コンセプトをどこまで語っていいのか問題
とある映像について、評論家が「ここはこういう工夫があって、こういうふうに撮っている。これはこういうことを表現している」ということを語った後、全く別の機会で撮影した本人が「その時電信柱が邪魔でこうするしかなかったんだよなあ」という話をした という話を聞いた。 作品には解釈の余地が残されている 上記のような話を聞いた人の多くは「これだから評論家は。好き勝手なこと言いやがって」と思うだろうが、それは間違いだ。 私の作品は主に写真だが、写真は現実から情報を減らして解釈余地を生み出す作業だと思っている。以前別ポストでも書いたが、現実から時間軸を切り離し、さらに被写界深度を深くしたり浅くしたり、パースをつけたりつけなかったりすることで情報を減らしていき、単なる街の風景にさまざまな視点が入り込む余地を生み出し作品と観覧者の間に自由を生み出す。その解釈余地に少し方向性をつけてみたり、広げたり狭めたりするのが作品作りの大事な作業だと思っている。 なので、解釈余地を残しているのだから好き勝手言っていいというか、言って欲しいのである。他作品を引用したり今の社会を言語化しつつ作品の解釈を与えてもらえるのは本当にありがたい話だ。そして、あらゆる人が好き勝手言ってくれることで作品は作家の手を旅立ち公共性を獲得していくのだ。 余談だが動画は写真よりも解釈余地を狭めるものだと思っている。なぜなら時間軸をつけて視線をある程度カメラワークという形で強制するからだ。 非言語表現でどの程度言語化していいのか 先述の通り作品には解釈余地がある というよりもなくてはならないので、では作家がどこまで言語化を行っていいのかという話だ。最初に書いた例のように実際に撮った人が全くそんなこと意図してませんでした!と言ってしまったらもうそれが模範解答になってしまう。そこに解釈を挟み込むことはできなくはないが結構難しい。作った本人の言葉は強く重い。あらゆる解釈を焼き払う力を持っている。最近Twitterで作家本人が評論家の評論に対して引用リポストする形で公然と非難するのをたまに見るが、一体そんな解釈余地を狭めて何がしたいのかと思う。 コンセプトを語る必要はある かと言ってじゃあ何も言わないでいいのか。作品について何の言葉もつけずスゥッと写真を差し出して黙っているべきなのか。それもちょっと不親切しやすぎませんかという感じがする。最初に出した例はちょっと極端な話で、あそこまで具体的なカメラワークについて語らないにせよ、どういう思いで作りました どういうコンセプトで作りましたという話はしたほうがいいのではないかと思う。理想的には評論家と対話するのが一番なのではないかと思う。評論家の人に一つの解釈を持ってきてもらって、それをベースに対話を行なって解釈を広げていく方向の話ができるのではないか。 ただ、それが難しいのもわかる。今、評論家の数はあまりにも少ない。SNSの広がりによって解釈を与えないで驚くだけの人は増えてきているが、一つの解釈と呼べる言葉を生み出してくれる人は本当に減ってきている。さらにこれは私個人の問題だが、私は美術大学に行ったわけでもなく映像系の学部にいたわけでもないのでいわゆるエスタブリッシュメントな評価軸に乗っかって評価をしてもらえる機会というのはこれから先もほぼないだろう。ありていな言い方をすればSNSを通じてある程度売れなくてはならないのである。 SNSを通じて自力である程度の知名度を確立しなくてはいけないとなった時、自分から語らないというのは不可能というか、もうそれって傲慢だよねって言われそうである。 沈黙は金、寡黙に作品を作り続けたいと思わなくもないのであるが、そういう時代ではないというかそういう形でマスコミュニケーションすることはもうできないと感じる今日この頃だ。 作品自体 以外で語るのは野暮なのか POV動画というものを最近ずっと作っている。ざっくり言うと撮影者が撮影している様子を写して、そのあと写した結果を出すという動画だ。以下は私のアカウントで一番再生してもらえてる東京メトロ竹橋駅を3Dスキャンしている様子の動画だ。 この投稿をInstagramで見る Taro Ohtani(@taroohtani)がシェアした投稿 メタ的面白さ というのは結構NGとされているというか、あんまり好かれてないように感じる。 実際上の動画も感想として これは実質iPhoneの宣伝動画? アプリの宣伝動画?ハウツー動画? という感想をもらっている。 つまり、作品で面白さを訴えかけるべきかつ、作品(今回の場合は3Dスキャンした成果物)で面白さを表現しきるべきところ、 そうではなくPOVという形でメタい部分をあえて表に出して面白さを表現しているのでそれはルール違反というかちょっと王道じゃない話だ。 その気持ちはすごくわかる。 作品で伝えるべきところを作品自体でないところで補強していくのはオタク的な楽しみ方であるという話。私もついつい映画を見ていて「あーこのカメラの使い方うまいなー、ライトもいい」とか思ってしまうが、それは同業者の視点であって、そういうメタ的ところをいくら工夫して強調し、パンフレットのインタビューで語っても社会を突き動かすことはない。もちろん作品作りというのはそういった至極具体的な小さなことを積み上げて結果的に素晴らしい作品ができるものと理解しているが、最初からそのメタ的なことをベラベラ語っていいものなのかどうか大変悩ましい。 ましてや繰り返しになるが写真・映像という非言語表現なのにも関わらず、キャプションに長文を書いて補強していいのか。それを自分で書いていっていいのか大変悩ましいところだ。 コンセプチュアルアートとファインアート、SNSの狭間を彷徨う こんな話はファインアートの世の中からコンセプチュアルアートが生まれた時に散々議論・言語化されてきている話なのだろう。私はまだその辺りの文献を読めていないので、少しずつ読んでいこうと思う。自分が思う技術的な面白さをどうコンセプトに落とし込めるのか。私の場合ストリートフォトグラフィの文脈で街を3Dスキャンしているが、写真自体の絵的な美しさを精度が悪いという形で捨てることになっているがそこにどう向き合うべきなのか。高価な機材を購入してスキャンの精度を上げていけばいい話ではないが、全く画質を気にしていないわけでもないし、どこが落とし所なのか。SNSのしかも15秒の縦動画というフォーマットからどうやってコンセプトを伝えられるのか。エスタブリッシュメントな写真映像の流れに挑戦ができるのか。ストリートビューで定期的に全ての街の風景が記録される中で、何を撮って何を訴えかけたいのか。 SNSや作品のキャプションとして発信するかどうかはともかく、どちらにせよその辺りは自分の中では言語化しておく必要があるのではないかと思う。また、とりあえずこのブログには好き勝手書いていこうと思っている。場の空気を自分でコントロールできる・下手におすすめとかで拡散されない場所を作る。好き勝手いう。そのために自分のサーバーでブログを作ったのだ。