても あー今日は調子がいいな 今日は調子が悪いな という日があると思うのだが、薬を飲んでいるとその振れ幅が増幅され、あー今日は動けるな あー今日は何もできないな みたいな感じになってくるのである。 毎日湿布を貼ればいいじゃん 毎日鎮痛剤を飲めばいいじゃん というのもごもっともなのかもしれないが、それはすなわち体調のボラティリティをかなり大きくする行為になる。 いつ病院に行くのか 私は病院との距離感が相当近い人間であることを自覚している。それは日本の保険医療制度のおかげで安くいけるというのも大きいと思うし、実家の目の前に小児科がありことあるごとに連れていかれていたという習慣のようなものが染み付いているのかもしれない。なので、友人が病院にいこっかなーみたいな話をしているといつも驚く。そんなひどい状況でよく7日間も放っておいたね、その上で病院行くかどうか悩んでいるってどういうこと?と驚くことが多い。 昨今社会保障費の増大が問題となってきており、自己負担額を上げたり大きな病院に自己判断で行く場合は加算料金が取られたりするようになっている。セルフメディケーション税制が整備されて市販薬で対応できる範囲を広げようとの動きがあるが、だとするとじゃあ健康という状態がどの程度のものなのかというのを教えて欲しいと思う。 私は今回病院に行ったが、多分だが首が痛くて両手に違和感がある 程度では病院に行かない人も結構いるのだろう。血が出ているとか、明らかに腕が変な方向に曲がっているとか、発熱が一週間続いているみたいなこと以外では多くの人は病院にも行かないし市販薬も買わないようだ。つまり、多くの人にとってこの私の今の状況は健康ではあるが一時的に調子が悪い部分がある程度の認識なのだろう。一方私は神経質なので?もしこれで後遺症がずっと残ったらどうしようとか、首がヘルニアになってて固定しないとものすごい悪くなってしまうのではないかとかを考えてしまう。そのあたりの問題の分解=デバッグをしてもらうために病院に行く。病院に行くと診断がつく。薬が出るので健康ではないという状態になる。 こうなってくると、調子が悪いだけ と 健康ではない病気の状態である という境界はどんどん曖昧になってくる。調子が悪いというのはあらゆることで起こりうるので、これを全て病気と捉えてしまうと健康だと言える日はどんどん少なくなってくる。常に何らかの薬を服用する状態になってくる。私は子供の頃からこの病院にいくを繰り返し行ってきた結果、健康であるという自覚がある日がどんどん減っていき今ではほとんどない状態になってしまっているような感じがする。 もちろんそれは腰痛のような薄ら長く続く疾患を抱えているからというのが大きいのだが、それにしても元気ですと胸を張って言える日が少ないというのは何か間違った健康観を持ってしまっていると言わざるを得ない。言わざるを得ないのでそのような歪んだ健康観を持っている人が何度も病院に来るというのは病院側からすればうんざりだろう。申し訳ない。 だがしかし、私からすると私なりの健康状態があって、そこから外れ始めた時、それがさらに増悪していくものなのかそれとも治っていくものなのかの判断を専門家ではない自分自身では診断できないので病院に診断してもらうしかないというわけだ。 1番の問題は、そういう意識で行っているはずなのに今回の整形のように特に問題ないですねー つまり、「単なる不調で健康の範囲内です」と言われると不満が出てきてしまうという私の精神状態というか考え方が相当拗れていて修正が必要だ。 だが同時にそうやって初期症状を見逃して父が死んでいる(見逃してなかったとして生きれたかは別問題)ので、何かあったら病院に行っといた方がいい感じもするし、なかなか難しいところである。 じゃあ多くの人が思う健康・不健康ラインは? そこでまた周りに目を向けてみる。どういう時に病院最近いった?という話を聞いてみたり、こういう状況だったらどうする?みたいな話をしていると浮かび上がってくるのは「仕事ができるかできないか」というラインである。 確かに今回私はカメラを握る・持ち運ぶことができなくなってしまったので仕事ができなくなっている。できなくなっているので結果的にここまで不安が大きくなっているのかもしれない。一般的な病院に行くラインとして賃労働ができる状態ができない状態かというのは当たり前というか1番妥当な判断ラインなのかもしれない。 行政の健康不健康の判断もそのように感じる。健常者というものと障碍者を分けているのは「賃労働において特別な配慮が必要か否か」というところで線引きがなされている。特別な配慮が必要そうであればそれを支援するし、特別な配慮が要らなくなれば支援はなくなる。この支援というのはまず第一には「賃労働」ができてるのかどうかをみて判断されるものであって、その人が「日常的に困っているかどうか」ということでは判断されていない。 なぜなら「日常的に困るかどうか」というのは主観的なもので、そこまでいっていないがちょっとネットの言説を借りるようでよくないが「サボっている」とか「大した程度ではない」ものかもしれず、それを支援するのは「平等ではない」から常にハローワークを通じて「賃労働」をさせる圧力をかけてそれでもどうしてもできないということであったら支援するという仕組みになっている。 これは「現実的」かつ「客観的」に判断できる基準として「妥当」なものなのかもしれないが、実際多くの人がそこからこぼれ落ちていることは言うまでもない。 この非常に曖昧かつある種の暴力性を孕んだ基準の結果、多くの人がおこぼれ落ちた結果「これは調子が悪いだけ」「これで会社に行かないのは甘え」「自分が弱い」と言う形で自分を責めて生きていく。運が良ければそのまま定年でいくことができるが、残念ながら定年まで行き着けないことが多い。 どうして病気が増えてしまうのか 最近病気が増えていると言われている。自殺者の多さが随分前から取り沙汰されていたが、最近ではブラック企業という言葉は全員が知るところだし、うつ病は風邪を引くようなノリで身近で発生しているし、先天的な要因が大きそうなADHDもどんどん増えてきている。 これはなぜかというと、先述の通り健康か不健康かと言うラインが使用者のみならず労働者にとっても「労働ができるか否か」によって決まり、労働者側は「労働」の内容を決める権限がないので労働の搾取構造が強化されたり労働の種類が時代とともに変化してあまり人間的ではないことをやらなくてはならないことになった時に、「労働ができない」状態に多くの人がなり、不健康となる。不健康な状態になった上で、制度上医師の診断を持ってしてあらゆる支援が行われるので「病気」になるのである。 日本には皆保険制度という素晴らしい制度がある。もちろん多くの問題点を抱えており、特に医者の残業時間は大変な問題である。が、医療へのアクセスという観点からすると本当にこれ以上の制度はない。だが、それに甘んじて行政及び使用者が医療に問題の皺寄せをしていいかというとそんなわけはない。 科学的で客観的で一貫性があるという合意形成がなされている「医師の診断」というものを今の日本社会は濫用しているのである。 「普通の仕事」ができない人を「医師の診断」というもので「科学的」な判断のもと「病気」にすることで社会の中から隔離して隔離した上で「みんな労働をしている」という平等性を前提として何かを飲み込んでいるのである。これは大変不健全な状況だ。 気分が落ち込むのは健康な証拠 毎日粉塵の中で作業していたので病気になりました 灼熱の高炉で12時間連続で作業していたら病気になりました 建物を解体していたらアスベストを吸って中皮腫になりました ケガ・事故といったわかりやすいものは産業革命以降市民が工場労働に従事する中で比較的早期に(といっても時間がかかったが)問題となり、それ以外のこういった中長期で影響が出てくるものも、法規制によって事業者に安全を守るためのコストを強制し、事業者側から見ても競争の範囲がから外してもらったうえで競争が行われてきた。 会社でパワハラを受けたので鬱病になりました お客さんから毎日暴言を受けたので仕事に行けなくなりました 毎月100時間残業していたら脳卒中になりました だが、こういったちょっとわかりにくいものに関しては今でも問題が起き続けている。使用者側からすれば「そんなこと気にしてたら仕事にならないよ」とか、「そんなのみんなやっていて当たり前。そんなんじゃ競合に勝てないよ」「この仕事にはそういったことがつきものだからね。昔はもっと酷かったんだよ」ということを言い続ける。言い続けることが許されている。なぜなら事故などと違ってみてわかる何かが起こっているわけではないからだ。そこでどうしたか。医療という現場で「病気」として判断してもらうことで目に見えるものに転換して対抗したのである。それはもちろん当事者たちの普段の努力によって勝ち取った権利のようなものであることは間違えがない。 しかしながらここまで書いてきたように病気というのは「仕事がもうできない」という結構致命的なところまで追い込まれて初めて成立するものとして取り扱われている。病気になってからでは遅いのだ。 パワハラを受けたので落ち込んで毎週お酒を飲んで発散して仕事になんとか行っています という状況は病気ではないとされている。「そんなことで落ち込んでしまう本人が弱いし、お酒に逃げている本人のせいで病気になっても誰も悪くない」となるだろう。しかしながらこれは大変危険な状態だ。 ちょっと引いてみてほしい。「パワハラで気分が落ち込む」のは健康な証拠ではないか。そしてそれになんとか対処しようとしてお酒を飲んで発散し、仕事に行く。健康な証拠じゃないかと思うだろう。だが、これを健康としていいのだろうか?落ち込むことがあって落ち込むのは確かに健康な証拠で、楽しいことがあった時に楽しいと思えることと表裏だ。だが、このまま続けたらこの人が鬱病やアルコール依存症になることは目に見えている。 これは長い歴史の中で今ではブルーカラーと呼ばれる人々が闘って勝ち取ってきた安全と比較すると、随分と危険な状態を放置しているのではないか。ビルの20階の高所作業でヘルメット安全帯なしに作業することをケガをしてないし事故もないから大丈夫といっているだけではないか。...

June 8, 2024

作家とギャラリーの関係性

Twitterでは作家とギャラリーの関係での問題が表沙汰になることがちらちら見える。 ざっくりいうと以下の問題が挙げられていることが多いと感じる ギャラリーが何もやってくれない のに30パーとか40パー取ってく 客は自分(作家)が連れてっても同じ料金取られる 値付けがおかしい ひどいことを言われた さて、私はギャラリストではないし作家と言えるほど作品の販売ができているわけではないのであくまで想像だが、想定されるコンフリクトとその対処について少し書いておこうと思う。 作品をどうしようか という議論をするという大前提 まず、作家側とギャラリー(をはじめとしたビジネス側)との間で前提が全く違うことがしばしば見える。特に広告代理店をやっている人たちは作家側の前提を踏みつけて議論してしまうことが多く、話が噛みあっていない様子をよく見る。広告を制作する際のコミュニケーションをそのまま作品の話でしてしまうのは大変作家に対して失礼だし、作家を傷つけることになる。 広告の制作現場においては作家は完成物のあくまで一要素で方向性や雰囲気を決定づける一要素に過ぎない。例えば白黒のポートレートがとても上手い写真家に缶コーヒーの広告写真を頼んだら白黒写真になることは決定づけられるが、缶コーヒーをどのぐらいの大きさで写すとか、ここは文字を置くので開けておいてください見たいな構図的要請も作家側は受け入れる必要があることが多い。むしろそういったさまざまな配慮を織り込んで撮影できることがプロフェッショナリズムとして讃えられることが多いだろう。 これと同じノリで作家の作品に口を出してしまう人があまりにも多い。白黒の写真家の作品に対してカラー写真にした方が売れるよと言ってみたり、演歌歌手に時代はYOASOBIだからもっとそれっぽい曲歌った方が売れるよと言ってみたり。口を出す方は普段口を出すことを仕事としているので、市場というものを分析した結果という客観的事実に基づいて発言をしているだけなので何の悪気もない。 だが、残念ながら作品というのは現象なのである。 作品および作家の活動は基本的には自然現象として捉える必要がある 誤解を恐れずに言えば作品作りというのは自然現象の一つだ。作家の生い立ちや置かれている状況、生まれ育った環境に住んでいる国の社会情勢、さまざまな因果関係がわからないインプットが結果としてアウトプットを産んでいるのだ。なので、作品は現象の結果生み出された結晶のようなもので、まさに奇跡が生んだものなのだ。 なので作家側からするとあらゆる選択の結果が作品には表れているのでこうした方がいいよと安易に言われても、ほとんどの場合はそんなこと考えた上でそうしていないんだ!ということになるし、選択した結果ではなくさまざまな外的要因から生まれた歪みみたいなものが作品に表れていることも多々あるので、必ずしも本人にコントローラブルなものではないのである。 そこに「こうしないと売れないよ」みたいな話をされてしまうと、こだわりに抵触した場合は怒ることになるし、どうしようもない部分を指摘された場合はしゅんとするだけである。 編集者と作家の関係性 ギャラリストと作家の関係性 なので、編集者はすごい仕事だなと日々思う。作家ごとの特性をわかっていて、直せる部分と直せない部分をまずちゃんと分解して言語化しているのだと思う。作家が置かれている境遇と売れているもののギャップを理解し、直せないところ・いいところを肯定しつつ直せる部分を指摘していくというのは並大抵の仕事ではない。分野によっても多分踏み込める量みたいなものがあって、漫画は商業でやっていくという言葉もちらほら聞くし編集者が修正する範囲が大きいのではないかと思う。 一方アート作品、特に作家が存命の現代アート作品とギャラリストの関係はむしろ気持ちいいぐらい他人にすることで関係性を保っているのではないかと感じている。最初に書いた不満で何もやってくれないというのは2つに分解できると思っていて 作品についてのアドバイスがもらえない 作品の販売について何もしてくれない の2つに分解でき、基本的には後者のことを言っていると思うのだが、前者の意味で言われてることもそれなりの割合あるんじゃないかと思う。ギャラリストは編集者ではないのでまず前者に関してはあまり期待しない方がいいのではないかと思う。 ギャラリストは良くも悪くも好き勝手作品について評論することで作品をお金に変換する装置みたいなもの。証券会社みたいなものだと思った方がいい感じがする。 「作家本人が望む望まないにかかわらず、作品を大金に変えてくる」ぐらいの他人さがすごく大切なんじゃないかと思う。なぜなら、作品を金銭的価値に変換することは本来不可能なことだからだ。 作品の価格について無関係でいられる幸せ 作家が売り上げをどの程度気にするべきかについてまだちゃんと因数分解できていないのでちょっと雑な書き方になってしまうが、作品の売り上げを気にしながら作品を作ることは私はこれからの時代必須というかそれが作家の活動の根幹に関わると思っているが、一般的にはあまりよしとされていない感じがする。特に現代アートでは尚更で、あれは大衆的だねと後ろ指を指される。作品が、食える食えないという極めて現実的な切迫した短期的問題で変質していることをあまりよしとしないのである。この辺りはまた別で書く。で、あるからに作家が作品の売価を意識しながら制作するなんてことはもってのほかなのだ。作品作りにのみ没頭しているというある種の清楚さが求められている。 で、ギャラリー側が作家と仲の悪い存在であれば、この金銭化の部分を作家の意思とは無関係であるという関係が築けるのだ。あいつが勝手に高くして売ってるけど、私は全く関与してません。もう少し踏み込んで言う人は金儲けはよく分かりませんと言うだろう。 度々ジブリを出してしまうが、まさに宮崎駿-高畑勲 と 鈴木敏夫 である。よくよくドキュメンタリーを見ると 高畑勲-宮崎駿-鈴木敏夫 の順で宮崎駿は映画として成立しているかどうかと言うこと(楽しんでみれるか)と言うことをよく気にしているのである種商業的ではあるのだが、興行の方法にまでは私は分かりませんと言うことで一切踏み込まない。映画祭とかも鈴木さんが勝手に申し込みしましたと言うばかり。さながら親が勝手に応募したアイドルオーディションである。でもそうやって他人さを入れることであらゆるものを守ることができるのである。 百貨店とか呉服屋とか。商人的な嫌われ役はもしかしたら沢山の文化を守っていたのかもしれない。 だがやはり、私は今すべて直販直営で、直接発信することが大事だと考えている。それについてまた今度因数分解しようと思う。

May 22, 2024

マネできるけどマネしない範囲のことを発信するということ

先日のポストで書いたが、(SNSで有名になる)SNSである程度知名度を上げたいと考えている。バズ狙いですか?と言わればそうっちゃそうなのだが、一応自分なりの作品をベースにSNSエディションを作っているという感覚でやっている。で、具体的にはInstagramのリール動画である程度知名度を築こうと考えている。そんな中でInstagramというメディアと向き合っていると、インフルエンサーというものとプロフェッショナリズムがなぜしばしば対立しているのかが見えてきた気がする。 インフルエンスするということは真似する人がたくさん出てくるということ Instagramで売れている人?というのはそれすなわちインフルエンサーと呼ばれることが多いと思う。YoutubeだとYoutuberと呼ばれるが、Instagramではインスタグラマーもあるのだが、より一段抽象度を上げてインフルエンサーと呼ばれることが多い。もちろんYoutubeでもインフルエンサーと呼ばれることもある。 インフルエンサーというのは、その人がやることと同じことをたくさんの人が行うことから、インフルエンサーという名付けになっている。 例えばスキンケアインフルエンサーであれば、その人が普段からおすすめのスキンケア方法を紹介していて、視聴者も同じことをやってみるということを繰り返す。それによってその人がスキンケア分野において実体験に基づいたトライアンドエラーを繰り返し、その様子をつぶさに発信・高頻度に行うことで一定の専門家的な信頼を獲得する。そこに対して企業は金銭を支払いおすすめしてもらう、もしくは優先的もしくは単独としてトライアンドエラーを行ってもらうという形で生計を得るというものだ。 カメラ系機材インフルエンサーだと、その機材のおすすめポイントを紹介しつつ、実際にその機材を使った写真作品や映像作品を投稿することで視聴者に同じような成果物を得たいと思わせ機材を販売するという形態が多い。 真似できないとインフルエンサーにならない ここでいうまでもないかもしれないが、スキンケア系であれ映像系であれなんであれ、視聴者が真似できないとこのインフルエンサーというのは成立しないことがわかる。「超絶技巧のテクニックでしか行えないまつげメイクは、「すごいねー」となって終わりだ。iPhoneに3000万円のリグとクレーンと30人の人員と1億年のセットを組んで動画を撮っても、そんだけすごい機材使えばそりゃすごいのできるでしょで終わりなのである。もちろんそれはプロフェッショナルの表現として素晴らしいものだし、可能性を広げていくということは尊い。そうなのだが、それはそれなのである。 技術的プロフェッショナルはお前にはできない を発信し続ける 技術的プロフェッショナルはプロフェッショナリズムを持ってとある特定の分野に対して高いプライドを持つ。私にしかできない、到達できない表現、技巧を発信する。仮にそれが作品ではなく受託を取るための技術紹介だったとしても、基本的には「あなたにはできないからぜひ私に依頼してください」と思ってもらうために発信を行う。そのため、根底に流れるメッセージとしては「お前にはできないだろ」というものになってくるのだ。映画館で流れてきたらすごいと思うだろうし、Youtubeでも何千万回の再生を獲得できるかもしれない。ただ、殊SNSという媒体の上では同業者うけは素晴らしいかもしれないが、一般的な共感は得にくいのだ。 インフルエンサーはあなたにもできるよを発信し続けるのでコンフリクトする インフルエンサーは真逆である。良くも悪くも誰でも真似できる範疇の中で実践を行うのだ。iPhoneフォトグラファーの写真は100万円のGFXの写真よりも劣るかもしれないが、同じiPhoneを持つひとが自分も取れるかもしれないというところにコンテンツとしての面白さがあるのである。プロから見ればこれは2つの意味でちょっと嫌なのだ。 技術レベルが低い・妥協の産物に見える プロはありとあらゆる手段を使って完成物のクオリティを極限まで高めることに人生を賭けている。特にエンジニア志向の強いプロフェッショナルであれば尚更である。写真だと例えば物撮りの世界とかはもう本当にありとあらゆる手段を使ってCGのような、だけれども本当に綺麗な質感まで伝える物撮りを実現している。 そんな中で物撮りやってみたみたいな動画が流れてくると、ものすごくレベルが低いことをやっている。そんな機材じゃ全然ダメだよってなるし、そんな一人でできるわけないだろってことも多い。そんなの学生のレベルよりも低いよとなる。カルチャースクールかよみたいな言葉も聞こえてくる。で、それだけならそれでいいのだが、インフルエンスして数字を持っていたりするとその人に撮影依頼が行ったり、物撮りといえばこの人みたいな一般的な知名度を獲得してしまい写真集が爆売れしたりするのだ。悔しい。きつい。 みんなできるよ!と言って欲しくない。(できてないから) 先ほどは物撮りと言ったが、ありとあらゆるもの全て「あなたにもできるよ」というメッセージを発信するのだ。だが、プロから見ればそれは「全然ダメ。できてない」な内容なのである。正確にいうとインフルエンサーが発信している内容というのは「自宅で一人で専門教育を受けないでも一括払いできる金額感の機材で あなたにもできるよ!」なのだが、そんな前提はいちいちつけない。もしあなたが受託の獲得を目的とした技術紹介をSNS上で行っていたときに、「あなたにもできるよ」というある意味でクオリティの低い映像が流れてきて、いいね10万件、コメントで褒めそやされていたらどう思うだろうか?「いや、これはできてないじゃん。全然ダメ。もっとこうしないと。素人には無理」となるだろう。人生をかけてその技術を見たいていたら尚更だ。誰も責めない。 このような構造で、相反するメッセージを同じ舞台で叫びあっているので不幸なコンフリクトが出てきてしまうのである。 いいねよりもブックマークの方に重きが置かれているアルゴリズム では、推薦アルゴリズム的な部分で「マネできる動画」と「超投資されてできた動画」どちらが重視されているかというと、私は前者のほうに有利に働くよう調整されているという仮説を持っているアルゴリズムが実際どうなっているのか中身を見ることはできないので、あくまで仮説だが、どうやらいいね数よりもブックマーク数が増えることのほうが重きが置かれている感じがしている。 公開した作品の数字を見ていると、再生数に対するいいね数の割合よりも、ブックマーク数の割合が高いほうがフォロワー外の方の再生数が伸びる傾向にある。 いいねと違いブックマークとは後でまた見返したい動画という意味になってくる。つまり、プラットフォーマーからすればリテンション施策になるのだ。誤解を恐れずに言えば面白かったりすごい動画よりも役に立つ動画が水生されるようになってきているということである。 HowTo動画と作品の間で ここまで書いたことをざっくりまとめると「How to 動画を撮ることがあらゆる面から考えて数字が伸びやすい」ということになる。ただ、じゃあ作家の作品としてそれでいいのか?いやよくないだろう。AIの分野は特にそうだが、あらゆるツールがものすごい速度で出てきては消え、進化していく時代、ツールをとりあえず試してその可能性を模索する仕事の必要性は増してきているように感じる。私のいる写真映像分野でもそれは同じで、特に現像方面で本当にあらゆるツールが出てきており、1年に一回のCP+やIinterbeeに行ったらもう1年では試しきれない量の気になる機材が出てきてしまう。なので機能を試しつつ可能性を語ったりとか、作例を作るということ自体の価値は年々増してきているように感じる。なのでそれはそれで一つのプロフェッショナリズムの形だと思う。私もジンバルとかフィルターとかすべてを借りて試してから買うことはできないのでよく見ている。 ただ、機材紹介動画を出したいのではなく、あくまで作品を作っている身としてはこのあたりのバランスをとる必要がある。なのでこの観点からしても先日書いた参加可能な機材を使い果たして、身体化しながら可能性を探っていく形がいいのではないかと考えている。マネできるけどマネしないことをやるという形だ。 このあたりの業務用機材とそこまでいかない機材、ブラックボックスな機材と道具として使える機材についての因数分解また別の機会に書こうと思う。 具体的に今のところ気にしているポイント 全体の方針としてはここまでのとおりであるとして、具体的に投稿内容でInstagramにそぐうようにするため気にしていることをまとめておこうと思う。私はSNSマーケティングの専門家ではないのでアルゴリズムについて捉えきれていない部分がまだ多いと思うが、少しずつ変えてみて比較してこうなんじゃないかという仮説はある。あくまで仮説なので間違っているかもしれない。 トレンドの音楽を使うことが必須 これは以前別のポストでも書いたのだが、トレンドの音楽を使うと再生数が100倍ぐらいになる。なので基本的にはリール動画は曲先で作っている。本当は好きな曲を使いたいのだが、それは知名度ブルジョワジーにのみ許された贅沢だ。 そもそもショート動画というのはほとんど曲を聴いている人が多い。Tiktokは明確にダンス動画という軸があったので曲先であることは分かりきっていたが、どうやらYoutubeShortやInstagramもダンスでなくても同じように曲先の方が良さそうだ。 動きが予想できる状態になったら飛ばされてしまうのでその前にカットを切り替える 基本的に1カット2、3秒ぐらいがいい。なぜなら、あーこのあとこうなるなというのが予見できた瞬間に長いと感じて飛ばされてしまうからだ。例えば机から塩を持ち上げて塩をかけるという映像があったとする。これは机の塩を持ち上げた時点で塩をかけることまでが予見できてしまうので塩を持ち上げたー塩をかけるまでに映像をフルで入れてしまうと冗長な動画としてその時点で飛ばされてしまうことが多い。なので、塩を持ち上げてかけるという要素が伝わる最低限。塩に手をかけたー塩の容器が浮き上がったの2秒、塩の容器が傾いて塩が出てくる直前から塩がかかるところ1.5秒 食べ物に塩がかかる1秒 といった感じで構成しないと飛ばされてしまう。 あまり早くカットを移動すると視聴者が理解する前に場面が切り替わってしまうのではないかと思うのだが、今やってる感じむしろその方がいい。1回目ではなんかちょっとわからなかったけど面白い→2回目をみてもらう という構成にした方が総再生時間もあがるしリピート回数も増えるので推薦アルゴリズム的にも有利である。 私の場合写真を撮ってその写真を出すという構成をすることがあるのだが、最初は3秒ぐらい写真を提示していたが今は1秒ぐらいにしているみたい人が2回目で一時停止してみてもらうぐらいの感覚で作った方が全体としてのエンゲージメント率は高い。 BeforeAfter動画は平均再生時間を効果的に伸ばせる メイキング映像があって、そのあとそのメイキングした結果が出るという動画を勝手にBeforeAfter動画と呼んでいる。通常上記のように予見可能な時点で飛ばされてしまうのだが、BeforeAfter動画は実際の結果を見たくなってしまうので、Beforeの部分結構引っ張ることができる。最初の5秒しか見てくれないかなあというのが普通の動画なのだが、BeforeAfter動画だと9秒ぐらいまで耐えてもらえる感覚がある。 コツはBeforeAfter系の動画で使われている音楽をそのまま使うことだ。基本的には再生スタート時点から10秒前後のところに転調がある音楽が使われている。BeforeAfter系の動画として視聴者は他の動画も見ているので、曲が流れ始めた瞬間にああこれはBeforeAFter系動画なんだなという文脈を共有できる。そうすればこっちのもので、Beforeの間は冗長でも結構見てもらえる。Afterはなんなら1秒2秒でもいいくらいだ。もちろんそのAfterであまりつまらないことを連発すると飽きられるので注意。 25fpsにする これは完全に私の動画限定の話だが、3Dスキャン動画は基本24fpsにしている。CG感が出過ぎてしまうと、単なるクオリティの低いCGに見えてしまうからだ。これはまた別の機会に改めて書くが、最近エモいと言われながら2000年前後のデジタルカメラでとることが流行っている。これはなぜかというとまずあまり精緻な映像を作られてしまうと脳が補完する余地が減り過ぎてしまうからだ。思い出の記録というものは脳が補完する余地を残し理想化することでいい写真になるのだ。その補完余地の確保とともに、ストリートで実物を取り込んでいるんですよということを伝えるためにFPSも落としている。アバター:ウェイ・オブ・ウォーターをIMAXで見た方ならわかると思うが、48fpsになった瞬間に途端にゲームっぽくなってしまうのだ。CG高フレームレートというのは今の所の我々にとってはゲームだなっていう印象を強めてしまう。そのうちあらゆるものの標準フレームレートが上がるにつれこの辺りは変わってくるかもしれない。 HFRについてはこの記事が詳しい。 https://av.watch.impress.co.jp/docs/topic/1461878.html 極力スマートフォンで完結させる これは今も悩んでいるところだ。先述の通りInstagramは基本的に「あなたにもできるよ!」というメッセージを発する場となっている。そのため、先日書いたアマチュアイズムとの境界線の問題もあるのだが、基本的にはスマートフォンで完結する表現でどこまでいけるかを試した方がいい感じがしている。 ここで500万のレーザースキャナを出したり、一眼レフで4万枚撮影して高域を50万のグラフィックボードで24時間処理してもちょっともうそれは違うものなのではないかという感じがしている。 ただ、クオリティは上げたい。この枷が適切な枷なのか、それとも重すぎる枷なのかは非常に悩みながら作っている今日この頃だ。

May 20, 2024

個人や小さな主体のアウトプットはクオリティが低いからダメなのか

久々にゲームを買った。インディーゲームだった。 子供の頃は結構ゲームをしていた。平成5年生まれ。人生で初めてのゲーム機はプレイステーション1だった。その後中学受験が本格化するまでの間Nintendo64、ゲームキューブでよく遊んだ。一番遊んだゲームは多分バンジョーとカズーイで、次がペーパーマリオRPGだと思う。どうぶつの森も結構やっていたとおもう。 ただ最近はゲーム実況を見ることはあるけれども、自分でゲームをすることは減ってしまった。ゼルダのブレスオブザワイルドは是非やってみたいやってみたいと思いつつも、なかなか手が出ない。ゲームは設計されたストレスを受けて、そのストレスを解消することで楽しい感覚を得るものだと思っているが、その適切に設計されたストレスを受ける余裕がないのだ。 めちゃくちゃ感情を表現しながらゲームをすることもないため、感情の起伏が激しい人のゲーム実況を見てその人と同じゲームをやって追体験することで楽しみを得る様になってしまっている。結構そういう人多いんじゃないか。 その追体験も大作ゲームの実況を全部見る気にもなれず、ましてや自分でもプレイする気持ちになれないのでだんだんとインディーゲームを見てやる様になってくる。最後にやったAAAはデスストランディングだ。 千円前後のインディーゲームは1日2日で全クリでき、グラフィクは簡素的なものか、UnrealEngineのどこかで見たことあるような写実的というかスキューモーフィズム感あるデザインのゲームが多い。なので、感覚としてはボードゲームを遊んでいる様な気分になる。これが結構色々なバリエーションがあって面白い。スマートフォンのハイパーカジュアルよりは中身も詰まっていて全クリの満足感がある。 小さな規模だとクオリティが低い? AAAに対してインディーゲームってクオリティが低いんでしょ?という問があったら、確かにある意味でのクオリティは低いだろう。ワールドは圧倒的に狭いし、キャラクターも荒削りなことが多い。シェーダーもオリジナルで書いてる物は少なく演出上もどこかで見たことある感じになる。操作感のチューニングも詰まっていないと言えばないのだろう。ただ、あらゆる工夫がされていて面白いと感じさせるものが結構多い。もちろんそれは先日書いたメタ的な面白み(いやーうまくやってるなーここの処理 とか、 いやーこうやって開発工数減らすのか)を感じてしまっているのではないかと言われればそうなのかもしれないが、普通にゲームとして印象に残るものが結構ある。それは単なる暇つぶしゲームではない。ゲーム作者の作家性みたいなものを感じることがある。 ゲームに限らず他分野でも個人や小規模がやるとクオリティが低いという話はよく聞く。 複数人の専門家がやるのではなく個人が複数のことをやるため技量が低い かけられている時間が1人*開発期間だけなのでクオリティが低い そもそもかけられる開発期間が法人と違って赤字を掘れないので短い (ゲームでは今ではあまりないが)使える設備に差が出てきて最終的なアウトプットのクオリティが低い しかしこれらが雑な解釈であることはこれだけインディーゲームの魅力が語られている今では説明の必要がないだろう。この辺り後日切り出してまた書くかもしれない。 ゲームデザインで制約事項をかわしていく 小島秀夫のインタビューで以下の様な言葉がある。 オープンワールドなのに人はほとんど出てこないでしょう? そこに開発コストを割かないためですよ。敵(ゲイザー)が目に見えないのもそうです。僕もアホじゃないので、豪華に見える部分とそうじゃない部分を企画段階からすべて計算して、100人弱のスタッフでもつくれる仕様にしているんです。 livedoor news 『日本に本物のクリエイターはいるのか? 小島秀夫監督が「作家性」にこだわる理由』 https://news.livedoor.com/article/detail/18332936/ 小島秀夫をはじめとして、初期のゲームはメモリの制約や処理能力の限界がかなり厳しく、ゲームデザインでその辺りを乗り切ってきたという話を至る所で聞くことができる。 MGSの話 敵兵二人にユーザーのキャラクターを表現するだけでスプライトが6個必要となる。これだと「弾丸を3発撃ったところでスプライトが限界になり,表示できなくなる。 ゲーム・デザインでカバーすることにした。弾が撃てないのであれば,弾を撃たないでゲームとして成立すればよい。 結果として生まれたのが,「敵の基地に潜入する」というコンセプトのゲームである。これが「ステルス・ゲーム」と呼ばれる新しいゲーム・ジャンルを切り開くことになった。 日経XTech 『【GDC】視点をずらして不可能の壁を乗り越える――「メタルギアソリッド」の小島氏』https://xtech.nikkei.com/dm/article/NEWS/20090327/167865/ Nintendoでもまさにそう言った制約とデザインで戦っている 岩田 だから、どうしたら少ないデータで、より豪華に見えるようにするかとか・・・。 中郷少ないデータで、どうすればたくさんの表現ができるかという、こういうことに力を注いでいたんですね。 Nintendo 社長が訊く「スーパーマリオ25周年」 https://www.nintendo.co.jp/n10/interview/mario25th/vol5/index4.html マリオの1-1面のコース設計について 3分18秒あたりからがすごい面白い 何かを作るときに、全く制約事項がないなんてことはない。それぞれがそれぞれの立ち位置で立ちはだかる現実と闘っているのだ。それは例えばメモリが30バイトしかないという制約かもしれないし、逆に1000人の開発メンバーを背負わなくてはならないという制約かもしれない。新しいPS5の処理能力を存分に活かし切らなくてはならないという話かもしれない。どちらにせよそのときに大切なのは「やりたいことをやるために考える」という姿勢だ。実現したい理想がるからこそ、制約事項が壁になる。一体誰がそれをやりたいのかわからない主体性のないプロジェクトでは制約事項という物は往々にして認知できないのだ。 やりたいことを、できる限りを尽くして表現し積み重ねていく。何度も繰り返す。 友人であるギレルモ・デル・トロ(※編注2)やニコラス・ウィンディング・レフン(※編注3)だってそうですよ。みんなもともとニッチな志向があり、やりたいことはインディーズにあった。でも、そういうコアな作品を一歩一歩積み重ねる過程でフォロワーが増えていき、あるときにブレイクしたんです。 livedoor news 『日本に本物のクリエイターはいるのか? 小島秀夫監督が「作家性」にこだわる理由』 https://news.livedoor.com/article/detail/18332936/ 岩田宮本さんがこれまでずっとつくりたいと思ってきた構造のゲームを今回実現できたと感じているんですよね。 宮本 ええ。『マリオ』を使ってマルチプレイを実現させたいとずっと思ってきましたし、長年の夢だったんです。今回は、それはできた感じがします。 Nintendo 『社長が訊く『NewスーパーマリオブラザーズWii』』https://www.nintendo.co.jp/wii/interview/smnj/vol1/index9.html クオリティという言葉は非常に抽象度の高い概念で、本当に広い意味を持つ。ときには非常に客観性を持つ指標として残酷な使われ方をしている。それは3Dプリンターで言うとFFF方式の造形精度が業務用機に対して劣っていると言う話かもしれない。表面のツルツル感・質感が射出成形に対して劣っているが故に安っぽいと言う話かもしれない。iPhoneでの3Dスキャンでは業務用のレーザースキャナに対してぐちゃぐちゃで見た目が汚いと言う話かもしれない。個人の作ったゲームは作り込みが甘くてちょっとイレギュラーなことをするとすぐに壁にめり込んでしまうと言う話かもしれない。撮影・照明さん・カラリスト・コンポジッたー・VFXとあらゆる分野に分かれてそれぞれの人がそれぞれの分野に一生を賭けて向き合っており、その分業から生まれる映像の方がクオリティは高い。 専門家を下げているわけではないし、小島秀夫のようにAAAタイトルでないとやりたいことができないということも全然ありで、無理に個人でやらなくては何かが欠けてしまうという話ではない。 それでも、個人の作るものが、小さな主体が人の心を動かすことがあるのは、ひとえにやりたいと思ったことをさまざまな現実に直面しながらも誠実に表現しようと立ち向かい膝を折らなかったその姿勢があるからである。 やりたいことというのも非常に抽象度が高い話で、日によって変わったりもする。今日は目前の写真の色合いについてやりたい色があるかと思えば、ときには人生の幸せであったり、人類の進歩にどう貢献するという話になるかもしれない。大切なのは身体を動かしながらどの抽象度に於いても誠実に向き合い、表現し続けることなのだ。

May 19, 2024

東京の再開発に思うところ

東京では今あちらこちらで再開発が行われている。基本的には3、4ブロックぐらいのところを全て潰して、その間に走っていた道路も無くして特大の超高層ビルを建て、1つの街区として再開発するような感じだ。 最近完成したものだと麻布台ヒルズがわかりやすいだろうか。もともと住宅街だったところを丸ごと買い上げて一つの商業施設にしたわけだ。少し前だと六本木ヒルズとか、恵比寿ガーデンプレイスとか。 都心のど真ん中でなくとも有名どころだと小岩が周りの商店街を全て無くしてビルやタワーマンションにしようとしている。 治安が良くなる ということ。安全になる ということ。 再開発は大きく分けて2つの場合がある。 工場などの跡地をまとめて開発する たくさんの細かい土地をまとめて一つにして開発する 特に最近増えているのは2つ目の開発のパターンだ。都内で1台、2台しか止められないコインパーキングを見たことはないだろうか?あれらは基本的には隣の建物がなくなって一帯として全体を開発できるようにするため何も建てずに待っているのである。 さて、この2つ目のパターンには多くの場合自治体が噛んでることが多い。これは主に2つの理由で自治体が噛んでくる そもそもそこに自治体が所有する土地があり、その土地と隣接部を一帯としてまとめて開発する 地域の防災・治安の向上・にぎわいの創出の観点から再開発を行う 特に東京では2つ目の圧力がものすごく強い。これらについて私が観測する範囲で起こっていることをまとめておく。 防災上の観点 地震が多い上に首都直下型地震は確実にやってくる。そのためにまず東京は幅員6m以上の太い道を通しその通り沿いの建物は地震が起きても道が塞がないように厳しい耐震基準で作られ、基本的にはビルになる。防災生活道路網という形で街の周囲も太い道で囲み、ダメージを小さくしようとしているのだ。さながら第3新東京市のようだ。 スカイツリーから木密地域(比較的古い木造住宅が密集している地域)とされる京島方向を眺めると太い大通りが一本街の真ん中を突き通すように通り、その通り沿いにビルが立ちそこから少しずつ開発が進んでいく様子が見て取れる。 この写真左側にある白い壁のような団地は白鬚東アパートという団地で、もともと関東大震災の際京島地区が木密地域であるが故に大火事が起きてしまい、隅田川に多くの人が飛び込んでたくさんの死者を出してしまった。その教訓をもとに防火壁として作られた特殊な団地なのだ。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%AC%9A%E6%9D%B1%E3%82%A2%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%88 命を救うために必要ですという話になると他の何ごととも比較衡量できない上、地震だと自分が生きているうちは大丈夫みたいな話もできないので用地取得に対し強固に反発できないのだ。築地はこの部分が一番効いて再開発になったとのことだ。 治安 この話もよく出てくる。小岩のケースでは一番出てきたのではないかと思う。詰まるところ、アーケードでもない小さな居酒屋や商店が集まってくるとそこにガールズバーの様な風営法で取り締まれない接客業が入り客引き行為が横行する。細かい路地などがそう言ったものを助長した結果“犯罪件数”が増えているので再開発で減らしましょうという話だ。 近年の特に東京都市部での治安維持というのは基本的には犯罪が起こる機会自体を未然に消滅させようという方向性で行われる。街の至る所に設置されている防犯カメラはもちろん犯罪が起こった時に迅速に捜査ができるという機能もあるが、名前の通り防犯という機能の方が大きく、防犯カメラがあるので犯罪をする機会が減る、期待値が減るということの方が設置意義としては強い。他にも私の近所の橋の下には昼間ではないかと思うぐらい煌々としたLED照明が多数設置されてきている。明るくしてしまって犯罪機会自体を消滅させようということだ。 これも防災と並び結構説得的で犯罪件数のような具体的な数字で他の地域での再開発の成果を主張してくるのだが、私はこれは懐疑的なというか危険な主張だと思っている。 まずそもそも治安という概念を犯罪件数みたいなので測っているのがよくない。治安という言葉を聞けばいい方がいいに決まってると思ってしがいがちだが、日本が過去に“治安”維持法という法律でいかにひどいことをしてきたかは全員が知るところだし、他の国でも治安という言葉の暴力性は明白だ。 では治安という言葉は少し抽象的すぎましたということで、刑法犯の減少を目指しますという話になるのだが、じゃあそれは犯罪をしたくなる様な街を潰して綺麗にして警備しましょうでいいのだろうか。いや、そうではないだろう。街を変えるのではなく、福祉的なアプローチで犯罪機会と向き合うべきである。人間の内的な犯罪欲求と、街自体が生む犯罪機会がありこの均衡点の移動で犯罪が起きたり起きなかったりするという話なのであれば、自治体はまず持って人の内的な犯罪欲求と向き合い対処すべきだ。なぜそこで街自体の変数を減らし監視を容易にすることで押さえつけようという暴力的な方向に行ってしまうのだろうか。 にぎわいの創出 この再開発の文脈におけるにぎわいの創出は主に2つの観点から実現可能であると主張されることが多い。 単位面積あたりの人口の増加でにぎわいの創出 すごく安直に言えばでっかいビルを建てて昼間人口を増やしかつ、でっかいタワーマンションを建てて人口自体を増やせばその下にある街はにぎわってくるに決まってるという話だ。 企業も誘致できれば法人住民税も入る。高層ビルを建てることで固定資産税も入る。ビルにすれば賃料も上がるので全体の単価も上昇するだろうという話。 人流を変化させることでにぎわいの創出 これは駅前開発じゃない時に語られることが多いが、今まで地域に人が来なかったところに、目玉となる商業施設をつくれば人がやってくるだろうという話だ。商業施設として広報し、そこに地域独自のお店を入れてあげれば地域産業の活性化にもつながりますと。これをやるとよく聞くイオンができて地元の商店街が閑古鳥みたいな話になりそうだが、先述の通り東京の場合駅前の商店街や住宅街を取り壊して再開発する場合が多いのでコンフリクトはそこまでない様な気もする。ない様な気もするが、最近の中野の駅前開発は地元商店会はどう思っているのかちょっと気になる。ショッピングモールじゃないから特に問題視してないのだろうか? さて、にぎわいの創出というのは本当にあらゆる場面で目にする。 https://project.nikkeibp.co.jp/atclppp/122100007/010900033/ しかしこれはまさに自治体や不動産会社の傲慢さが溢れ出ている概念だと思う。もうこの言葉はあらゆる場面で使っていて聞き飽きたかもしれないが、にぎわいの創出なんていうものも本当に小さなインクリメントを積み上げてやっとこさ出来上がるものなのだ。地域の人の生活を一旦引き剥がして大きなマンションを作り元の家より小さな面積で与え、設計されたプライバシーの守られた箱の中に閉じ込め部屋の外は全て不動産会社による管理が行われる。道端での小さな菜園や少し道路にはみ出た商売を許容することなく契約に基づき賃料半年分の保証金を払える業者にしか利用を許さないという形で一体何が地域のにぎわいの創出なのだろうか。 巨大なオフィスビルを建てて、路面には何の店舗もない。あるとすればコンビニエンスストアだけでどう地域が賑わうというのか。 いやいやもともとあったお店はビルの1階ー5階部分に入居していただきますというが、その上に30階分の自分達が一切立ち入ることが許されない巨大空間を置いておいて、それでいや地面は自分たちの街と言えるのだろうか?渋谷を歩いてそう言えるのか。言えないだろう。小さな店舗を壊してでかいビルを建ててもnone of my businessな空間がただただ広がっていくだけなのである。 人間の寿命より長いものを作ってしまう危うさ 大規模な再開発を行えば、もうそのビルは60年は壊すことができない。途中でどんなことがあっても引き返せず、値引きすることもできない。汐留の様になってしまうのだ。 人間の現役と呼べる期間を大雑把に20から60と仮定すると、40年間。それを超える期間のビルを建築してしまうということは、街の新陳代謝をなくしてしまう。街を有機物から無機物に変えてしまうということなのである。当然、開発業者側にも自治体関係者にも当時の開発者はいなくなる。住民側もその土地を故郷として意識する人は減ってくる。行き着く先はどの町に行ってもユニクロ無印マクドナルドにスターバックスの基本ルーティンに、ワールドかどっかが展開しているブランドのどれか。和光でとんかつを、日本一で焼き鳥を買ってかえるみたいな流れに収束していくだろう。 規模を大きく、期間を長くすることで街は個人私人から引き剥がされ、永遠の命を持つ法人のものへとなっていく。法人というもの、特に不動産関係の巨大な法人というものはもはや誰にもコントロールできないある種の意志を持った存在だ。社長がどうこうすることもできない。誰かの意思でどうにかすることもできない。AIができるずっと前からある人間を超越した意志を持った存在なのである。 そんな法人のものとなっていく東京が上記3つの合理的とされる理有で再開発されていくことが残念でならない。

May 19, 2024

資本に対して芸術・文化で対抗できるのか悩む

先日、東京都庭園美術館で開催されていた「開館40周年記念 旧朝香宮邸を読み解く A to Z」を見てきた。 東京都庭園美術館自体には何回か行ったことがあり、以前から建物自体が常設展、そこにその時催されている展示が特別展みたいな気持ちで見ていたので、建物自体に主眼を置いた展示はとても面白かった。 解説も充実していて、本当に贅沢な展示だった。 展示の詳細はほかの方に譲るが、本当にありとあらゆる建築家やデザイナー、家具、カタログから集められて作られている。 単なるコラージュではなく、この家のために作られたものが数多くある。 見ていて、あまりの資本的な豊かさにめまいがするほどだった。 芸術とパトロンシップは切っても切れない関係であることは有名な話で、それは芸術に限らず科学もそうだった。 当時は貴族、今回は皇族のある種のパトロンシップによってこの一つの家に様々な文化が集うことになった。 文化 という言葉の危うさ 文化とは何か という抽象度の問いを立てると収拾がつかなくなることは目に見えている。私も文化とは何かなんで全く自分なりにも言葉にできていないが、うっすらとした問題意識がある。 文化 と名の付くもので最も身近なのは伝統文化ではないか。 伝統文化という言葉で言うと例えば歌舞伎、能、落語、各種神事などがまず挙がるだろう。これらは日本の伝統文化ということで”歴史”に残すことは既定路線だ。 代々家業として伝統文化を支えている人々がいるし、その伝統文化を鑑賞する人たちも一定数いる。日本に限らず往々にして伝統文化は社会的な階層の上にいる人々に鑑賞され、文化を守るという言葉の元支えられる。 神事はちょっと毛色が違う感じもするが、例えば神事の中で派手な各地に残るお祭りは神社を通して祭りの役員が結果的には地主から選ばれることで強固な”地域”を作り出すことで神輿を担げる地元の人と、地元の人じゃない人を生み出すことから、構造的に社会階層を固定化および安定化させることに一役買っていることは明らかだろう。 もちろん私はその伝統文化が持つ美しさやそこを支える人々を指さしてあれは現代においては資本にまみれたものだから下品なものだというつもりはない。 十二単の色は間違えなく美しいと感じるし、歌舞伎は面白い。また、その分野にいる方々が様々な方法で基礎となる型を身体にしみこませた上で、素晴らしい新たなものを作り出していることも知っている。 ただ、既得権益の方向を向いて作られていることは間違えがないし、表現者側に参加する機会はあまり開かれていないことは間違えのないことだ。 歴史というものがどのように紡がれるかは最近だとガザ地区の問題や映画『オッペンハイマー』を見ればいかに暴力性をはらんだものであるか言うまでもない。 文化やアートというものの要素のうち少なくない割合が”歴史として残す”ということを志向している限り、この暴力性は免れないものである。 であるからにして、「資本に対抗する手段としての文化」というのはちゃんと文化側の因数分解を行ってから語らないと成立しないのだ。 資本が紡ぎだす文化と歴史 ストリートアートですら資本という大きな力に飲み込まれている。 目下、いわゆる「ストリートアート」は極めて表層的に消費されている。バンクシーやKAWSはSNS及びマーケット上にセレブリティとして君臨し、かつて有していたカウンターカルチャーとしての側面をもうほとんど持ち合わせていない。「反逆の神話」(ジョセフ・ヒース、アンドルー・ポター)と批判されかねない、肥大して陳腐化した「ストリート」的な〈イメージ〉に、私はあまり興味をそそられないでいる。 TokyoArtBeat 中島晴矢『ストリートとアート:「路地裏」から生まれる革新的な文化史 【シリーズ】〇〇とアート(2)』 https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/streetandart 売れていることを非難しているわけではない。売れている人を見つけ次第指さしてあれは大衆だなんていうのはもってのほかだ。そうではなく、あまりにも速度感が早く規模感が大きすぎてもうそれって違うものになってしまっていませんかという話なのだ。 あと、本人が望んでいるかどうかというのもまた別の話だ。バンクシーというブランド名のようなものは資本に屈したかもしれないが、バンクシーという作家自身が資本になり下がったという話ではない。なぜなら作品は作家の手を離れた瞬間に作家だけのものではなくなるからだ。そうではなく、作家の手を離れる時点、発表時点でのある種の純粋さみたいなものにたいして問題意識がある。 今回見た展示は建築という分野で建っている場所でこそ超一等地だが、作られたのは少し大きな家だ。なので、各作家が手に収まる範囲で神経が行き届いたものを作っているという信頼がある。 ただじゃあこれが麻布台ヒルズならどうか。大阪万博の大屋根だとどうなのかという話だ。もちろん各人が様々な現実と戦いに戦い抜いた結果の産物だとは思う。そうだとは思うのだが、その規模のものをある一作家が責任をもって隅々までハンドリングしましたというのはもはや傲慢だ。 もちろん大きなインパクトをもたらす作品を私も作りたい。社会全体に問いを立てるような作品にしたいし、歴史に残るようなものに仕上げたい。ただ、じゃあだからと言って単純に物理的に大きなものを作ればいいというものではないし、値段が高くなればいいというものでもないし、いくら予算がでかくても企業のロゴを張り付けてはだめなのだ。 繰り返すが値段が高いからダメだとか大きいからダメみたいな話をしたいわけではない。小規模にやれば自然と手に収まるでしょとも思っていない。 私が知ってるこのあたりの絶妙なバランスを作り出したのはジブリだ。徳間書店の徳間康快の独断によるパトロンシップから始まりスタジオが結成。。高畑功・宮崎駿という巨匠の下、映画という複製容易な表現手法の上で、映画館という100年以上かけて作られたディストリビューション、テレビという暴力を取り入れ、分業体制やあらゆる道具を作り出し十数年に渡るスタジオの構築という仕組みづくりをやってのけて『千と千尋の神隠し』では200人弱を率いて長編アニメーションを作るという偉業を達成した。ただ、それでもいわゆる企業の前提となるゴーイングコンサーンとは程遠い状態であることは皆さんが知るところだ。 1人の作家の手から生み出された”原理”みたいなものを小さなインクリメントを繰り返して少しずつ大きくしていくしかない。そこで一足飛びに資本の梃子を使って大きくしてもそれは単なる張りぼてなのだ。 にもかかわらず、現代において”文化”を標榜し始めると、途端に上品で優雅であり、余裕があり、商売的ではなく、寡黙で、政治的ではなく、習得に時間のかかる技術で作られ、師匠がいるか、もしくはどこかのコンテストやアカデミアに担保されている、一般的には有名ではないかもしれないが、その界隈では言わずと知れたものを指すことになってしまうのだ。なぜなら文化を標榜することは、それすなわち歴史に残す価値があるかどうかという話になってしまい、それを自分では判断できないし、ましてや主張し、高額な金額を正当化できないので、先ほど挙げたような何らかの客観性と一般性がありそうな価値評価軸を導入して飲み込むからだ。 じゃあ有名飲料メーカーが10億円投じて町中に張り出しテレビでのべ数千万回再生される映像を作ったほうがいやでも印象に残る。麻布台の住宅を薙ぎ払って個人にはどうすることもできない、何なら森ビルの社長でもどうすることもできない巨大な建物を建てれば歴史に残る。やってることが古墳と同じなのだ。 なので資本に対抗する手段としての”文化”や”芸術””アート”はもはや作家の安住の地ではないし、一歩間違えればインプットが豊かな資本的に豊かな作家しか表現側に回ることができないある種の加害者側に回ってしまう危険な言葉なのである。 参加可能な方法で表現するということ じゃあどうするよって話なんだが、逃げるようで悪いがタイトルにある通り悩んでいるのだ。今のところ(2024年5月18日現在)2つ軸を据えつつ面白いものを作ろうと奮闘している。 1つ目 容易に参加可能な機材で表現する まず1つ目は特殊な機材をなるべく使わないで映像表現をすることだ。いや、カメラを持ってる時点でもう豊かなのよと言われればそう。そもそもPC含めて持ってるものすべて量産効果があったから技術開発・生産が進んであなたの手にあるんですよねと言われたらそうなのだ。だからもうそれでアウトと言われればそうなのだが、私なりにピーキーな機材を使わないように努めている。今持っている機材の範囲で、とんでもない業務用機は使わない範囲のもので60回払いでぎりぎり買えるものの範囲で工夫して何とかいいものを生み出せないかもがいている。 3Dスキャンなんてカメラよりも青天井の世界で建築現場で使われる数百万の機材を使えばいくらでも精度を上げることができ、月々数万円のサブスクリプションの高級ソフトウェアを使えばテクスチャもメッシュもきれいに仕上がるだろう。ただ、それだとほとんどの人は表現者側に回ることができないし、僕自身も成果物がペイするかどうかというところに振り回されてしまうのである。もちろん私の成果物が何らかの形式で少なくとも1000万円では売れるでしょという状態になったら使ってみるのかもしれないが、もうそれはなんか別種のものだ。今手元に手に入り、できる限り多くの人が同じことをしようとしたとき機材面では何とかなる(とはいえiphoneももう十分高くて私も追いつけるかどうかわからないが)ところで表現を模索したいと思っている。 ただこれもある種の危うさをはらんでる話だとは思う。また別の機会に『クオリティと資本』という投稿をする予定で、そこで書くつもりだが、この機材面での妥協はある意味ではクオリティに対する妥協になりかねず、アマチュアイズムになってしまう可能性がある話なのだ。精度がいいほうがいいならそこはもうガット投資してクオリティを上げて面白いものを作れよという話なのかもしれない。僕の中ではイヤーそれは違うものなんだよねと思ってはいるのだが、iPhoneでの3Dスキャンが精度という価値評価軸においては雑なものになっているのも間違えない。別にそこに妥協しているって話ではなくて、さっきも書いたがそれはもう別物でしょってところなのだがこの辺りまだちゃんと言葉になっていない。もうそれはプロじゃないじゃんと言われたらそうなのかもしれない。 iPhoneでやってるなんて単なる”やってみた”じゃん。何なら技術に向き合ってないってことじゃんと言われそうだが、こう、ちょっと別種のものなんだ。 2つ目 SNSで有名になる これも賛否両論というか、否定的な意見のほうが多いと思うし、何なら1つ目よりもっと整理できていない部分なのだが、いま私はSNSに軸足を置いて基本的な知名度と評価を獲得してそこから少しずつ範囲を広げていこうと思っている。出すかもしれないしそっちで売れちゃったら謝るが、コンテストとかにはあまり積極的には出していない。 これは私がSNSというものが元来社会的階層や資本的な差と知名度が連動していたところに風穴をあけた革命だと思っているからだ。発信力・知名度というのは基本的には権威、地位、資本力と比例するものだった。もともとは教会や城のようなものを建て支配する者の発言が力を持っていたし、印刷が生み出されてからは輪転機を持つものに大きな力が生まれていた。そこにインターネットができてSNSができ、必ずしもそれらとは連動しない知名度の分布変化が起きたのだ。 もちろんこれは功罪あってしょうもないものが影響力を持ってしまうこともしばしばあるというかそのほうが多い。炎上というのはまさに発信力・影響力を得るために今までは様々なフィルターを経て洗練されたものしか得られなかったところにそうじゃない方法でその力が付与された結果生み出されたものだ。 ただ同時に、そういったエスタブリッシュメントに依拠することなく社会に影響を与えられる唯一といっていい手段だとも思っている。 以前は広告もそうなのではと思っていたが、考えてみれば資本の分布がこれほど偏ってしまった現代においては広告ももはやエスタブリッシュメント側だ。 SNSなんて下品な、ましてや15秒の縦動画なんて邪道Of邪道な方法で、そういったメディアでバイラルすることを志向してつくられた表現作品なんてゴミだという意見もすごくわかる。 すごくわかるのだが、民衆的な運動として知名度を獲得していくという前提が私にとってはとても大事なことで、そのために表現を曲げているといっても差し支えない。それほど草の根から広げることを重視しているのだ。 個人的に一番妥協しているのは動画につける曲だ。Instagramのリール動画はトレンドの曲を使う時とそうでないときで再生数が段違いだ。トレンドに乗っている曲がだめだという話ではないが、普段聞いていて雰囲気が合いそうな曲を使いたいところだが、それは知名度ブルジョワジーにのみ許された贅沢なのである。 民衆運動としての表現 そんなこんなで、豊かさから生み出されたものを見ながら、民衆運動としての表現をどうすればいいのかという話だった。この辺りはいろいろな人の話を聞いたり読んだりしながらまだ私が私の中だけで反芻しただけで、本当はもっと議論をしたい。ただ、本当にこの議論は難しいというか、議論するには共通認識が必要なのだ。 え、それって売れたくないってこと? え、それって投資しないってこと? え、それって同業者には共感を得るかもしれないけどメタ的な話で鑑賞者にとっていいものかどうかとは全く関係ない話だよね? え、で結局これって表現したいものがあってそのうえで課される制約条件の話で結局あなたがやりたい表現と理念次第なんだからこの部分単体で言語化しても意味なくない? え、それってFABの話? など、もういくらでも反論は出てくるし、おっしゃる通りです。だからより、悩ましい。理想を掲げて現実と闘っていくが、現実の作品は理想とは程遠いということを自覚してます。それでもやっぱり理想を掲げ運動とし、理念を少しずつこうやって抽象化・言語化しながら作品を作り、闘える現実の範囲を広げていきたい所存です。

May 18, 2024

コンセプトをどこまで語っていいのか問題

とある映像について、評論家が「ここはこういう工夫があって、こういうふうに撮っている。これはこういうことを表現している」ということを語った後、全く別の機会で撮影した本人が「その時電信柱が邪魔でこうするしかなかったんだよなあ」という話をした という話を聞いた。 作品には解釈の余地が残されている 上記のような話を聞いた人の多くは「これだから評論家は。好き勝手なこと言いやがって」と思うだろうが、それは間違いだ。 私の作品は主に写真だが、写真は現実から情報を減らして解釈余地を生み出す作業だと思っている。以前別ポストでも書いたが、現実から時間軸を切り離し、さらに被写界深度を深くしたり浅くしたり、パースをつけたりつけなかったりすることで情報を減らしていき、単なる街の風景にさまざまな視点が入り込む余地を生み出し作品と観覧者の間に自由を生み出す。その解釈余地に少し方向性をつけてみたり、広げたり狭めたりするのが作品作りの大事な作業だと思っている。 なので、解釈余地を残しているのだから好き勝手言っていいというか、言って欲しいのである。他作品を引用したり今の社会を言語化しつつ作品の解釈を与えてもらえるのは本当にありがたい話だ。そして、あらゆる人が好き勝手言ってくれることで作品は作家の手を旅立ち公共性を獲得していくのだ。 余談だが動画は写真よりも解釈余地を狭めるものだと思っている。なぜなら時間軸をつけて視線をある程度カメラワークという形で強制するからだ。 非言語表現でどの程度言語化していいのか 先述の通り作品には解釈余地がある というよりもなくてはならないので、では作家がどこまで言語化を行っていいのかという話だ。最初に書いた例のように実際に撮った人が全くそんなこと意図してませんでした!と言ってしまったらもうそれが模範解答になってしまう。そこに解釈を挟み込むことはできなくはないが結構難しい。作った本人の言葉は強く重い。あらゆる解釈を焼き払う力を持っている。最近Twitterで作家本人が評論家の評論に対して引用リポストする形で公然と非難するのをたまに見るが、一体そんな解釈余地を狭めて何がしたいのかと思う。 コンセプトを語る必要はある かと言ってじゃあ何も言わないでいいのか。作品について何の言葉もつけずスゥッと写真を差し出して黙っているべきなのか。それもちょっと不親切しやすぎませんかという感じがする。最初に出した例はちょっと極端な話で、あそこまで具体的なカメラワークについて語らないにせよ、どういう思いで作りました どういうコンセプトで作りましたという話はしたほうがいいのではないかと思う。理想的には評論家と対話するのが一番なのではないかと思う。評論家の人に一つの解釈を持ってきてもらって、それをベースに対話を行なって解釈を広げていく方向の話ができるのではないか。 ただ、それが難しいのもわかる。今、評論家の数はあまりにも少ない。SNSの広がりによって解釈を与えないで驚くだけの人は増えてきているが、一つの解釈と呼べる言葉を生み出してくれる人は本当に減ってきている。さらにこれは私個人の問題だが、私は美術大学に行ったわけでもなく映像系の学部にいたわけでもないのでいわゆるエスタブリッシュメントな評価軸に乗っかって評価をしてもらえる機会というのはこれから先もほぼないだろう。ありていな言い方をすればSNSを通じてある程度売れなくてはならないのである。 SNSを通じて自力である程度の知名度を確立しなくてはいけないとなった時、自分から語らないというのは不可能というか、もうそれって傲慢だよねって言われそうである。 沈黙は金、寡黙に作品を作り続けたいと思わなくもないのであるが、そういう時代ではないというかそういう形でマスコミュニケーションすることはもうできないと感じる今日この頃だ。 作品自体 以外で語るのは野暮なのか POV動画というものを最近ずっと作っている。ざっくり言うと撮影者が撮影している様子を写して、そのあと写した結果を出すという動画だ。以下は私のアカウントで一番再生してもらえてる東京メトロ竹橋駅を3Dスキャンしている様子の動画だ。 この投稿をInstagramで見る Taro Ohtani(@taroohtani)がシェアした投稿 メタ的面白さ というのは結構NGとされているというか、あんまり好かれてないように感じる。 実際上の動画も感想として これは実質iPhoneの宣伝動画? アプリの宣伝動画?ハウツー動画? という感想をもらっている。 つまり、作品で面白さを訴えかけるべきかつ、作品(今回の場合は3Dスキャンした成果物)で面白さを表現しきるべきところ、 そうではなくPOVという形でメタい部分をあえて表に出して面白さを表現しているのでそれはルール違反というかちょっと王道じゃない話だ。 その気持ちはすごくわかる。 作品で伝えるべきところを作品自体でないところで補強していくのはオタク的な楽しみ方であるという話。私もついつい映画を見ていて「あーこのカメラの使い方うまいなー、ライトもいい」とか思ってしまうが、それは同業者の視点であって、そういうメタ的ところをいくら工夫して強調し、パンフレットのインタビューで語っても社会を突き動かすことはない。もちろん作品作りというのはそういった至極具体的な小さなことを積み上げて結果的に素晴らしい作品ができるものと理解しているが、最初からそのメタ的なことをベラベラ語っていいものなのかどうか大変悩ましい。 ましてや繰り返しになるが写真・映像という非言語表現なのにも関わらず、キャプションに長文を書いて補強していいのか。それを自分で書いていっていいのか大変悩ましいところだ。 コンセプチュアルアートとファインアート、SNSの狭間を彷徨う こんな話はファインアートの世の中からコンセプチュアルアートが生まれた時に散々議論・言語化されてきている話なのだろう。私はまだその辺りの文献を読めていないので、少しずつ読んでいこうと思う。自分が思う技術的な面白さをどうコンセプトに落とし込めるのか。私の場合ストリートフォトグラフィの文脈で街を3Dスキャンしているが、写真自体の絵的な美しさを精度が悪いという形で捨てることになっているがそこにどう向き合うべきなのか。高価な機材を購入してスキャンの精度を上げていけばいい話ではないが、全く画質を気にしていないわけでもないし、どこが落とし所なのか。SNSのしかも15秒の縦動画というフォーマットからどうやってコンセプトを伝えられるのか。エスタブリッシュメントな写真映像の流れに挑戦ができるのか。ストリートビューで定期的に全ての街の風景が記録される中で、何を撮って何を訴えかけたいのか。 SNSや作品のキャプションとして発信するかどうかはともかく、どちらにせよその辺りは自分の中では言語化しておく必要があるのではないかと思う。また、とりあえずこのブログには好き勝手書いていこうと思っている。場の空気を自分でコントロールできる・下手におすすめとかで拡散されない場所を作る。好き勝手いう。そのために自分のサーバーでブログを作ったのだ。

May 17, 2024

映像の実存性

どの程度後処理するかをこの1か月ずっと悩みながら作っている。加工すればするほど創作性は出るのかもしれないが、どんどん現実から離れていき単なるクオリティの低いCGになってしまう。かといって写実性を高めればいいわけでもない。即興性、実存性、創作性との距離感がまだわからない。 映像はどこまでも空想を描けるがどこまでも虚構になる。コンピュータやセンサーの進化、分業化と専業化によって資本を投下し続ければどこまでも写実的になることができるが、行きつく先に立ちはだかるのは現実の物理現象という豊かな情報量と、人間の目と脳という高性能なセンサーとレンダラである。 写真では街の光景を被写界深度を深くしたり浅くしたり、パースを付けたりつけなかったりしつつ時間軸を外し切り取ることで、現実よりも情報を整理・減らして創作性と受け手の解釈の余地を生み出してきたが、時間軸が乗って視線を強制する動画や3Dスキャンではどうもまだしっくり来ていない。 映像は印刷であったり映写機などの装置、映画館といった仕組みによって実存性を獲得し、存在感を得たり説得力を得たり様々な形で質量を得てきたが、現在ではほぼほぼスマートフォンでみられるだけになってくる。そんな中でどう質量を持たせられるのか。何らかの上映装置を作る必要性を薄々と感じている。 ただ、映像の中で という縛りが必要な感じもしている。領域を踏み越えたり閉じこもったりを繰り返していく。どこに自分が軸足を置きたいのか探っている。

May 16, 2024