資本に対して芸術・文化で対抗できるのか悩む

先日、東京都庭園美術館で開催されていた「開館40周年記念 旧朝香宮邸を読み解く A to Z」を見てきた。 東京都庭園美術館自体には何回か行ったことがあり、以前から建物自体が常設展、そこにその時催されている展示が特別展みたいな気持ちで見ていたので、建物自体に主眼を置いた展示はとても面白かった。 解説も充実していて、本当に贅沢な展示だった。 展示の詳細はほかの方に譲るが、本当にありとあらゆる建築家やデザイナー、家具、カタログから集められて作られている。 単なるコラージュではなく、この家のために作られたものが数多くある。 見ていて、あまりの資本的な豊かさにめまいがするほどだった。 芸術とパトロンシップは切っても切れない関係であることは有名な話で、それは芸術に限らず科学もそうだった。 当時は貴族、今回は皇族のある種のパトロンシップによってこの一つの家に様々な文化が集うことになった。 文化 という言葉の危うさ 文化とは何か という抽象度の問いを立てると収拾がつかなくなることは目に見えている。私も文化とは何かなんで全く自分なりにも言葉にできていないが、うっすらとした問題意識がある。 文化 と名の付くもので最も身近なのは伝統文化ではないか。 伝統文化という言葉で言うと例えば歌舞伎、能、落語、各種神事などがまず挙がるだろう。これらは日本の伝統文化ということで”歴史”に残すことは既定路線だ。 代々家業として伝統文化を支えている人々がいるし、その伝統文化を鑑賞する人たちも一定数いる。日本に限らず往々にして伝統文化は社会的な階層の上にいる人々に鑑賞され、文化を守るという言葉の元支えられる。 神事はちょっと毛色が違う感じもするが、例えば神事の中で派手な各地に残るお祭りは神社を通して祭りの役員が結果的には地主から選ばれることで強固な”地域”を作り出すことで神輿を担げる地元の人と、地元の人じゃない人を生み出すことから、構造的に社会階層を固定化および安定化させることに一役買っていることは明らかだろう。 もちろん私はその伝統文化が持つ美しさやそこを支える人々を指さしてあれは現代においては資本にまみれたものだから下品なものだというつもりはない。 十二単の色は間違えなく美しいと感じるし、歌舞伎は面白い。また、その分野にいる方々が様々な方法で基礎となる型を身体にしみこませた上で、素晴らしい新たなものを作り出していることも知っている。 ただ、既得権益の方向を向いて作られていることは間違えがないし、表現者側に参加する機会はあまり開かれていないことは間違えのないことだ。 歴史というものがどのように紡がれるかは最近だとガザ地区の問題や映画『オッペンハイマー』を見ればいかに暴力性をはらんだものであるか言うまでもない。 文化やアートというものの要素のうち少なくない割合が”歴史として残す”ということを志向している限り、この暴力性は免れないものである。 であるからにして、「資本に対抗する手段としての文化」というのはちゃんと文化側の因数分解を行ってから語らないと成立しないのだ。 資本が紡ぎだす文化と歴史 ストリートアートですら資本という大きな力に飲み込まれている。 目下、いわゆる「ストリートアート」は極めて表層的に消費されている。バンクシーやKAWSはSNS及びマーケット上にセレブリティとして君臨し、かつて有していたカウンターカルチャーとしての側面をもうほとんど持ち合わせていない。「反逆の神話」(ジョセフ・ヒース、アンドルー・ポター)と批判されかねない、肥大して陳腐化した「ストリート」的な〈イメージ〉に、私はあまり興味をそそられないでいる。 TokyoArtBeat 中島晴矢『ストリートとアート:「路地裏」から生まれる革新的な文化史 【シリーズ】〇〇とアート(2)』 https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/streetandart 売れていることを非難しているわけではない。売れている人を見つけ次第指さしてあれは大衆だなんていうのはもってのほかだ。そうではなく、あまりにも速度感が早く規模感が大きすぎてもうそれって違うものになってしまっていませんかという話なのだ。 あと、本人が望んでいるかどうかというのもまた別の話だ。バンクシーというブランド名のようなものは資本に屈したかもしれないが、バンクシーという作家自身が資本になり下がったという話ではない。なぜなら作品は作家の手を離れた瞬間に作家だけのものではなくなるからだ。そうではなく、作家の手を離れる時点、発表時点でのある種の純粋さみたいなものにたいして問題意識がある。 今回見た展示は建築という分野で建っている場所でこそ超一等地だが、作られたのは少し大きな家だ。なので、各作家が手に収まる範囲で神経が行き届いたものを作っているという信頼がある。 ただじゃあこれが麻布台ヒルズならどうか。大阪万博の大屋根だとどうなのかという話だ。もちろん各人が様々な現実と戦いに戦い抜いた結果の産物だとは思う。そうだとは思うのだが、その規模のものをある一作家が責任をもって隅々までハンドリングしましたというのはもはや傲慢だ。 もちろん大きなインパクトをもたらす作品を私も作りたい。社会全体に問いを立てるような作品にしたいし、歴史に残るようなものに仕上げたい。ただ、じゃあだからと言って単純に物理的に大きなものを作ればいいというものではないし、値段が高くなればいいというものでもないし、いくら予算がでかくても企業のロゴを張り付けてはだめなのだ。 繰り返すが値段が高いからダメだとか大きいからダメみたいな話をしたいわけではない。小規模にやれば自然と手に収まるでしょとも思っていない。 私が知ってるこのあたりの絶妙なバランスを作り出したのはジブリだ。徳間書店の徳間康快の独断によるパトロンシップから始まりスタジオが結成。。高畑功・宮崎駿という巨匠の下、映画という複製容易な表現手法の上で、映画館という100年以上かけて作られたディストリビューション、テレビという暴力を取り入れ、分業体制やあらゆる道具を作り出し十数年に渡るスタジオの構築という仕組みづくりをやってのけて『千と千尋の神隠し』では200人弱を率いて長編アニメーションを作るという偉業を達成した。ただ、それでもいわゆる企業の前提となるゴーイングコンサーンとは程遠い状態であることは皆さんが知るところだ。 1人の作家の手から生み出された”原理”みたいなものを小さなインクリメントを繰り返して少しずつ大きくしていくしかない。そこで一足飛びに資本の梃子を使って大きくしてもそれは単なる張りぼてなのだ。 にもかかわらず、現代において”文化”を標榜し始めると、途端に上品で優雅であり、余裕があり、商売的ではなく、寡黙で、政治的ではなく、習得に時間のかかる技術で作られ、師匠がいるか、もしくはどこかのコンテストやアカデミアに担保されている、一般的には有名ではないかもしれないが、その界隈では言わずと知れたものを指すことになってしまうのだ。なぜなら文化を標榜することは、それすなわち歴史に残す価値があるかどうかという話になってしまい、それを自分では判断できないし、ましてや主張し、高額な金額を正当化できないので、先ほど挙げたような何らかの客観性と一般性がありそうな価値評価軸を導入して飲み込むからだ。 じゃあ有名飲料メーカーが10億円投じて町中に張り出しテレビでのべ数千万回再生される映像を作ったほうがいやでも印象に残る。麻布台の住宅を薙ぎ払って個人にはどうすることもできない、何なら森ビルの社長でもどうすることもできない巨大な建物を建てれば歴史に残る。やってることが古墳と同じなのだ。 なので資本に対抗する手段としての”文化”や”芸術””アート”はもはや作家の安住の地ではないし、一歩間違えればインプットが豊かな資本的に豊かな作家しか表現側に回ることができないある種の加害者側に回ってしまう危険な言葉なのである。 参加可能な方法で表現するということ じゃあどうするよって話なんだが、逃げるようで悪いがタイトルにある通り悩んでいるのだ。今のところ(2024年5月18日現在)2つ軸を据えつつ面白いものを作ろうと奮闘している。 1つ目 容易に参加可能な機材で表現する まず1つ目は特殊な機材をなるべく使わないで映像表現をすることだ。いや、カメラを持ってる時点でもう豊かなのよと言われればそう。そもそもPC含めて持ってるものすべて量産効果があったから技術開発・生産が進んであなたの手にあるんですよねと言われたらそうなのだ。だからもうそれでアウトと言われればそうなのだが、私なりにピーキーな機材を使わないように努めている。今持っている機材の範囲で、とんでもない業務用機は使わない範囲のもので60回払いでぎりぎり買えるものの範囲で工夫して何とかいいものを生み出せないかもがいている。 3Dスキャンなんてカメラよりも青天井の世界で建築現場で使われる数百万の機材を使えばいくらでも精度を上げることができ、月々数万円のサブスクリプションの高級ソフトウェアを使えばテクスチャもメッシュもきれいに仕上がるだろう。ただ、それだとほとんどの人は表現者側に回ることができないし、僕自身も成果物がペイするかどうかというところに振り回されてしまうのである。もちろん私の成果物が何らかの形式で少なくとも1000万円では売れるでしょという状態になったら使ってみるのかもしれないが、もうそれはなんか別種のものだ。今手元に手に入り、できる限り多くの人が同じことをしようとしたとき機材面では何とかなる(とはいえiphoneももう十分高くて私も追いつけるかどうかわからないが)ところで表現を模索したいと思っている。 ただこれもある種の危うさをはらんでる話だとは思う。また別の機会に『クオリティと資本』という投稿をする予定で、そこで書くつもりだが、この機材面での妥協はある意味ではクオリティに対する妥協になりかねず、アマチュアイズムになってしまう可能性がある話なのだ。精度がいいほうがいいならそこはもうガット投資してクオリティを上げて面白いものを作れよという話なのかもしれない。僕の中ではイヤーそれは違うものなんだよねと思ってはいるのだが、iPhoneでの3Dスキャンが精度という価値評価軸においては雑なものになっているのも間違えない。別にそこに妥協しているって話ではなくて、さっきも書いたがそれはもう別物でしょってところなのだがこの辺りまだちゃんと言葉になっていない。もうそれはプロじゃないじゃんと言われたらそうなのかもしれない。 iPhoneでやってるなんて単なる”やってみた”じゃん。何なら技術に向き合ってないってことじゃんと言われそうだが、こう、ちょっと別種のものなんだ。 2つ目 SNSで有名になる これも賛否両論というか、否定的な意見のほうが多いと思うし、何なら1つ目よりもっと整理できていない部分なのだが、いま私はSNSに軸足を置いて基本的な知名度と評価を獲得してそこから少しずつ範囲を広げていこうと思っている。出すかもしれないしそっちで売れちゃったら謝るが、コンテストとかにはあまり積極的には出していない。 これは私がSNSというものが元来社会的階層や資本的な差と知名度が連動していたところに風穴をあけた革命だと思っているからだ。発信力・知名度というのは基本的には権威、地位、資本力と比例するものだった。もともとは教会や城のようなものを建て支配する者の発言が力を持っていたし、印刷が生み出されてからは輪転機を持つものに大きな力が生まれていた。そこにインターネットができてSNSができ、必ずしもそれらとは連動しない知名度の分布変化が起きたのだ。 もちろんこれは功罪あってしょうもないものが影響力を持ってしまうこともしばしばあるというかそのほうが多い。炎上というのはまさに発信力・影響力を得るために今までは様々なフィルターを経て洗練されたものしか得られなかったところにそうじゃない方法でその力が付与された結果生み出されたものだ。 ただ同時に、そういったエスタブリッシュメントに依拠することなく社会に影響を与えられる唯一といっていい手段だとも思っている。 以前は広告もそうなのではと思っていたが、考えてみれば資本の分布がこれほど偏ってしまった現代においては広告ももはやエスタブリッシュメント側だ。 SNSなんて下品な、ましてや15秒の縦動画なんて邪道Of邪道な方法で、そういったメディアでバイラルすることを志向してつくられた表現作品なんてゴミだという意見もすごくわかる。 すごくわかるのだが、民衆的な運動として知名度を獲得していくという前提が私にとってはとても大事なことで、そのために表現を曲げているといっても差し支えない。それほど草の根から広げることを重視しているのだ。 個人的に一番妥協しているのは動画につける曲だ。Instagramのリール動画はトレンドの曲を使う時とそうでないときで再生数が段違いだ。トレンドに乗っている曲がだめだという話ではないが、普段聞いていて雰囲気が合いそうな曲を使いたいところだが、それは知名度ブルジョワジーにのみ許された贅沢なのである。 民衆運動としての表現 そんなこんなで、豊かさから生み出されたものを見ながら、民衆運動としての表現をどうすればいいのかという話だった。この辺りはいろいろな人の話を聞いたり読んだりしながらまだ私が私の中だけで反芻しただけで、本当はもっと議論をしたい。ただ、本当にこの議論は難しいというか、議論するには共通認識が必要なのだ。 え、それって売れたくないってこと? え、それって投資しないってこと? え、それって同業者には共感を得るかもしれないけどメタ的な話で鑑賞者にとっていいものかどうかとは全く関係ない話だよね? え、で結局これって表現したいものがあってそのうえで課される制約条件の話で結局あなたがやりたい表現と理念次第なんだからこの部分単体で言語化しても意味なくない? え、それってFABの話? など、もういくらでも反論は出てくるし、おっしゃる通りです。だからより、悩ましい。理想を掲げて現実と闘っていくが、現実の作品は理想とは程遠いということを自覚してます。それでもやっぱり理想を掲げ運動とし、理念を少しずつこうやって抽象化・言語化しながら作品を作り、闘える現実の範囲を広げていきたい所存です。

May 18, 2024