2024 11 20 何も手につかない日
人と話すといろいろな作業が進まなくなる。今日は諸事情で6時間ぐらい話したのでなおさらだ。 写真も全然とれていない。 別に神経を使う相手だからとか、どうだとかではなく、何かの体力を減らしてしまうのだと思う。 ただ今日は午後から夜にかけて特別神経を使う話をしたので何も進まなかった。 別に眠くもないし疲れてもいないのだけれども何も進まない。なんだか気味が悪い感じだ。 とりあえず運動するべきなのだろうが、明日撮影の予定なので今日は少し歩くだけにしておく。
人と話すといろいろな作業が進まなくなる。今日は諸事情で6時間ぐらい話したのでなおさらだ。 写真も全然とれていない。 別に神経を使う相手だからとか、どうだとかではなく、何かの体力を減らしてしまうのだと思う。 ただ今日は午後から夜にかけて特別神経を使う話をしたので何も進まなかった。 別に眠くもないし疲れてもいないのだけれども何も進まない。なんだか気味が悪い感じだ。 とりあえず運動するべきなのだろうが、明日撮影の予定なので今日は少し歩くだけにしておく。
久々に海を見に行った。多分お台場とか、羽田とか、海自体を見ている機会はあるのだが、海に行ったという感じはしない。 今日行った海も海岸線はすべて消波ブロックで埋め立てられた海岸なのだが、それでも波が打ち付けるところを見ると海に来たなと感じる。 ただ、あまりにも寒かった。 天気予報で晴れだなということしか見ておらず、行ってみたらものすごい寒い。 東京湾ゲートブリッジの下、若狭公園という突風が吹く場所でさらに寒かった。 本当はもう少し夜景をちゃんと取りたかったのだが、耐えられず帰ってきてしまった。 今、登山ウェアをそろえているのだが、かなり難しい。 ベース、ミッド、シェル とあるみたいで、それぞれ買ってみたのだが完全に寒かった。 帰りにお店によって聞いてみると、サーマルレイヤーという止まってるとき用のダウンをリュックで持っていくのが普通らしい。知らなかった。 あと、シェルレイヤー?に相当する部分がソフトシェルで背中部分が通気性のいい素材になってるものなのだが、そのせいか知らないがとても寒い。 ベースについては最初薄手のものを買っていて、あまりにも寒いので中厚手にしたのだがそれでも寒い。 中厚手にすれば寒いことはそれほどないといろいろ調べても書かれているのだが、東京の平地を少ない荷物で歩くと運動量が足りないのだろうか。 シェル の部分を強化すべきなのか、ベースの部分を厚手にするべきなのか悩む。 そもそも、寒さなんて言うものは人によって違うのだから、どのようにみんなはしているんだろう。やっぱり最初は試しては買いなおし手を繰り返すのだろうか。 しかし買って試すという予算はない。 歩いてるときの服装も難しいし、写真を撮るため留まっているときの服選びも難しい。これでさらに山になって天候と運動量の変数が大きく変わるとしたら猶更難しいだろう。 これは大変な沼かもしれない。
まず、久々にコインランドリーに行った。長距離歩くために使っているスニーカーを洗うためだ。 あまりやたら洗いたくなかったけど、前回の撮影の時に銀杏を大量に踏んでしまって、あまりにもにおいがひどかったので洗濯した。 靴は洗濯に20分、乾燥に40分。今回は余り汚れが取れていなくて2回洗ったので全部で80分本を読んでいた。 読んでいたのは「コモンの「自治」論」 https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-737001-0 私自身育てられてきた価値観としては明らかに治安が良く、きれいで、開発差れた場所を好むように育てられてきたと思う。 で、いまだに実際きれいな方がいいし、治安はいいほうがいい。エンジンをふかす車は少ないほうがいいし、酔っ払いが多い場所にはあまり行きたくないし、トイレは洋式がいい。 だけれども、再開発に対しては結構強い違和感があるんのだが、この自治という言葉はすごくいい切り口かもしれない。 タワーマンションでもいいのだが、住宅街からタワーマンションになると自治が失われてしまう。個人商店じゃなくてイオンでも同じ機能かもしれないが、自治が失われる。自治が失われた結果、なんとなくとどまれる居場所がなくなってしまう。すべてが消費行動をするためだけの場所になってしまい、消費行動・購買行動以上のつながりが消えてしまう。その結果、東京という都市ではお金があり消費を続けて行えないと居場所を失ってしまうという漠然とした不安感に襲われているのかもしれないと思った。 もちろん、自治会などを面倒くさいといって私自身参加してきていないし、何ならそういった逃れられないウェットな関係をなんか怖いと思ってしまう。 なんか怖いと思ってしまうのであらゆる面倒くさそうなことを排除してお金を払えば終りの関係に落とし込んできたまさに当事者だと思う。 だけれども、失って初めて気が付くなんとやら。チェーン店で全国どこでも同じ味のものを日々食べ続け、店員の人との会話はない。会話しようものならそれは迷惑行為だという場所で、食べ終わったらすぐに出ていくということを繰り返していると食事がだんだんおいしくなくなってきたりする。 個人店に行きたいなと思っても、1000円越えでなかなかいくことができない。いくらかかるか事前にわかりにくいし、通って知り合いになったらなったで、なかなか行けないのでなんとなく前を通り過ぎづらくなってしまいそうなので個人店に入る勇気が出てこない。 どんどんと消費行動以外の関係性というものを忘れてしまう。消費行動では合理化できない贈与的な何かをされると、なんか打算的な物があるんじゃないかと勘繰ってしまうようになるという悲しい状態で、何とかそれを抜け出したい。 自治に参加するというのは、そういう寂しさのようなものから脱するヒントになるのかもしれないなと思った。それこそまずは自分が持っているスキルで手伝えることをするというのがいいのではないかと思った。思ったのだが、以前とある開発反対運動に参加したところそれなりにひどい目にあったのでやっぱりちょっとなあと思ってしまう。難しい話だ。 洗濯が終わる。外に出ると雨が降っている。天気予報では雨が降るとは言っていなかったので傘がない。フードを目深にかぶって歩く。段々と晴れてくる。しかし、雨脚が強くなる。これは虹が出るのでは?と思って空を見上げると、ビルで空はあんまり見えない。でも、ビルにきれいな虹がうつっていた。僕もタワマンに住めば、東京にかかる虹がいつも見れるのだろうか。
首のけがから約半年、やっとジムである程度動けるようになってきている。かなり気を付けながら、最低重量から始めている。 よく、これだけ運動しているからジムなんていく必要ないでしょ、贅沢だよという話をされるが、結構普通の運動とは別物だなあと感じる。 普通の運動というか私の場合撮影で歩くというのが運動になるのだが、結局これは無理をできない。無理をしたらけがになるし、最悪帰れなくなる。 東京の街の中なので帰れなくなるということはないのだが、やっぱり無理はできない。なるべく荷物は軽くするし、なるべく負荷のかからない歩き方をする。 道中で無理が来たなと思ったらもうそれは時すでに遅し。帰路を考えて相当な余裕を残した状態で判断しないといけない。登山とかならこのあたりは常識だろう。 しかし、ジムは家からそれほど遠くないところで空調が聴いていて、適度に無理ができるのだ。へとへとになるまで追い込んでも、終わったらほぼ手ぶらで帰ることができる。 このへとへとになるまで追い込むということは先述したような一般的な運動ではしてはいけないことだ。なので、無理のない範囲でできることにとどめることになる。 無理のない範囲を広げていくには負荷をかけなくてはならないので、結果的にジムなどの安定したところで無理をするか、ランニングや水泳などでちょっとづつ距離を伸ばしていくのどちらかになる。 ランニングについても、よくあのゴムベルトの上で走るよりも景色が変わる外を走ったほうがいいといわれることがあるが、やってみると結構別物だということがわかると思う。 自分の意思で走り続けなくてはならない通常のランニングよりも、ベルトコンベアで一定の速度で半ば強制的には知らされ続けるのでは負荷が全然違う。 あと、結局これなのだが時間が短くて済む。自重や外のランニングでは負荷をかけるのに自分の意思や荷重で追い込んでいくことになるので時間がかかる。私は怠惰なのでさっと終わる分にはなんとかできるが、時間をかけてやるほどの気力が持たない。 ただ、家にあったら別なのかもなと最近思い始めている。ジムに行く気力があるのであれば、家にそろっていればもっとやるのかもしれないと。 いや、どうだろうこれだけ多くの人がカフェやコワーキングスペースを借りているのだから、やっぱりジムのような場所に行かないとよほど気力があったり趣味の人を除いてはやらないのかもしれない。 ただともかく、無理をするためにジムには基本行かないと体力が伸びないだろうなと思うという話。 ただここ一週間行けてない。単に怠けている。言い訳はある。結局長距離歩く撮影の前日は温存せねばならず、長距離歩いた翌日はへとへとで動けない。他の用事で外出するとこれまたへとへと。 そんなこんなでいけていない。いい写真を撮るためには必要なのに。 そのへとへとの時にこそ行くべきなんだということを再確認するための文章でした。 で、ジムとかジムじゃないとかいろいろ書いたけれども、いつも忘れてしまうけど、重要なことを思い出した。やれば何でもいいという話。家でもジムでもどこでも少しでも運動すれば何でもいいと思います。
今日は終電後、東京の撮影。 終電後、東京の撮影日はなるべく体力を温存するため、時間までボーっとしていることが多い。 あと、段々と気温が下がってきたので夜8時ごろに炭水化物をたくさん摂るようにしている。 今回の撮影はちょっと反省点として目的地を決めすぎた。目的地を決めすぎると制限時間の中、ペースを見ながら間に合うように歩くため、探索があまりできなかった。 それは地図のかたちにも表れている。 https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=1u6Kj_ud7JC-WGvPB9dVK8rq2mGvmfPo&usp=sharing 結局それなりに大きい道をあっちにこっちにまっすぐ歩いただけになってしまった。これではシャッターも切れない。 せいぜい2か所ぐらいに途中の経由地はとどめないと、このようになってしまうという反省でした。 江戸川橋とか護国寺あたりはもっと探索できた気がする。ちょっと単調になってしまった。 あと、飲み屋街はやっぱり避けたい。神楽坂はかなり厳しかった。だが、それこそが自由なのではないか?治安第一の弾圧を受けていないということなのではないか? このあたりちゃんと向き合って撮影に臨む必要があるなと思った。
ZOOMZ Japan(https://www.cpplus.jp/zoomsjapan/)に出すために印刷をしてきた。 試し用のものもあるが8000円。毎度高いなあと思いつつ、プリンターを買う余裕は部屋のスペース的な部分含めてない。 今回はコピー機の期限がよくてよかった。キンコーズ上野店は4番のコピー機が一番色が安定している感じがする。 金曜日はコピーの料金が少し安い。少し安いので見渡すとあらゆるものを印刷している人がいる。 自作の同人誌、楽譜、製品の説明書、広義に使うための?レジュメなど。 キンコーズがコロナを経て24時間営業を次々と辞めていったとき、ああこれでiPadみたいな閲覧に最適な端末が普及しきってもうキンコーズも終わりなのかなと思っていたが、もちろん縮小こそしているが無くなるなんて感じは全くしない。 何かを配る。何かを掲示するというときに印刷というのはいまだに絶大な力を持っているということを再認識する。 やっぱりなんか印刷は楽しい。プリクラとか昔ゲームボーイでポケットプリンターというものがあったけれどもあれと同じ楽しみ。ものになる楽しみ。3Dプリンタもプリミティブな楽しみとしてそれがあった。いつの間にデータ通りにできないので不機嫌になるようになってしまったのだろう。低解像度でも形になるのが楽しかったのに。 今回の作品は印刷した後手で後加工をして、それをまたスキャンして最終的なものにする。またスキャンしに来なくては。 帰り道、マスキングテープの詰め放題をやっていた。1000円。ちょっと高いなと思いつつ見本の倍は詰められたと思う。 MTのブランディングは本当にすごい。おしゃれなマルシェって感じだった。 でもやっぱ1000円は高いかな。端材だし。700円、500円かなあ。
一歩も外に出ていない。ひたすら動画の編集をしていた。 https://youtu.be/Q6X3UrXSrhk 終電後、東京の編集は多分普通の動画編集よりもずっと楽で、つぎはぎがいらない。 ただただ全部見て、その時思っていたことを思い出しながら字幕を付けていくだけだ。 それでも、ある程度頭のメモリに内容を置きながら作業するので、一気に作業してしまわないと話が合わなくなってくる。 それに、撮影した日から日を開けてはならないという制約もある。 これをしているとテレビ番組の編集とかがいかに大変かよくわかる。マルチカメラで、最終的な時間がぴっちり決まっていて、さらに面白い部分を抜き出すという創作的な部分も入ってくる。 本当に大変なことだろう。それは専用のキーボードとかありとあらゆるソフトウェア、製品が出てくるわけである。 最近公開された「桜井正博のゲームを作るには」の最終回では、編集費用で8000万円近い費用が掛かっていることが明かされた。 https://youtu.be/drV0RYUbYUA?si=02-lS3F05DXwCtJG 一本当たり30万円。多分一般的にはこんな10分ぐらいの動画で、台本もあって、ゲーム画面などの素材はすべて提供してこの値段は高い!と思うのではないだろうか。 ただこの字幕や画面の動きを付けるなど仕組化をしても意外と工数が減らないところがたくさんあるのが動画編集の恐ろしいところである。 音を選んだりするのでも一苦労だ。会社で受けるとしたらそのぐらいの金額にはなってしまうだろうなと思う。月4本コンスタントにということになれば1.5人月とか行ってしまうかも。そしたらもうギリギリすぎる。 僕の場合ストリートフォトグラフィーは一日歩いても全然いい写真ができなかったという大変さがあるので、現状では動画の方が若干楽に感じている。 動画は持って回していればそれなりにストーリー性が出てくるし、音がちゃんと録れていれば環境映像としてそれなりに見れてしまうからだ。 写真は全くダメな時は本当にダメ。街がどうということよりも、自分自身の好奇心が活発な時じゃないと本当に撮れない。もちろんそこには街と自分の相性みたいなところもあるだろう。 最近、動画的面白さを感じている。写真屋さんなので写真の軸はブラさないが、動画でしかこれは伝わらなかったかもなと思う要素がいくつか発見できて来ていて面白い。例えば超高層ビル群は上を向いて広角レンズで撮っても、魚眼で撮ってもなんかその迫力というか圧迫感みたいなのは伝わらないが、動画だと伝えやすい。見上げて下がってくるという時間を使った絵で伝えることができる。 あと、こんなにずっと静かなんだという今回の作品の重要な部分も5時間という長さで伝えきることができる。演出に時間軸が使えるということはこれほど豊かなことなのかと実感する。同時に、かなり視線・視点を強制してしまうので余白が狭いものになるなとも感じるが。 今ちょっと写真の出来が悪くなっている。動画が面白いというのもあると思うし、体調的なものもあるかもしれない。でも結局そういうときも撮り続けるしかないんだなと思う。
InterBEEという展示会を見に行った。一応映像系の展示会ということで年に一回開催される。 かれこれコロナを挟んで4ぐらい通っていて、毎回近くのカレー屋の食べ放題を食べるのが恒例行事となっている。 さて、こんな感じで恒例行事だから展示会に行っているが、毎年の差分は段々と小さくなる。 中身で大きな違いを感じることはあまりなく、新製品の情報は事前に知っていてもちろんそれを手に取って試せるというのは大きいのだが、 それにしてもこんなに大規模な展示を毎回数千万円かけて作っては数日間開催したらまた壊してということを繰り返す意味はないような感じがする。 意味はないような感じがするのだが、効果があるのが展示会のすごいところだ。実際、コロナでなくなっても復活しているし、オリンピックでビックサイトが使えなくなったときはありとあらゆる会社が本当に困っていた。 まず中小企業にとって、新規営業先開拓の手段が事実上展示会しか存在しないというのはわかる。特に製造業とかは実物を見せる効果は高い。エンジニアの人がブースにいれば普段できない話もできる貴重な機会になる。流通業にとっても店舗販売をしておらずショールームを持っていなければ実物を多くの人に見せるいい機会になる。 大企業はとてつもなく大きなブースをコストをかけて出すことでその業界に対するプレゼンスを維持するという意味合いがあるだろう。 今回はInterBEEという映像業界、特に放送業界の展示会だが、放送業界の中という非常に狭い(といっても広いほうだと思うが)世界に対してコミットメントを示すことができる。 ドイツのケルンで行われている展示会と、ラスベガスで行われている展示会に行ったことがあるが、あちらではさらにアフターパーティーで豪勢なイベントを開くことも多く、立った数日間にかける費用は桁違いだ。 そのぐらい、toCというよりもtoB、つまり業界内の知名度というのは重要ということなのだろう。これは顧客企業のみならず業界紙などのプレスに対する意味合いも強い。 会社内の統率という意味でも、何らかの外部の締め切りがあったほうがいろいろまとまりやすい。広報関係の部署を中心に何かを完成させるということをするために展示会は一役買っているのだろう。実際、展示会では参加した社員全員で記念写真を撮るなど、お祭りというか学園祭的要素も強い。 参加する側としても展示会であれば平日の業務時間内に行けるという大きな意味がある。場合によっては出張費も出るだろう。不謹慎な言い方をすればちょっとした旅行気分で情報収集ができるのだからこれほどありがたいことはない。ショールームに単独で行くのに出張費はなかなか出ないだろうが、展示会ともなればそれなりのまとまった人数分出してもらう交渉はしやすいだろう。 そんなこんなで結局効果がある展示会。 でもやっぱりそこに数億円かけて大量のごみを毎回生み出し続けているのは無駄だなあと思ってしまう。モーターショーともなればモックアップ一つで数億円。コンセプトを示すためだけに作られ、捨てられてしまう。そんなショーを永遠と繰り返してしまっていいのだろうかと思う。1年にい1回でも大規模なものとなればもうそこにフルタイムの人が何人もついてやっとだろう。先述の通り昨年のに加えてプラス新製品という形になるだろうから、段々と陳腐化してきてしまう。 結局のところ、ルッキズムとはまたちょっと違うけれども、実際にでかいブースがある、たくさんの社員の人がいる、豪華なノベルティ、実物を触ってみることができるということに私たちはあまりにも弱いのだろう。だからこそここまでAmazonで返品が容易になっても駅前にヨドバシカメラが幅を利かせ続けている。 情報がいくらでも入る時代、事前に隅々まで比較して調べることができる。何なら実物を見たり店舗に行ったりするころにはほとんどもう決まっている。だけれども最後の一押しはやっぱり人と話しながら、実物を見ながら店舗なのかもしれないなと思う今日この頃だ。なんかいやだけど。
一昨日少し書いたが、今やっていることについてもうひとひねりというか、別にひねらないでもいいんだけどもうちょっと精緻に言語化する必要がある感じがしている。 それがないせいで、段々と写真が撮れなくなってきている。 写真は幾何学的に面白いところを撮ればとりあえずは成立するのだが、そうすると対象は段々と限られてくる。 郊外を歩けば幾何学的に面白い部分は少なく、どうしても都心に偏重してしまう。それに、何らかの通底するテーマに沿って撮りたいというのが贅沢かもしれないが、最近の希望だ。 もちろん、街の中である特定の角度から撮るとおもしろかったり、きれいな角度を発見するというのは面白いのだが、それだけでは満足できなくなってきている。 「終電後、東京」(https://youtube.com/playlist?list=PLeKhZDtYiZfHiRLI-D-7ixPiETt6AZLf5&si=TT61a8QLLq94oamw)は平和のメッセージとして撮っている。 深夜、都市部をそれなりに高価な機材をもってこれほどうろつくことができるほど平和な街もそれほどない。この先どうなるかわからないし、東京の中でもそういう場所ばかりではないがかなりの範囲特に治安を気にせず撮影しながら歩くことができる。 同時に、“治安”という言葉と否応がなしに向き合わされる。こんなに治安がいいなんてことはあるのだろうか?あっていいことなのだろうか。もはや、何かを弾圧した結果なのではないのかと思えてくる。1925年に制定された治安維持法が1945年に敗戦しGHQによる人権指令に基づいて廃止された歴史を振り返るに、我々は治安という言葉がいかに危ういものかを知っているはずだ。 しかし、東京は安全、安心、防犯のためといってありとあらゆることをしてくる。最終的には張り巡らされた電車を使って外へ外へと追いやってしまう。 何も追いやられるものは“不審”な人だけではない。開発を行い人々の生活事態も外へ外へ、ドアの中へと押しやっているのだ。その結果がこの気味の悪いほど静かな街なのではないかと思って撮り続けている。 なので、毎回同じような絵でもここでもそう、あっちでもそう。ここは生活感が染み出しているなといった観測としての意味合いはあるのだが、若干メッセージ性としては弱い感じがしている。 いや、でも、ストリートフォトグラフィーというのはそういう地道な観測の継続と積み重ねなのかもしれない。ここで下手に創作性を入れて写実性を削いでしまったり、わかりやすさをことさら強調しないほうがいいのかもしれない。 ただ、いや、何とも言えないのだが、もうちょっと伝わる形を模索しないといけない感じがしている。
自分の考えと自分の行動、自分のやりたいことに矛盾が生じてくる。そんなことはよくある話なのだが、私は自分でいうのもおかしいが比較的その矛盾に対し自罰的に考え基本的に行動しない方向に向かってしまう。 で、それはよくないので何とかしないとなという話なのだが、今のところうまい解決策が思いついていない。うまい解決策が思いついていないので無理くり飲み込んでいる。 別に無理くり飲み込まないでも、あの考え方は変わりましたでいいといえばいいのだが、さすがに原理原則すぎて変えられない考え方があり、その矛盾が取り除けない。 原理原則な考え方は非常に抽象的な考え方なので、あらゆる具体的な行動に対して影響を及ぼし矛盾を生じさせる。 こういう感じで矛盾しているんだよね と誰かに相談しても、矛盾しているんだからどっちかどうにかしなよで終わりである。 最近友人から教えてもらった一つの解決策は、矛盾しているけれども主張はし続けるというやりかただ。 つまり、主義主張として発言していることと、具体的な行動が矛盾しているが、それでも主張は続けるということだ。 例えば環境問題を指摘しているが、同時に飛行機で旅行にはいきたい。そうした時に、環境問題を指摘しながら旅行に行っていいということだ。全く環境を気にしない人よりも、環境を気にしてちゃんと主義主張としてまとめて発言しながら旅行している人の方がよっぽどましだということだ。 たしかにそうかもしれない。 いやでも、何とか折り合いをつけようとすることが、結果的にいい作品を生むのではないか。 でも折り合わないことばかりだ。どうしたらよいのやら。