TaroOhtaniBlog

日々の記録と書評、まちづくり、FABについて

2025 06 04 作家を目指すべきなのか

作家を目指す ということは言おうと思えばいえる。 目指すというか、作家ですといえばもう作家である。 ただこれが写真の場合はちょっと難しいと感じる。作家ですというために必要なものがあるような感じがしてならない。 そして私は作家を目指すべきなのかどうか少し難しい。べきというか、したいというか。 写真はまずこの定義もあいまいだが写真家とフォトグラファーに分かれている節がある。 クライアントワークを主とするフォトグラファーと、クライアントワークではない作品作りをする写真家。 フォトグラファーで活躍した人が写真家として作品を発表することもあるし、写真家として活躍した人がクライアントワークをやることもあるが、 どちらに軸足があるかで結構印象が変わると思う。 本当にごく一部を除いて、基本的にはフォトグラファーをしつつ、作品発表を行うという人が多いのではないか。 自分の写真を振り返ると、これは作品として呼べるのかどうか非常に悩ましい。 もちろん自分がいいと思って出したもので、特にSNSに上げているのは気に入ったものかつ、それなりに時間をかけてレタッチをしたものだ。 レタッチといっても色調整やジオメトリの調整だけで、何かを合成しているわけではない。 しかしそこに何か主張したいものがあるのかというと、そこまで主張したいものを撮っている感じもしない。 何か感じるところがあって取るところまではいいのだが、そのあと組み写真を作るなり何なりして、主張を織り込むステップがあるべきなのではないかと最近思う。 何らかの主張、伝えたいことがあって初めて作品と呼べるのではないか。そうではなければ記録に過ぎないのではないか。 記録に過ぎないといっても写真は記録性から逃れることはできない。現実の出来事を写すという点で必ず何らかの記録になる。 なので撮影して公開すれば「こういう光景があってなんかいい感じだね」ということは伝えられるのだ。 これは写真の大きな力だと思う。 しかしながら、「なんかいい感じだね」というビジュアル的なものだけだと、それは作品と言えるのだろうか。 ちょっと観光写真というか、記録写真すぎるのではないかと最近感じるようになった。 写真を撮りためていく。無意識でもいいので何か感じるところがあったところでシャッターを切る。 それを見返しながら考えをめぐらす。そして、写真からにじみ出てくる主張をつかみ取り、必要があればレタッチをするべきなのではないかと思うようになってきている。 何を主張したいのか。それがなければ作品にはならないのか。そんなこともない気はするが、それが必要な感じもする。 それを考えねばならない。 一枚一枚の写真についてこれはこういうことかなと考えるのと同時に、その展示全体を通して、その雑誌・シリーズを通して、作家としての作品全体を通して それぞれの抽象度で考えなければならない。 では私は都市に何を見ているのか。 光と影を撮っています!みたいなのはあって、もちろんそれはそうで、その美しさみたいなものはあるけれども美しさを伝えたいという感じはちょっと薄い気もする。 むしろ幾何学的美しさから少し外れたところを撮ろうとしている感じがある。 幾何学的美しさを撮るのであれば、でかいビルに行って建築家の作った美しさを撮り続ければいい。それも嫌いではないし、西新宿の写真は今でも撮りに行きたくなる。 しかしなんだろう。そのつくられた、完璧に設計された美しさよりも、偶発的にできた光景に面白さを感じる。 それを「東京有機」では「無機物の塊であるはずの街に有機性を感じることができる」という言い方で表現をした。 しかし、それではあまり伝わらないということらしい。らしいし、もう少しこう、社会に通底するメッセージとしての打ち出しをしたい。 単純に言えば再開発反対とか、生活感が染み出してきているのを撮りたいみたいな話な気もするが、なんかしっくりこない。 これらはかなり重要な部分をバッサリ切り落としてしまっている感じがある。 例えば工事現場の写真にも私は何かを感じるし、レインボーブリッジのふもとの写真にも何かを感じる。 築地には魅力を感じたが豊洲には魅力をあまり感じない気もする。 スカイツリーの見える京島の光景には面白さを感じるが、麻布台ヒルズが見える虎ノ門の光景にはあまり興味がわかない。 団地には興味を感じるし、タワーマンションが立ち並ぶ光景にも圧倒されるが、吉祥寺の住宅街にはあまり魅力を感じない。 東京の街並みはいくらでも歩くことができるが、厚木の街を長距離歩くのは苦痛な感じがする。 もっと言うと世田谷とかもどうなんだろう。あまり足が向かない。 東京の東側にいたせいか、東京の東側に魅力を感じるが西側には感じていない。 どちらかといえば東側の方が殺風景であるはずなのに。 こういうと下町が好きなのか?と思うのだが、なぜ下町が好きなのか。生活感のしみだしという意味では、 西側の住宅街こそ生活感であるはずなのに。 故郷の発見みたいなところに興味があるのかもしれないが、それがどうしてこういった写真になっているのだろうか。 東京に限っているが、東京に限らないのかもしれない。 スナップする以上の何があるのか。 都市論みたいなものから入っていくべきなのかどうか。いや、出来れば自分の写真を眺めていて湧き上がってきたものがいいだろう。 どうするべきか、かなり悩む。

6月 4, 2025 · Taro Ohtani

2025 03 11 なにで居場所を作りたいかという話

身もふたもないわがままな話。相談に値しないほどどうしようもない問題。そんなことを世の中の人はどのように解決しているのだろう。 いや、解決しない。どうやってバランスをとって生きているのだろうか。 それはもしかしたら推しのアイドルに夢中になることかもしれないし、ゲームをすることかもしれないし、仕事に熱中することかもしれない。家族と向き合うことかもしれない。 バランスしていると一言に言っても様々な形がある。両足で立ってる人もいれば両手で皿回しをしながら片足て立っている人もいる。 地に足ついた なんて言葉、ある意味でバランスしている自分には関係ないと思ってきたが、本当にちょっとしたことでバランスを崩してしまってやっとその意味を噛みしめることになる。 1月末にコロナになってしまい10日間寝込んだ。うち7日間はほぼ完全に横になっていた。それぐらい症状はあった。 だけれども幸いなことに咳などの後遺症は残らず、きれいに治ったと言える状況だと思う。 どちらかというと響いたのはその7日間ずっと考え事をしてしまったことだ。 こう書くと、そんな考え込みすぎるのはよくないよ という言葉をかけられると思うが、そうではなくただただ現実を直視しただけだ。 “現実”を直視した結果私の生活は半年持たない。何なら5月の家の更新までに引っ越さなければならない。 そして、仕事を探さなければならない。さらにその仕事をするためにはある薬を飲まないとなかなか厳しいというのが現実だ。 しかしながらそんな現実を確認しても全く動く気になれない。なんでだろう。 危機感が足りないとか、結局のところ生活は何とかなると楽観視しすぎているとかいろいろ理由を考えたが、 多分だけれども私はそんなことよりも自分が生きていく居場所を自力で見つけ出したいということに注力しているからだという結論に至った。 自分の存在証明をしなくていい。自分の表現で、その表現自体が私に居場所を与えてくれるような状態になりたいと心から願っていて、 その表現手段が私の場合は写真だったということなのだと思う。 結局のところその居場所が仕事で与えられても、それは私を少しも救わない。 学歴が付いたとしてもそれも私を何一つとして救わないのだ。

3月 11, 2025 · Taro Ohtani

2025 01 21 寝れなかった

寝れず、朝まで起きててしまった。なんとなく薬を飲まなかった。

1月 28, 2025 · Taro Ohtani

2025 01 20 自力で寝れた日

本当に久々に自力で寝ることができた。 ちょっと寝方のコツというか、方法を思い出したかもしれない。 治った としたら、それはうれしいこと だとは思うのだが、終電後、東京ができなくなってしまう。 そしたら、私の個性のようなものが一つ剥がれ落ちてしまう。 これは精神的な病気が長い人なら誰もが思ったことがあるのではないだろうか。 もはや個性として一体をなしている感じがしている物が、剥がれ落ちていく。 普通の人になっていく感じ。 それっていいことのはず というか、いいに決まっているのだが、その微妙な不安。 あと、健康になったときに直面する現実。ギャップ。 何も無くなったとき、何ができるのだろう。 そこにいるのは長期間何もしてこなかった人間なのではないか。 昼間撮れない気がする。これも治る不安なのかもしれない。 そしてまた寝れなくなる。 いや、でも寝れた方がいい。やっぱり頭の働きがいい気がする。 頭は働いてもらいたい。

1月 20, 2025 · Taro Ohtani

2025 01 19 とりあえず電車に乗る

とりあえず電車に乗る。 中野に行く。 「おはようもしもしあいしてる」に中野が出ていたからだ。 ただ、なんか撮れない。 眠いだけか。 マクドナルドを食べる。昨日も食べた気がする。 歩く元気がないので帰ることにする。

1月 20, 2025 · Taro Ohtani

2025 01 18 とりあえず歩く

とりあえず歩く。昼間歩けばいいのだが、眠くて動けなかった。 あと、やっぱりどこか昼間に歩きづらさを感じる。 いや、単に昼間の巡行で撮ることに難しさを感じているからだけかもしれない。

1月 19, 2025 · Taro Ohtani

2025 01 17 とりあえず朝歩く

眠れないまま朝になる。とりあえず歩いてみる。 月が沈もうとしている。 前は朝早く起きたときのすがすがしさを感じた気がするのだが、それがない。 朝だという感覚もない。 もちろんそれは夜寝れてないからというのが大きいのだと思のだが、それ以上の何かもあるような気がしてしまう。 朝日を浴びるビルは見れるが、朝焼けは隙間からしか見えない。 あそこのタワーマンションからはきれいに見えてるのだろうか。

1月 19, 2025 · Taro Ohtani

2025 01 16 撮れない気がしている

なんだか今週、写真が全然とれてない。 今までだって送だったのかもしれないけれども、今週はなんだか撮れてないという感が強い。 先日書いた通り健康になってきたからなのか。よくわからない。そういうときもあると流していいのだろうか。 ジムに行くとアプリに自動で記録が残る。さっきジムに行ったときに見てみると、今週は一階も行ってなかったようだ。 これも原因だろうか。 終電後、東京も撮っていない。 その鬱憤がたまったせいか、50mmF1.8 を買ってしまった。またこうやって買い物をして解決をしようとする。良くない癖だ。 でもまあ、それで撮れるならいい。撮れるならいいのだけれど、大抵の場合変化がないのだ。 いったい今まで何を撮っていたのかわからなくなってきてしまっている。幾何学的な面白さを撮っていたような、街の中で発見を楽しんでいたような。 そんな感じがしていたのだが、ここのところテーマを探してしまっている。 コンテストに応募するたびにテーマを書いて、コンテストに落ち続けているのでテーマを考えなきゃと思うのは仕方のないことのような気もする。 気もするが、それで撮れなくなってしまっては元も子もない。 どうしたものか。 とても眠い。今これを21時19分に書いているが、とても眠い。 いいことなのだが、私の場合眠くても寝れないので、薬を飲むかどうかを決定する必要がある。 今薬を飲むとまた“普通”の人の生活リズムになることだろう。 日常的な風景を普通の人と同じように見て、撮ることになる。それでいい気もするのだが、それじゃいけない気もする。

1月 16, 2025 · Taro Ohtani

2025 01 15 人と会う

人と会う。 一週間に1度人と会うのは最近の私にとっては結構ハイペースだ。数か月人と会わないことなんてざらだ。 ただ、普通の人は一週間人と会わないことなんて無いのだろう。 これって結構すごいことなんじゃないか? 人によっては人と会って話さない(店員さんとかはともかく)ということが1週間続くというのは相当な異常事態なのではないか。 もしかしたら、一生そんなことないなんて人も結構多いのではないか。 そう考えると、結構すごい状況を体験しているんだなと思う。

1月 16, 2025 · Taro Ohtani

2025 01 14 昼間、あまりとれず

朝起きる。7時ぐらいだったか。 普通の人が普通に生活している時間帯だ。 薄々思っていたことが現実になってきている。全て治ったらじゃあどうなるのだろう?ということが。 じゃあ深夜起きてしまいますという特徴も無くなったとして、ただ普通に朝起きて夜寝る人になったとき、私には何が残るのだろうかと。 残るというか、何が撮れるのだろうかということが。 とりあえず外に出る。久々に高井戸のミスタードーナツに行く。 高井戸のミスタードーナツは高校時代、いろいろ行き詰まったときに日記を書きに行く場所だった。 今でも同じ場所に残っている。 なんだかんだ書くことも考えていることもあのころと変わらない部分があって恐ろしいやらなんやら。 結局のところあの時も今も、何をすればいいのかを考えている。 当時は受験勉強をするにあたってだった気がするけれども、今は写真で何をすればいいのかを考えている。 いったい何をすればいいのだろう。 昼間、みんなが見ている光景の中で、いったい何ができるというのだろうか。 いや、何も出来ないなんてことはないのだけれども、それが見いだせていない。 この目まぐるしく動く都市の中で、いったい何を発見できるのだろう。いったい何を見いだせるのだろう。 いったい何を伝えられるのだろう。伝わる形に落とし込めるのだろう。 もっと私は伝わるということと向き合わなくてはならない感じがしてきている。 それは決してSNSでバズる物を作るということではない。そして、マーケティングの話とは全く別の話。 広告の話でもなく、人として伝わるということを考えなくてはならない。 わかりやすいものではなく、わざとらしいものではなく、刺激的なものではないけれども伝わるということ。 そして、果たして何かを考えて伝えるというものなのかどうかも向き合いなおす必要がある。 本当に写真というものは、何か設計してこういうことを伝えようと決めて、伝えるという所業なのだろうか? そんな設計的なものなのだろうか。 写真には即興性がある。そして、枚数を打ち出すことができる。絵は1ヶ月で1枚かければいいほうかもしれないが、写真は1日に何枚も取れる。 緻密に設計していって伝えるということもできるが、日々の撮影の中から滲みだすこともできるのではないか。 いや、でもメッセージ性は込めるべきなのだろうか。いったい私は何を伝えたいのだろうか。 そうやって考えて、ある種のデザインを行ってメッセージを打ち出す。そういったものなのだろうか。必ずしもそうでない気もする。 しかしそれでは伝わらないのか。

1月 16, 2025 · Taro Ohtani