個人や小さな主体のアウトプットはクオリティが低いからダメなのか
久々にゲームを買った。インディーゲームだった。 子供の頃は結構ゲームをしていた。平成5年生まれ。人生で初めてのゲーム機はプレイステーション1だった。その後中学受験が本格化するまでの間Nintendo64、ゲームキューブでよく遊んだ。一番遊んだゲームは多分バンジョーとカズーイで、次がペーパーマリオRPGだと思う。どうぶつの森も結構やっていたとおもう。 ただ最近はゲーム実況を見ることはあるけれども、自分でゲームをすることは減ってしまった。ゼルダのブレスオブザワイルドは是非やってみたいやってみたいと思いつつも、なかなか手が出ない。ゲームは設計されたストレスを受けて、そのストレスを解消することで楽しい感覚を得るものだと思っているが、その適切に設計されたストレスを受ける余裕がないのだ。 めちゃくちゃ感情を表現しながらゲームをすることもないため、感情の起伏が激しい人のゲーム実況を見てその人と同じゲームをやって追体験することで楽しみを得る様になってしまっている。結構そういう人多いんじゃないか。 その追体験も大作ゲームの実況を全部見る気にもなれず、ましてや自分でもプレイする気持ちになれないのでだんだんとインディーゲームを見てやる様になってくる。最後にやったAAAはデスストランディングだ。 千円前後のインディーゲームは1日2日で全クリでき、グラフィクは簡素的なものか、UnrealEngineのどこかで見たことあるような写実的というかスキューモーフィズム感あるデザインのゲームが多い。なので、感覚としてはボードゲームを遊んでいる様な気分になる。これが結構色々なバリエーションがあって面白い。スマートフォンのハイパーカジュアルよりは中身も詰まっていて全クリの満足感がある。 小さな規模だとクオリティが低い? AAAに対してインディーゲームってクオリティが低いんでしょ?という問があったら、確かにある意味でのクオリティは低いだろう。ワールドは圧倒的に狭いし、キャラクターも荒削りなことが多い。シェーダーもオリジナルで書いてる物は少なく演出上もどこかで見たことある感じになる。操作感のチューニングも詰まっていないと言えばないのだろう。ただ、あらゆる工夫がされていて面白いと感じさせるものが結構多い。もちろんそれは先日書いたメタ的な面白み(いやーうまくやってるなーここの処理 とか、 いやーこうやって開発工数減らすのか)を感じてしまっているのではないかと言われればそうなのかもしれないが、普通にゲームとして印象に残るものが結構ある。それは単なる暇つぶしゲームではない。ゲーム作者の作家性みたいなものを感じることがある。 ゲームに限らず他分野でも個人や小規模がやるとクオリティが低いという話はよく聞く。 複数人の専門家がやるのではなく個人が複数のことをやるため技量が低い かけられている時間が1人*開発期間だけなのでクオリティが低い そもそもかけられる開発期間が法人と違って赤字を掘れないので短い (ゲームでは今ではあまりないが)使える設備に差が出てきて最終的なアウトプットのクオリティが低い しかしこれらが雑な解釈であることはこれだけインディーゲームの魅力が語られている今では説明の必要がないだろう。この辺り後日切り出してまた書くかもしれない。 ゲームデザインで制約事項をかわしていく 小島秀夫のインタビューで以下の様な言葉がある。 オープンワールドなのに人はほとんど出てこないでしょう? そこに開発コストを割かないためですよ。敵(ゲイザー)が目に見えないのもそうです。僕もアホじゃないので、豪華に見える部分とそうじゃない部分を企画段階からすべて計算して、100人弱のスタッフでもつくれる仕様にしているんです。 livedoor news 『日本に本物のクリエイターはいるのか? 小島秀夫監督が「作家性」にこだわる理由』 https://news.livedoor.com/article/detail/18332936/ 小島秀夫をはじめとして、初期のゲームはメモリの制約や処理能力の限界がかなり厳しく、ゲームデザインでその辺りを乗り切ってきたという話を至る所で聞くことができる。 MGSの話 敵兵二人にユーザーのキャラクターを表現するだけでスプライトが6個必要となる。これだと「弾丸を3発撃ったところでスプライトが限界になり,表示できなくなる。 ゲーム・デザインでカバーすることにした。弾が撃てないのであれば,弾を撃たないでゲームとして成立すればよい。 結果として生まれたのが,「敵の基地に潜入する」というコンセプトのゲームである。これが「ステルス・ゲーム」と呼ばれる新しいゲーム・ジャンルを切り開くことになった。 日経XTech 『【GDC】視点をずらして不可能の壁を乗り越える――「メタルギアソリッド」の小島氏』https://xtech.nikkei.com/dm/article/NEWS/20090327/167865/ Nintendoでもまさにそう言った制約とデザインで戦っている 岩田 だから、どうしたら少ないデータで、より豪華に見えるようにするかとか・・・。 中郷少ないデータで、どうすればたくさんの表現ができるかという、こういうことに力を注いでいたんですね。 Nintendo 社長が訊く「スーパーマリオ25周年」 https://www.nintendo.co.jp/n10/interview/mario25th/vol5/index4.html マリオの1-1面のコース設計について 3分18秒あたりからがすごい面白い 何かを作るときに、全く制約事項がないなんてことはない。それぞれがそれぞれの立ち位置で立ちはだかる現実と闘っているのだ。それは例えばメモリが30バイトしかないという制約かもしれないし、逆に1000人の開発メンバーを背負わなくてはならないという制約かもしれない。新しいPS5の処理能力を存分に活かし切らなくてはならないという話かもしれない。どちらにせよそのときに大切なのは「やりたいことをやるために考える」という姿勢だ。実現したい理想がるからこそ、制約事項が壁になる。一体誰がそれをやりたいのかわからない主体性のないプロジェクトでは制約事項という物は往々にして認知できないのだ。 やりたいことを、できる限りを尽くして表現し積み重ねていく。何度も繰り返す。 友人であるギレルモ・デル・トロ(※編注2)やニコラス・ウィンディング・レフン(※編注3)だってそうですよ。みんなもともとニッチな志向があり、やりたいことはインディーズにあった。でも、そういうコアな作品を一歩一歩積み重ねる過程でフォロワーが増えていき、あるときにブレイクしたんです。 livedoor news 『日本に本物のクリエイターはいるのか? 小島秀夫監督が「作家性」にこだわる理由』 https://news.livedoor.com/article/detail/18332936/ 岩田宮本さんがこれまでずっとつくりたいと思ってきた構造のゲームを今回実現できたと感じているんですよね。 宮本 ええ。『マリオ』を使ってマルチプレイを実現させたいとずっと思ってきましたし、長年の夢だったんです。今回は、それはできた感じがします。 Nintendo 『社長が訊く『NewスーパーマリオブラザーズWii』』https://www.nintendo.co.jp/wii/interview/smnj/vol1/index9.html クオリティという言葉は非常に抽象度の高い概念で、本当に広い意味を持つ。ときには非常に客観性を持つ指標として残酷な使われ方をしている。それは3Dプリンターで言うとFFF方式の造形精度が業務用機に対して劣っていると言う話かもしれない。表面のツルツル感・質感が射出成形に対して劣っているが故に安っぽいと言う話かもしれない。iPhoneでの3Dスキャンでは業務用のレーザースキャナに対してぐちゃぐちゃで見た目が汚いと言う話かもしれない。個人の作ったゲームは作り込みが甘くてちょっとイレギュラーなことをするとすぐに壁にめり込んでしまうと言う話かもしれない。撮影・照明さん・カラリスト・コンポジッたー・VFXとあらゆる分野に分かれてそれぞれの人がそれぞれの分野に一生を賭けて向き合っており、その分業から生まれる映像の方がクオリティは高い。 専門家を下げているわけではないし、小島秀夫のようにAAAタイトルでないとやりたいことができないということも全然ありで、無理に個人でやらなくては何かが欠けてしまうという話ではない。 それでも、個人の作るものが、小さな主体が人の心を動かすことがあるのは、ひとえにやりたいと思ったことをさまざまな現実に直面しながらも誠実に表現しようと立ち向かい膝を折らなかったその姿勢があるからである。 やりたいことというのも非常に抽象度が高い話で、日によって変わったりもする。今日は目前の写真の色合いについてやりたい色があるかと思えば、ときには人生の幸せであったり、人類の進歩にどう貢献するという話になるかもしれない。大切なのは身体を動かしながらどの抽象度に於いても誠実に向き合い、表現し続けることなのだ。